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梅仕事

中学生の頃、親の転勤のため、私は親元を離れて祖母の家から学校に通っておりました。祖母は私に甘く、夏の夕食の後、良く梅酒を飲ませてくれたものです。庭に植わっていた梅の木に実が沢山つくと、しとしと雨が続きながらも雲間から陽が差し込むような時に、縁側で竹で編んだざるの上に、もいだ梅の実を並べて梅酒や梅干しを漬ける準備作業をしていた祖母の姿が目に浮かびます。何となく気分の冴えない休日に、思いがけずに晴れ間が訪れ、縁側から梅の仄かな香りが漂うと、ああっ、もうすぐ夏が来るのだな、と思ったものでした。

時は変わって、そんな私が初めて梅酒を作ったのは約8年前、メキシコへの赴任が決まる直前の6月だったように記憶しています。梅雨が始まり当時住んでいた世田谷のスーパーや八百屋の軒先に大粒の緑の梅の実が並べられているのに気づき、梅酒作りのセットを衝動買いしてしまったのです。ネットで見つけた梅酒の作り方においては、梅の実を天日干しすることなど手順には無かったのですが、祖母がそうしていたのを思い出して作業に付け足し、休日に見様見真似で一日がかりで漬けました。ところが、その後すぐに、メキシコに赴任する辞令が出てしまい、泣く泣く漬けた梅酒は妻の実家に預かってもらうことにしました。

そして、そのメキシコから戻ることが決まった2年前の春、妻の実家から妻に直々に電話がありました。何事だろうと妻の様子を見ていたのですが、どうも深刻なことではなさそうで、電話を終えた妻は「覚えてる?預かってもらっていた梅酒がとっても美味しかったらしいの。一本はあっという間に飲み終わってしまって、残りの一本にも手を付けようと思ったのだけれど、折角あなた方が手間暇かけて漬けたのを全部飲んでしまうのは申し訳ないと思って取っておいたのよ、というの。『日本に戻ったら、是非すぐに引き取って飲んでみて』だって。もう、引越しでそれどころではないのに困った親だわ」と。

かく言う私も似たようなもの。メキシコから戻ったのは丁度梅雨時。我が家が越してきた北摂のスーパーの軒下に沢山の梅の実が並べられていました。これはラッキー、早速大阪でも梅酒を作ろう、と思っている私の心の動きを見透かして、妻が一言、「まだ引越の片付けも終わっていないのだから、梅酒作りは来年ね」仰る通りです。
という訳で昨年、メキシコから持ち帰ったテキーラを使ったメキシコ記念バージョンと芋焼酎と奈良が誇る王隠堂農園の梅を組み合わせた関西記念バージョンを漬け込みようやく留飲を下げたのでした。

そして今年、まだ大阪に赴任して2年しか経っていないのに東京への思わぬ異動の辞令。偶然にもまた梅の季節を迎え、引越しがすぐ間近に迫っているものの、今回ばかりは妻も大阪の思い出として再び梅酒を漬けることに賛同してくれました。昨年お世話になった有機野菜を取り扱うクレヨンハウスに妻が出向いてみると、いつも取り寄せている王隠堂の梅が度重なる天候不順で生産量が激減し、入荷がままならない状況であるとのこと。しかし更に相談を進めてみると、非常に少量ながら今年も王隠堂の梅を確保しており、昨年も購入された方であればお譲りします、ということでホッと胸をなでおろしたのでした。

その穏やかな緑色、表面の柔らかな産毛、ふっくら丸みを帯びた梅の実を新聞紙の上に並べて置く作業は心なごみます。こういう時には心に余裕ができているからか、外からいつもは気に留めさえしない鳥のさえずりや、雲間から漏れるじんわりと温かい日の光、若干湿り気を帯びた涼しい風、そして仄かに甘味を帯びた梅の匂いを感じることができます。今年は同じくクレヨンハウスで購入した奄美大島産の黒糖、そして近所の酒屋さんで購入した芋焼酎晴耕雨讀で、あく抜きをしてヘタを丁寧に取った見事な梅の実を漬け込みました。最低1年間は寝かせるつもりですが、果たして一年後の梅雨の季節にどのような思いでこの梅酒を飲むことになるのでしょうか。

大阪の思い出に漬けた梅酒

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