理性の必要性について ~悪しき本能を抑えるために~
ホモ・サピエンスである我々は動物の一種である。進化の過程で得た本能的性質が今なお残されている。一方で他の動物にはない高い知能、合理性を有する。現代文明は科学技術の叡智の結晶であり、それを実現させたのもそうした人間が持つ能力による所が大きい。
本能的行動は生物の自己保存に役立てられてきた。その意味では有用であったと言える。一方で人間が高度な社会を築き、集団で生活をするようになるにつれ、本能が悪い方向に発露する事がしばしば発生している。
代表的なものに偏見・差別が挙げられる。
偏見や差別は未知のものや理解の及ばないものに対する警戒本能が基盤になっていると考えられる。ある特定の集団を維持する上では、異質な者を排除する事が集団全体の利益に繋がっていた事は否定出来ない。
しかし、現代においてはその弊害の方が遥かに大きい。本性も知らないまま、早とちりをして特定の外見や指向を嫌悪する行為は社会にとって損失が大きいのである。
差別や偏見を受ける側の不利益が大きい事は明らかであるが、加害者側のデメリットも大きい。互いに良好な関係を築くことで将来的に双方に利益がもたらされる事は想像に難くないのだが、相手から被害を受けた訳でもないのに自己中心的な考えの下で一方的に攻撃性を露わにしてその利得を放棄する事に妥当性はなく、非合理的な行動であると言える。
他にも性衝動が挙げられる。残念な事に今なお性的な加害により多くの被害者・加害者が生まれている。それは著名人であっても例外ではない事はニュースを見ればよく分かる事だろう。被害者の心理的なダメージは計り知れないし、第三者から見ても一時的に脳内麻薬を獲得するがために、何故名誉や品位を捨ててそのような行為をするのか理解に苦しむ人が多い事だろう。目先の欲に囚われ、未来の価値を見ることが出来ない事は大変愚かであると言わざるを得ない。
我々の社会をより良いものにする上では、各々が本能に基づいた行動を制御する能力、現在そして将来得られる価値を計算し、総合的に判断する能力を持つ必要がある。それは人間が持つ理性によって解決する事ができる。しかし残念なことに非合理的な過ちを本能的行為だから仕方がないと言い訳をして自らの責任を転嫁してしまう人が少なからず居る点を見ると、我々は理性を軽視している節があると言わざるを得ない。「理性は情念の奴隷であるべき」というヒュームの言葉にある通り、理性的思考は自らの内にある感情に基づいて特定の物事を行う手段に過ぎない。しかし理性なき情念もまた破滅的な結果をもたらす。その究極的なものが先に述べた悪しき本能の発露である。
かつて近代のヨーロッパ社会で主流となっていた啓蒙思想のように、改めて理性の重要さを説くべきである。しかし理性を正しく運用するためには、理性の使い方に関する啓蒙が必要になる。我々は合理的に物事を考えられる能力を持つが、同時に非合理的な間違いもしてしまう。理性を正しく使うためにはある種の訓練が必要なのである。
どのようにして理性を使うのかについてはまた別の記事で述べたいと思う。
気になる方は以下の書籍を読むと参考になると思います。
Pinker, S. (2021). Rationality: What It Is, Why It Seems Scarce, Why It Matters. Penguin. (橘明美訳, 人はどこまで合理的か(上・下), 草思社(2022))