年の区切り
いつも行く床屋さんでのこと。近所の高校の運動部の監督らしき人、杖をついてこられたかなりご高齢の男性などで一席を残して満席状態となっていました。
「年末のこの時期って、一週間毎や一か月毎に定期的に来る人に加えて、2ヶ月に一回の人、3ヶ月に一回の人、忘れた頃にやってくる人とそれぞれのパターンの人がみんな集中して押し寄せるんですよ。だから無茶苦茶大変なんです」と。
「最近、ペーパーレス、いや経費節減なのかな。カレンダーや手帳を廃止する会社増えてますね。その点御社のカレンダーと手帳重宝してます」「我々世代は手帳必要ですよね。やっぱり紙に書かないと何か実感が湧かなくって。他の人が使ってる手前電子媒体のスケジュール帳も使いますけど、記憶に残らず何か奥行きって言うんですか、深みがないんですよね」
年末が迫って来ました。でもその捉え方については、人によって相当感覚が違ってきているのかも、と思い始めています。忘年会はコロナ禍を経てかなり縮小し様変わりをしているようだし、この時期に買い求める手帳は、スケジュール管理を電子媒体でしているから必須ではなくなったり、年賀状じまいが進んでいたり。更には、海外からの旅行客や在留している人たちは、国によって違う年の単位を持っていて、そもそも年末年始の時期が違っています。
そう言えば海外赴任していた時には、大抵の場合新年のカウントダウンのようなものはあるけれど、地元の人にとっては例えばクリスマスや旧正月、公現祭の方が大事だったりして、そんな中で同胞は健気にも、お節料理やしめ飾りや鏡餅などを日本からわざわざ取り寄せたり、お雑煮やお煮しめを作ったり、紅白歌合戦を視聴できる家に集まったりするなど、日本らしい年越しを演出しようと涙ぐましい努力をしておりました。
温暖化の影響か季節の輪郭が不明瞭になり、核家族化やデジタル化で良く言えば多様化が進んだ、悪く言えば拡散型でのっぺりとした印象に残りにくい時の流れとなり、同じ日本であっても人によって年末年始の捉え方が違ってきているような感触があるのです。こうした捉えどころのない迷子になりそうな時代だからこそ、海外で日本の時の流れを無意識の内に必死で取り戻そうとしたように、今度はしかし意識的にこのサイクルの意味をもう一度捉え直した方が良いかもしれない、という気がしています。
地球が太陽の周りを公転し、それにより季節が移ろい、そして一回転してまた元の場所に戻る、或いは、月が新月から少しずつ満ち満月となり再び少しずつ欠け新月に返る、こうした自然のサイクルの中で我々は生きています。解釈の仕方は様々であるにしろ、ある決まった時間の単位は今後も意識され、存続していく筈です。そして、飛躍のようですが、私はこのサイクルの中で、やがては土に返って行くわけです。自分が老いの過程にあるからか、余計にこの一つ一つのサイクルを匂いや、温もり、肌触りの感じられるものにしていきたいと願うばかりです。