
怪物(映画感想文)
ずっと気になっていて、
配信されていたのに気づき観ました。
,さんの考察を交えながら、感想を書いていこうと思う。
時系列で書いていないので、鑑賞した方のみ分かる内容となります。
「怪物」を観て一番強く感じたことは、
「これは人間の縺れの物語だ」ということ。
それぞれの人間が固有の悩みや苦しみを抱えている、"世間"や"普通"という言葉に代表される"固定観念"の枠組みに捕らわれている、"対話を閉ざした瞬間"の積み重ね、小さな嘘の積み重ねなどが、絡み合っていき、真実を紐解くことがどんどん困難になっていくそんな物語。(関係者が多ければ多いほど、事態は複雑になっていくということも観ていて面白かった。)
4人をピックアップし、
それぞれの立場で少し紐解こうと思う。
まず母親の麦野早織に関して。
他の要因もあったとはいえ、自分の発言をきっかけに湊に「嘘」をつかせ、その湊の「嘘」を信じ、学校側に「本当のこと」を求め、依里の「嘘」を信じ、その結果世間に対して保利(湊の担任)に「嘘」をつかせて窮地に追いやった早織。
結局早織は映画の最後まで真実に気が付きません。しかしこの時(湊が豪雨の中失踪したと思われた時)の早織は、もう真実などに興味は無かったと思います。ただ湊が無事でいてくれたらいい、という気持ちだけで、敵だったはずの保利と2人を探しに行きます。この時に保利を受け入れたのは、保利のことを「人間」だと思ったからだと思います。真実を知って謝りたいと湊を探す保利と、真実を知らないが湊への愛情だけで突き動かされている早織のコントラストが面白いです。
ここでの母親は、母親としては子供を守ろうと必死になる良い母親だと描かれている。
他方で、湊の「嘘」により、学校側に「本当のこと」を求め、依里の「嘘」を信じ、その結果世間に対して保利(湊の担任)に「嘘」をつかせて窮地に追いやった存在でもあり、
湊にとっては愛情と共に「世間」や「普通」、そして「願い」を求め続けられる存在でもあったと思う。
もしこの母親が、
湊が抱えている「世間や普通という枠組みの外にある問題」を話せるような存在であれば、この物語は全く違ったものになっただろう。この物語の始まりはこの問題に集約されると思う。
麦野湊に関して。
周りの人から押し付けられた「普通」「優しさ」「期待」「世間(教室)での立場」といった様々な要素が、湊に嘘をつかせたり、問題を起こさせたり、対話を拒ませたり、そして湊自身のことを傷付けたりします。
「保利(担任)からイジメをうけている」と嘘を付くが、湊に保利を追い詰めたいという意図はなく、むしろ自分が追い詰められて抱えるのが限界になり、かといって本当のことは言えず、仕方なく保利(担任)の名前を出したのだと思う。
映画では明確にはされていないが、湊がセクシャリティに悩みを抱えてるであろう描写が見受けられる。LGBTQとして捉え感想述べてる文章も見かけるが、私は、「少年期の、恋なのか友情なのか自分自身でもわからない感情に葛藤し、振り回されている」ようにみえた。
本当のことを、悩みを、打ち明け相談できる人がいない。親からは願いをかけられ(私はそれを"呪い"だとも考える)、それに応えたいと思うが心はイエスと言ってくれない。学校でも、イジメられている同級生(星川依里)を庇えば、自分の立場がなくなる。
家でも学校でも、嘘をつかねば身が守れない。
そうして、自分の社会的な立場(教室での立場や母に対しての立場)を守るために嘘をついて、自分にとって都合が良い人間(担任教師) にたった1つの罪を着せて、その嘘がどんどん膨らみ、多くの人間を巻き込んでしまいます。
(私はここに感情移入をしてしまい、とても苦しかった。)
保利道敏(担任教師)について。
湊の「嘘」(担任にイジメられていること)
を信じた母親によって、無実の罪を着せられ、学校側からも「学校としての立場、社会のため」として犠牲にされる人間として描かれる。
そして保利は「正しいこと(湊をいじめていない)」を主張しようと躍起になり、視野が狭くなっていきます。なぜ湊が嘘をついたのか分からず、結果自分の観た光景を元に「湊は依里をいじめている」という誤った主張をしてしまいます。
しかし主張は届かず、学校としての立場や社会のためとして犠牲にされた保利は、自殺を試みる。
「男らしく」という言葉をよく使う保利は、湊や同級生の星川依里には、「世間」や「普通」という言葉に代表される固定観念の枠組みで無意識に物事を進める存在であったであろうと思う。
生徒のことを気にかけており、所謂いい先生ではあったが、この1つの固定観念により、湊にとっては都合よく罪を着せられてしまい、それにより学校からは信用を失ってしまう。(信用を失う面と共に、学校からも都合よく扱われるという存在になってしまう。)
③(誤植とはいえませんが間違えた文字を見つけたという意味で)湊と依里の作文を読んでいたシーン
…
自分の真実を伝えることに躍起になる前に、湊がなぜ嘘をついたかという本質に気付いていれば、湊が依里をいじめていると思い込まなければ、そして誤植(鏡文字)を見つけることが得意だった保利ならば、作文のメッセージにももっと早く気が付けたかもしれません。
最後に保利は湊のもとへ走り出し、大雨の中、大声で「ごめんな、先生間違ってた」「間違ってないよ、なんにもおかしくないんだよ」と叫びます。この時初めて、保利は湊と同じように不器用に生きる1人の人間として、湊に話しかけることが出来たのだと思います。
星川依里に関して。
「男らしくない」という理由で「矯正のため」に父から虐待され、教室ではいじめられている。
また、保利の「男らしく」という言葉は、依里には重く響いたように思われる。
依里への虐待、いじめは「男らしくない」という固定概念によって起こっていることです。こんな境遇にいる依里は、他の生徒より「男らしく」と言う保利に不信感を持っていても不思議ではない。実際、依里が職員室で「保利先生はいっつも麦野くんを叩いたりしてます。みんなも知ってるけど、先生が怖いから黙ってます」という嘘をつく。
そして、いじめが保利にバレそうになると、いつも笑顔で誤魔化します。それは先ほど、頼りない保利にいじめがバレても、さらに悪化するだけで解決はしないと思ってるからだと思います。
依里の父親が「あいつ(依里)は怪物。豚の脳。病気だ。だからね、私はあれを人間に戻してやろうと思ってるの。」と保利に言っているシーンがある。父の言う「人間に戻す」は「同性愛者から異性愛者へ矯正する」という意味だと思われる。(映画では明示されていないが。)
映画では、転校するかもと依里が湊に伝えた際「居なくなったら、嫌だよ。」と抱きつくシーンがあり、呼び捨てで(今まで呼んだことのない)抱き返したところ、拒絶されるシーンがある。その際に「僕もたまにそうなる」といっている。(以下も参考)
(私はこのシーンも苦しかった…)
映画、小説ともに履修した者です。
映画だと分かりにくかったのですが、小説では"下半身"が硬くなる、と表現してあったのであのシーンは湊が依里に抱き着かれた時に陰茎膨張(いわゆる勃起)を起こしたというシーンです。しかし、湊は経験したことが無かった為(しかも依里は男の子)、混乱しパニックになっていました。それを依里は自分も湊に対して性的興奮を覚えることがあるよと伝えたという感じです。
共通してることは、
主要の登場人物らは、それぞれの立場から、
自分の尊厳や誰かを守り抜こうとしていたこと。
湊、依里は、
自らの言葉を閉ざしたこと。
早織、保利、伏見(校長)は、
対話を拒み、また疎かにしたこと。
それらが彼らを「怪物」にしてしまいます。
しかしこれも、誠実な対話があれば、心を開ける存在がいれば、「怪物」になることはなかったかもしれません。「怪物」は、お互いを誠実に分かりあおうとしなかった時に生まれるものだと思います。
人は弱く、いつ、どんな小さなきっかけでも、そして誰でも、「怪物」になりえる ということだとも思います。
怪物になる素質は私達全てに持ち合わせており、
いつ、どんなきっかけで、怪物になるのか分からない。厳しい現実が訪れた時、自分がどう飲み込まれてしまうのか?自分の怪物の芽は何処にあるのか?
己を知ることは大切だ。
生きてる限り加害性からは逃れられず、誰かの薬にも毒にもなることを、常に意識しながら、それでも自分も相手も尊重しながら生きていきたいと強く思う。