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寅さん
初詣客で賑わう、どこかの街のお正月。
俯瞰の映像から、声が聞こえる。
『角は一流デパート、赤木屋黒木屋白木屋さんで、紅白粉つけたお姉ちゃんに下さい頂戴で願いますと、六百が七百くだらない品物だが、今日はそれだけ下さいとは言わない』
寅さんの、渥美清の啖呵売。
しばらく観てなかったけど、ふと思いたって『男はつらいよ』を観た。
僕は、この映画が大好きだ。
週末に、男はつらいよを観る『ウィークエンドタイガー』なる習慣を、時々やってしまうぐらいに。
僕の映画の原風景は、幼い頃の実家。
コタツが真ん中にある居間で、晩酌をする父親の横、テレビから流れる寅さんだった。
でっぷりと突き出たランニングシャツのお腹を揺らして父がケタケタと笑い、僕もつられて笑う。
寅さんがとらやに帰って来てしばらくすると、タコ社長とケンカを始める。
待ってましたとばかりに父は、「見ちょけよー、もうすぐ寅さんが出ていくき」と言う。
父の言うとおり、寅さんはケンカの後に荷物をまとめ、「世話になったな」とか「それを言っちゃぁおしまいだよ」とか、そんな感じでとらやを出ていく。
寅さんのお約束というか、物語の出発点みたいなものだけど、言い当てる父を「お父さん、すげー!」と、僕はいつも喜んでいた。
父は映画が好きだった。
田舎だったからレンタル店なんてまだなくて、初めてレンタルビデオ店が出来たのは、僕が小学校6年ぐらいの頃。たしか、昭和天皇崩御の時期だった。
だから、父はもっぱらテレビで放映される映画を観ていた。
寅さんの他にも、覚えている。
チャップリン。たしか、BS放送だったろうか。
『モダンタイムス』
『黄金狂時代』
『独裁者』
僕が今でも繰り返し見返すのは『街の灯』で、父はこの映画を観て、少し泣いていた。
夏の夜の小さな居間。
焼酎のお湯割り片手に『街の灯』を観ながら、頭に巻いたタオルをほどいてこっそりと目を押さえていた父と、それを横目で見ていた小学生の頃。
この映画を観ると、なぜか思い出す。
父は映画が好きだった。
僕の故郷は炭鉱で栄えた街で、昭和の中頃までは大変な賑わいだったという。
その当時は、映画館やダンスホールなんかが市内に10館ぐらいあったそうだから、昭和18年生まれの父にとって、映画は一番身近で心踊る娯楽だったのかもしれない。
父は小説も好きだった。
吉川英治や海音寺潮五郎、池波正太郎なんかが本棚に並んでいた。
本棚を漁っては、わからないなりに僕はよくそれらの小説を読んだ。
当時、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズが大好きだった僕は、その本棚に乱歩の「黒蜥蜴」を見つけ、喜び勇んで読んでショックを受けた事もあった。
父は、酔うとよく昔の話をした。
テレビで『スタンド・バイ・ミー』を観た時。
中学の頃、友達が殴られた仕返しに木刀を持って相手の学校に向かった、という話をしていた。
相手の学校がよく分からずに道に迷ってしまい、暑かったので途中でアイスキャンディーを買ったら、電車賃が無くなって、仕返しはやめて線路を歩いて帰ったと、笑いながら言う。
『スタンド・バイ・ミー』を観ると、今でもその話を思い出す。
昭和の、まだ戦後の匂いが微かにする時代のその話。
ほろ酔いの父が紡ぐ夜話が好きだった。
急に思い出したように山に行っては、アケビや山菜や木材をとってきたり、仔イノシシを捕まえてきた。
急に思いたって、プレハブで自分の作業場を建てたり、ガレージを建てたり、ブランコを作ったりした。
動く事が大好きで、食べる事も呑む事も大好きな人だった。
中学の頃だったか。
父に連れて行かれた山の中。
草や木が生い茂っていた、辛うじて墓石が見える場所。
真夏の昼間、黙々と伐採し、掃除をした。
婆ちゃんの弟さんのお墓だと言った。
戦争で亡くなったというその人の事を、当然ながら僕は知らない。
父は、私生児だった。
だから、父のルーツもよく分からない。
あの時、父は僕に、ほとんど何も語らなかった。
汗だくの背中で
「お前、タバコ吸うても良いけど、俺の前で吸うたら覚悟しちょけよ」
笑いながら言っていただけだった。
あの時、どうして、それまで全く手をいれてなかったお墓の掃除をしようと思ったのか。
どうして、僕を連れて行ったのか。
今もよく分からない。
父は、僕が高校2年の頃に消息を絶った。
ある夜の玄関先、自分の会社の人達の給料を母に渡して、出掛けていった。
いつもの通り呑みに行ったんだろうと、声を聞きながら僕は思っていた。
父の声を聞いたのは、それが最後だ。
高校を卒業して、一人暮らしを始めた19の頃に、父が見つかった。
山の中の池。
数年に一度、池の水を抜く作業の時、池の底に沈む車と、その中で白骨化した父が発見された。
警察での身元照会。
僕も、兄も姉も、父のその姿は見ていない。
唯一、父のその姿を確認したのは母だけで、その後の葬儀でも棺桶の中は見れなかった。
だからだろうか。
未だに父が死んだ実感がそれほどない。
「もう子供みんな自立したんやけん、いつでも再婚とか、自分の好きな事をしていいんよ」と、何度か母に言った事がある。
その度に母は「再婚っていうんは、前の旦那さんとあんまり幸せやなかった人がするもんやろ?私はお父さんとおって本当に幸せやったもん。再婚やらせんでも良いよ」と言っていた。
今の時代ならなにかと物議を醸す意見だけど、母はそうやって、父が亡くなってからも父に寄り添い続けたのだなと、時々、そんな風に思う。
最愛の人が、腐り、白骨化した姿を胸に抱えながら、母という一人の女性は、どんな思いで日々を過ごしたろう。
僕には、想像もつかない。
『物の始まりが”一”ならば国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島、泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、助平の始まりが・・・』
正月の客で賑わう参道に、寅さんの啖呵売の口上が響く。
父の最後の姿を見てないからか、たまにフラッとどこかで会うんじゃないかと思う時がある。
旅先のどこかの街とか、祭りや初詣なんかで賑わう人混みとか。
とらやに寅さんが帰って来るみたいに。
そんな事をたまに思っては、苦笑いする。
母は一昨年、亡くなった。
まるでハネムーンに送り出す気分で、僕は一滴の涙どころか、笑顔で見送れた。
そっちに映画館があれば良いけどなあ。
シネコンじゃなくて、何回も何回も観ていられる、昔ながらの映画館。
観終わったら、焼酎も呑めるダンスホールで。
心ゆくまでタンゴでも踊って。
美味しいものでも食べて。
時々、子供達の、孫達の、残念なところと誇らしいところと、眺めながら。
二人で、笑って。
久しぶりに寅さんを観て、そんな事をふと思ってる。