これからの採用が学べる小説『HR』|【第2話】ギンガムチェックの神様
【第2話】ギンガムチェックの神様
総武線快速が徐々にスピードを落としていく。狭い車内に押し込められて一つの生き物のようになっていた人間が、そわそわと身じろぎする。
車両はやがて停車し、扉が開いた。東京駅。いつもの降車駅だ。思わず足を踏み出しそうになって、慌てて止めた。今日の行き先はここじゃない。
いま降りていったのは、どことなく高級感のあるビジネスマンやOLたちだ。それに比べ、車内に残っているのは何となくパッとしない地味な人たち。今日は自分もその中の一人なのだと考えると、嫌な気分になった。
扉が閉まり、電車が動き出す。
車窓の外を東京駅前の風景が過ぎていく。やがて商業施設の立ち並ぶ有楽町が見え、すぐに目的地である新橋の町並みになった。丸の内とは明らかに違う、ゴチャゴチャして古めかしいオフィス街。
電車を降りて日比谷口から出る。酔ったサラリーマンのインタビューでお馴染みの、SLのが置かれたあの広場だ。
顔を赤くしたオヤジたちが、普段は言えない上司の悪口をマイクにむかってがなる。そういう映像を見るたびに、なんてバカなんだと思う。悪口を言われた上司がその映像を見ている可能性もある。あるいは見ていなかったとしても、このネット社会だ、SNSなどを通じて本人の耳に入ることもあるかもしれない。
それが原因で出世がパーになるかもしれないとは考えないのだろうか。バカ過ぎて吐き気がする。
俺はあらためて、新橋の町並みを見回した。金曜の朝8時。さすがに酔っている者はいないが、量産型の地味なオヤジたちが、死んだような目をして雑多な新橋の街に飲み込まれていく。
「なんで俺がこんな……」
思わずつぶやき、東京方面を振り返った。自分の職場が入った背の高いオフィスビルが微かに見えていた。ガラス張りのイケてるビル。
昨日、鬼頭部長から電話があって、2週間後のスタートだったはずの研修が、急遽今日からになった。こちらの都合などお構いなしだ。だが、俺としてもM社の件があるから受け入れざるを得なかった。
研修先は「HR特別室」。俺の勤務するアドテック・アドヴァンス(AA)の一部署でありながら、なぜか飛び地的に新橋の雑居ビルの中に入っているらしい。
俺は舌打ちするかため息をつくか、どちらにすればいいのかわからないままスマホを取り出し、MAPアプリを立ち上げて所在地の住所を入力する。経路はすぐに出た。徒歩3分。
SLを横目に駅前ビル沿いに進み、細い道路を渡って右折する。しばらく歩くとGoogleマップが左折を告げた。
「……おいおい、マジか」
アプリが進めと言う方向を見て、唖然とする。そこは完全な飲み屋街だった。道幅は五メートルほど、左右にもつ焼き屋や立ち飲み屋が並び、よく見れば風俗店の紹介所まである。
どの店もまだ営業前でしんとしており、さっきまで無数にいたサラリーマンの姿も見えない。歩いているのは、仕込みに来たらしき白い割烹着姿の男や、今まで飲んでいたのかふらつく足取りで壁にもたれる水商売風の女くらいだ。
いよいよ苛立ちが募った。どうしてこんな所に……不快なものを目に入れないよう俯いて道を進んでいくと、スマホのディスプレイの中で、自分の居場所を示すアイコンと目的地がすぐに重なった。
足を止め、視線を上げる。
そこはまさに雑居ビルと言うにふさわしい、白壁の古びたビルだった。入り口に脇に書かれたビル名は、間違いなく鬼頭部長からの資料に書かれてあったものだ。あまり高さはない。恐らく7階か8階建てくらいだろう。AA本社の入る巨大ビルとはえらい違いだ。
おいおい、勘弁してくれよ。そう思いながらガラス戸を押して中に入る。右側に銀色の郵便受け、2段だけの階段を上がると、正面にエレベーターがある。薄暗い照明、何となくかび臭い。
気が進まないが仕方ない。俺はエレベーターのボタンを押した。すぐに扉は開き、AA本社でいつも乗っているワンルームマンションほどの広さのエレベーターの十分の一もない狭いボックスに入った。
行き先は、7F、HR特別室。
結局、HR特別室に関する情報はまったくと言っていいほど与えられなかった。わかっていることと言えば、俺が今日から一週間ここに出社して研修を受けること、それだけだ。研修の目的も、内容も、その対象者がどうやら俺一人らしいことの理由も、まったくわからない。
M社の件で負い目のある俺は、この情報の少なさに対しても文句を言うことはできなかった。まして、相手はあの鬼頭部長なのだ。
そして俺はふと、昨日の電話の最後に、鬼頭部長が口にした意味深な言葉を思い出した。
HR特別室はそう甘くねえぞ――
ガタン、とエレベーターが揺れて、やがて扉が開いた。
外観以上に古びた印象だ。小さな踊り場があり、その左右に一つずつ扉がある。向かって右側はよくわからない独立行政法人の事務所だった。反対側の扉に近づいていくと、その脇にかけられていたプレートが見えた。
クソ、と俺は思った。頭のどこかで、こんな場所にAAの一部署があるはずないと思っていた。AA本社が入るのは東京駅前の一等地、友人誰もが羨む今どきのオフィスビルだ。だが、俺の目は確かに、プレートに書かれたAAのロゴと、その下にある「HR特別室」の文字を認めていた。
しばらく何も考えられなかった。だが、扉の前でずっとこうしているわけにもいかない。俺は意を決してノックし、ノブを回した。
◆
奇妙な空間だった。
広さは30畳程度だろうか。向かって右側の壁に沿って長テーブルが設置され、間隔をあけて3台のPCとチェアが置かれている。左側半分はミーティングスペースのようだ。
一応オフィスらしき体裁はあるが、どこかおかしい。そう感じる一番の理由は、オフィス中央にどかっと置かれた大きなソファである。一般的なオフィスで見る角ばった革張りのあれじゃない、まるでOLの部屋にありそうな、モコモコした素材でできた真っ赤なソファなのである。
そしてその真っ赤なソファの上で、薄くなりかけた頭をこちらに向けて、スーツの男が横になっていた。
「ううん……」
物音で気づいたのだろう、ソファの上の男はそう呻くと、頭だけを上げてこちらを見た。瞬間、40代後半くらいの、ぼんやりした表情の男と目が合った。寝ていたのか、目が半開きで、状況が把握できていないらしい。
「あ……あの……」
何を言えばいい。だいたいこのおっさんは誰なのだ。HR特別室の人間なのか?
「おや」
俺の姿を認めたのだろう。男は目を細め、言った。次の瞬間――
「ほっと」
気の抜けたような表情や小太りの体型が嘘のように、男はジャンプするようにして体を起こした。まるでアスリートのようなバネ。そしてそのまま立ち上がると、躊躇なく俺の前まで歩いてくる。
「ええと、君は確か……山田くん」
突然のことにどう反応していいかわからずにいると、男は微かに眉間にしわを寄せ、「あれ、違う?」と首をかしげる。
「じゃあ、田中くん?」
「……いや、あの……村本です」
何だこの人は。冗談を言っているのだろうか。
「ふうん……ええと、コピー機の業者さんだっけ」
「いえ……AAの営業一部から……」
「あれ、営業一部から?」
やはりふざけているのだろうか。話がぜんぜん噛み合わない。
「あの……失礼ですが、あなたは?」
「僕? 僕は……」
そう言って男はシワだらけの安そうなスーツをぱしぱしと叩き、「あれ、名刺どこいったかなあ」と、辺りを見回した。そして、ソファの奥にちょこんと置かれたデスクに近づくと、「ああ、あったあった」と手を伸ばし、そして俺の前に戻ってくる。
「はじめまして、宇田川です」
営業畑の人間ではあるのだろう、男は慣れた様子で深々と頭を下げると、名刺を両手で差し出してきた。反射的に俺もポケットから名刺入れを取り出したが、ふとその手が止まった。
……宇田川?
覚えがあった。
そうだ、鬼頭部長から送られてきたメールにその名があった。確か、HR特別室の室長と書かれていた。しかし……こんなわけのわからないおっさんが室長なのか?
考えながらも、俺も名刺を取り出し、差し出した。男……いや、ここHR特別室の室長である宇田川は、柔らかい手つきでそれを受け取る。
「……営業一部」
俺の名刺を不思議そうに見つめ、つぶやく。
「はい……あの、研修の件で」
そう言うと宇田川室長は「ああ」と笑った。
「そういや、昨日鬼頭さんから連絡があったんだった。すっかり忘れてた。ごめんごめん」
さもおかしなことのように笑う姿に力が抜けた。
何が忘れてただ。あの恐ろしい鬼頭部長からの指示を忘れられるなんて、どれだけめでたい人なのだろう。
だがそれでも、一応は話が通じたらしいことに俺はホッとした。とりあえずここがAAの一部署「HR特別室」で、俺が今日からここで研修を受けるということ自体は確かなことらしい。
「あの……それでどんな研修なんでしょうか。実はあまり内容を聞いていなくて……」
俺は小太りでしまりのない表情の宇田川に言った。どこか島田を思い出すゆるい雰囲気。鬼頭部長には聞けなかったことも、この人になら聞ける。
だが、宇田川はあっさりとこう言った。
「うーん、それが何も考えてないんだよねえ」
「……は?」
「まあ、もう少ししたらメンバーが出勤してくるはずだから、彼に同行でもしてみたらいいんじゃないかな」
ちょ、ちょっと待て。なんで研修に来ていきなりアポなんだよ。普通はとりあえず座学じゃないのか。
「いや……あの……いきなり同行っていうのはちょっと……」
だが宇田川室長は、俺の言葉が聞こえないようにぽかんとした表情で宙を見つめている
「あの……宇田川さん……?」
「ん、あ、ああ、ごめんね。ちょっと僕ね、寝不足なんだよ。もうすぐメンバーが来るから、彼にいろいろ聞いてくれ。僕はちょっと寝るから」
驚きのあまり絶句する俺をよそに、宇田川は先程のソファに戻って本当にごろりと横になってしまった。呆気に取られて見ていると、すぐに小さなイビキが聞こえ始めた。
いや、いやいや。いやいやいや。なんなんだここは。
高校時代にやっていたサッカーの部室だってもう少し緊張感があった。とても社会人の素行とは思えない。だいたいこの部屋自体、仕事をする環境には思えない。
……やめだ。
こんな所で一体何を学べというのか。もう限界だ。こんなふざけたところにいる理由はない。
俺はつばを飲み込み、踵を返した。逃げるように扉に近づくと、ドアノブに手を伸ばす。
その瞬間、外側から扉が開いた。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
だがその語尾は「あ?」という疑問形に変わった。
そこに立っていたのは、おかしな男だった。
160センチ位か、小柄な体にぶかぶかのスウェットにスキニーパンツ、汚れたVANSのスニーカー。キャップを後ろ前に被り、そこから肩まで長い黒髪が垂れている。
性別不詳と言うか、一瞬女かと思うような顔立ちなのに、その視線は冷たく、妙な圧力がある。
誰だ……こいつ。
俺は頭をフル回転させる。もしこいつが客だったとしたら、一応俺はAAの社員として迎えなければならない。だが、こんな格好でオフィスを訪ねてくる客がいるだろうか。どう反応すればいいのかわからぬまま口ごもっていると、男の方が口を開いた。
「あんた誰?」
誰って……そりゃ俺のセリフだと思いながらも答えられずにいると、その小柄な男は無言で俺の横を通り抜けた。思わずその背中を追う。
男はソファでイビキをかいている宇田川部長にも特に関心を示すことなく、壁際の椅子の一つに座り、慣れた手つきでPCの電源を入れた。
……まさか、室長の言ってた「メンバー」って、あいつか?
短い間にいろいろなことが起こりすぎて、頭がついていかない。
……いや、そうだ、俺はここから出ていくつもりだったんだ。
今更のように思い出す。とにかくここを出て、鬼頭部長に連絡を取る。恐ろしいなどと言っている場合じゃない。研修先の準備が全く整っていないと知れば、鬼頭部長も考えを改めるに違いない。
よし。
俺は小さく深呼吸し、再び扉に向き直った。そしてドアノブに手を伸ばしたとき、扉の向こう側、つまりエレベーターホールがにわかに騒がしくなった。エレベーターを降りてきた誰かが、携帯電話で話しているらしい。甲高い女の声が外から近づいてきて、やがて派手な音を立てて扉が開いた。
「だーかーらー、忙しいって言ってんだろこのエロオヤジ!」
入ってきたのは、異様に顔の整った女だった。若くはない。40代か50代か……ひと目で高級だとわかる灰色のスーツ。タイトなスカートから伸びる足には網タイツを履き、足元は真っ赤なピンヒールだ。まるでアナウンサーのような、いや、銀座のホステスのような存在感。
「用事があるときはこっちから電話するから、それまでおとなしく待ってなさい!」
年季の入ったガラケーにそのおばさんは叫び、相手の返事を聞く間もなく携帯を畳んでしまった。
「まったく、ちょっといい顔するとこれだからなー……あれ? 何かの業者さん?」
「……あ、いや、私は今日から研修に来た者で」
まるで芸能人のような姿に、緊張が高まる。
「研修? なにそれ」
「いや、あの、それが……」
容姿も言動も派手だが、やっと話が通じそうな相手が見つかった。俺はこれまであったことを伝えようと話しだしたのだが、質問をしておいてそのおばさんは、話し始めた俺を置き去りに部屋の奥へとさっさと入っていってしまった。
やはりソファでいびきをかく宇田川室長には目もくれず、先程のキャップの男の隣の席に腰を下ろす。
「いまの電話、斉田さんでしょ」
キャップの男がPCディスプレイを見ながらおばさんに言い、おばさんが頷く。
「あ、やっぱわかった? 上場企業の社長のくせに、言うことが相変わらずケチ臭くてダメね」
……上場企業?
……の社長の、斉田?
ちょっと待て。それってもしかして、あのT物産の……?
「なんて言われたの?」
「それが、10万円払うから飲みに行こうだって」
キャップの男がぶっと吹き出す。
「いいじゃん、もらえるものはもらっとけば。高橋さんの若さも有限なんだし」
「バカ、私が客から金を取るのは仕事の時だけよ。知ってんでしょ。適当なことばっか言ってんじゃないわよ」
「へいへい。うるさいオバハンだなあ」
「なんだとこのバカ保科、いい加減に――」
俺を完全に置き去りに話す二人を見て、怒りがわいてきた。
一体どういうつもりだ。
別に俺は客ではないが、研修に来たAA営業一部の社員だ。こんな舐めた扱いを受ける謂れはない。
だいたい、もしこの二人がここのメンバーだったとして、あんな社会人としての振る舞いもできない人間から何を学べというのか。
もう我慢の限界だった。俺は無言で二人に近づいた。
「あの、すいませんけど」
「……ん、何よ、ていうかあんた誰よ」
おばさんが振り返り噛み付くように言う。だから研修に来たんだって言ってるじゃねえか。ここの奴らは誰も人の話を聞いていねえのか?
「ええと、ですから、研修に来たんです」
いい加減ムカついていた俺は、とっておきの名前を出してやった。
「……鬼頭部長に言われて」
「……」
「……」
どうだ、この野郎。「HR特別室」がどんな部署なのか知らないが、あの鬼頭部長の名前を出されてビビらないはずがない。何しろ鬼頭部長はAAの統括部長で、取締役だ。それにあの存在感、誰も逆らうことなどできはしない。
だが、次の瞬間、俺は耳を疑った。
「ああ、あのバカの差し金か」
きれいなおばさん――高橋があっさりとそう言ったからだ。
「ほんっとろくなことしないな、あいつ」
「な……」
「鬼頭さんって、高橋さんの後輩なんだっけ」
キャップの男が言う。こいつは確か、保科。
「後輩だなんてやめてよ、あんな勘違いバカは後輩とも思いたくないわ」
「……」
今度は俺が黙る版だった。高橋が鬼頭部長の先輩? 年齢的にはあり得なくもないのか……いや、だからといって現役の役員にこの物言い、頭がおかしいとしか思えない。
「あ、俺、そろそろ行くわ」
呆然と立ち尽くす俺の前で、保科が荷物をまとめ始めた。そしてどう見てもビジネス用には見えないカジュアルなリュックを背負い、イヤホンを耳に入れながら扉の方に歩いて行く。
「あ、あの、ちょっと!」
なぜ声をかけたのか自分でもわからなかった。だが、このまま蚊帳の外なのには耐えられない。
こいつらは多分、俺のことを知らないのだ。俺が20人以上いる同期の中で唯一の営業一部配属だったこと(島田は多分、何かの間違いで入っただけだ)、それからずっと、高い売上を保っていること。そういうことを知らないから、こんな態度に出ている。
立ち止まった保科が振り返り、言った。
「……なに?」
なに、と言われればよくわからない。だが、このまま終わるわけにはいかない。
「俺も連れてってください」
気付いた時にはそう言っていた。そうだ。さっき宇田川所長から、メンバーに同行しろと言われたのだ。それがここで俺が聞いた唯一理解できる「指示」だった。
「は? なんで?」
隠す気もないのか、はっきり眉間にしわを寄せて保科は言った。
「宇田川さん……室長にそう指示されました」
「はあ?」
その時、背後から高橋の声がした。
「いいじゃない、連れてってやんなよ。まあ、こいつの取材が参考になるとは思えないけど」
取材?
保科はこれから取材に行くというのか。
ということはこの人は、原稿を作る制作マンなのか?
そう考えると微かな納得感があった。
制作マン。つまり、求人広告のデザインやライティングを專門で請け負う職種。
AA本社にも原稿をつくる制作チームはあった。営業部とは違うフロアにあって、やりとりをするとしても電話かメールが多かったからあまり知らないが、クリエイティブ職だからという理由で、彼らにはスーツ着用の義務はない。だがいくらスーツでなくていいとは言え、その格好で客先に行くのか? いや、それ以前に、こんな社会性のない人間に取材などできるのだろうか。
「参考にならないんじゃなくて、できないの」
保科が俺越しに高橋に言い返し、「あら、それは失礼」と返ってくる。
保科はちっと舌打ちをして、俺の方を向いた。それからふと気付いたように、言った。
「あれ……あんた、営業マン?」
「え? ……ああ、そうですけど」
「そっか、じゃあ、行くか」
保科はいきなりそう言って、薄く笑った。
なんなんだ、さっきまでは嫌がっていたくせに。
「先方、随分と怒ってるみたいだからさ」
「……は?」
「営業って、そういうの得意なんだろ。よろしく」
◆
「あの、どういうことなんですか」
ビルを出て新橋駅方面に歩き始めると、俺はあらためて保科に聞いた。
「なにが」
「いや、先方が怒ってるってさっき」
「ああ」
先ほど俺も歩いてきた下品極まる裏路地。ランチ営業に向けてだろう、左右に連なる飲食店に店員の姿が見え始めている。
「取材なんでしょ? 怒ってるのに取材なんて――」
言っている途中で保科はいきなり立ち止まった。昼飯のことでも考えているのか、ハンバーガー屋の軒先に出されたメニューを凝視している。
「ちょっと、あの、保科さん?」
「あんたさ、ハンバーガー一個にいくら出せる?」
「は?」
「だから、ハンバーガーだよ」
「何の話ですか」
一体何を言っているんだ。訳がわからず聞き返すと、保科は何も言わずにまた歩き始めてしまう。俺も慌ててその後を追う。とことんおかしな人だ。年齢不詳だし、行動も変だ。
「だいたい、俺は今日、研修に来たんですよ、それなのにいきなりこんな……」
「連れてけって言ったのそっちじゃん」
それは……そうなのだが。
SL広場の前まで出ると保科は左折した。大手家電量販店を横目に、先ほどまでの裏路地よりはかなり開けた道沿いを虎ノ門方面に向かう。
苛立ちが徐々に焦りに変わっていく。このままでは、何の情報もないまま客先に飛び込むことになる。準備八割、行動二割。営業一部で何度も言われた言葉だ。実際俺は、客先で何を言われても大丈夫なように、綿密に準備を行うタイプの営業だ。だからそもそも、クレーム対応の経験はほとんどない。クレームが出なかったからではなく、クレームが出ないような営業をしてきたということだ。
それなのに――
ふと、昨日のM社での出来事が頭に浮かんだ。気分が重くなる。そうだ、これ以上失態を重ねる訳にはいかない。
「あの……せめて状況くらい教えてくださいよ」
「状況って?」
「だから……なんで怒ってるのか、そもそもどういう業種のどういう客なのか……」
ジーンズのポケットに両手をつっこみ、猫背に歩く保科は、唇を突き出すように何かを考えていたが、やがて言った。
「採用がうまくいってない。この業界で客が怒ってる理由なんて、だいたいそれだろ」
「え?」
「採用がうまくいってないから、イライラするんだ。クレームの根っこはいつもそれ」
「いや……あの、もう少し具体的な話を……」
いい加減不安になって俺が言うと、保科が立ち止まった。やっとちゃんと話をしてくれる気になったのかとホッとしたのもつかの間、保科は人差し指を立てて何かを指差した。その先には、先ほど保科がメニューを見ていた店とよく似た、ハンバーガー屋の看板があった。
「ここ」
「は?」
「だから、ここがアポ先。ちなみにもう10分くらい遅刻してるから、詳しい話をする時間はないな」
保科はそう言って、肩をすくめた。
◆
店の名は「クーティーズバーガー」。
アメリカっぽいというか、ログハウス風の店内は凝った作りだ。ゆったり座れるテーブル席が10席程度と、カウンター8席。立地を考えればそこそこ広めの店舗だと言えるだろう。
俺たちは店舗中ほどのテーブル席に座り、神経質そうな社長と向かい合っていた。
社長は怒り心頭という感じだった。当然だ。もともと怒っていた所に、俺たちが当たり前のように遅刻してきたのだ。
「どうなってんの、おたくの会社」
「……すみません」
隣の保科は我関せずとでもいうように黙っているので、俺が謝るしかない。
「すみませんじゃないよ、何考えてんだよ」
怒りのせいか、声が震えている。だが、怖いとは思わなかった。それは社長の風貌のせいかもしれない。
ハンバーガー屋のオーナーと言えば、何となく屈強な人物を想像してしまうが、社長はそういうタイプではなかった。
年齢は四十代半ばくらい。痩せ型で顔色が悪く、薄手のジャケットの中にギンガムチェックのシャツを着て、買ったばかりなのか妙にきれいなMacBookを置いている。
何というか、精一杯背伸びして「できるビジネスマン」を装っているが、それがあまり成功していない感じだ。
俺は思わず、社長の向こう、奥の厨房の中で仕込みをしているスタッフに目をやった。大きな体をした、少し強面のコック服の男。あっちの人のほうがハンバーガー屋のオーナーという感じがする。
「おい、聞いてるのかよ」
「あ……はい。聞いております」
慌てて言うと社長は「まったく」と大きなため息をつき、大きな声で畳み掛ける。
「うちがおたくにいくら広告費払ってるか知ってんの? それなのに全然採用できないじゃない。毎回毎回ただ平謝りするだけでさ、だから担当変えろって言ったんだよ。ちゃんと採用できる奴をよこせって。そしたらいきなり遅刻してきて、こっちの話もまともに聞いてない。舐めてんの、俺のこと」
俺は驚き、思わず隣で黙ったままの保科を見た。そういう経緯だったのか。その一発目のアポで遅刻……社長が怒るのも当然だ。
「いや、そんな、舐めてなんて……すみません」そして俺は今更のように、社長がずっと保科ではなく俺に対して言葉を投げていることに気づいた。
……もしかして社長は、俺が新しい担当営業だと思っているのか?
「まあいい、とにかくあんたがどういうプランを持ってきたのか聞かせてくれ。こっちも忙しいんだ」
絶対そうだ、と思った。そして保科もこうなることをわかっていて俺を連れてきたに違いない。
クソ、なんて人だ。
心の中で悪態をつきつつ、それでも俺は社長の言葉に安堵を覚えた。クレーム対応には慣れていないが、「プランの説明」なら毎日やってきた。保科が何も言わないつもりなら、俺だって勝手にやらせてもらう。
そして俺はいつもの商談のように、現在あらゆる業界で採用難が続いていること、有効求人倍率は高まるばかりで、求職者側の完全な売り手市場になっていることなどを説明した。
その上で、特別な顧客にしか適用できない施策を使えないか交渉してみる、それによって中長期的な掲載料金の割引が実現でき、限定枠のオプションにも参画しやすくなる、そう言うと、社長の怒りのトーンが明らかに薄まったのがわかった。
「そういった打ち手を取れれば、恐らく御社の採用活動も、改善されているのではないかと思っているのですが――」
「ふん……なるほどね」
社長は小さく頷きながら手元のMacBookを操作する。そして本体をぐるりと回転させて、ブラウザ上に表示されたGoogleスプレッドシートを見せた。
「ざっくり計算すると、いま採用単価はこれくらいなわけ、これをいくらまで下げられる?」
俺はいよいよ手応えを感じた。この手の会話ならお手の物だ。俺は一応オフィスから持ってきていた様々な資料と電卓を取り出すと、施策適用がかなった場合の掲載料金を即座に計算する。
「そうですね、だいたいこれくらいまでは下がるのではないかと思います」
俺はそう言って電卓を社長側に向ける。社長は目を細めてその金額を見つめ、「なるほどね」と呟くように言う。
勝った、と思った。
これで立場は逆転だ。実際、施策適用がかなうかどうかは別としても、俺がこれまでに培ってきたいろいろなノウハウを使えば、少なくともこれまでよりも割安な掲載を実現できる。
「もちろん、これは概算ですので、再度弊社にチャンスを頂けるということであれば、あらためて具体的なお見積を作成させていただきます」
スラスラと口を出る言葉に、我ながらいい感じだと思う。社長の表情も緩み始めた。よし、これでもう大丈夫だ。
……しかし、一体俺は何をやっているのだろうか。
わけもわからないまま商談をしてしまったが、俺は別にこの店の営業担当でも何もない。隣でただ黙って座っているこの頭のおかしい制作マンにつれられて、クレーム処理をさせられただけなのだ。そもそも俺は、「研修」に来ただけなのに。
……まあいい、とりあえずこの場を収めて、あとでしっかり文句を言ってやる。こんな状況を知ったら、あの鬼頭部長だって俺をすぐに呼び戻すに違いない。
頭の一方でそんな事を考えながら、「いかがでしょうか。弊社にもう一度チャンスをいただけませんでしょうか」とトドメの一言を投げた。
「……オーケー、わかったよ。もう一回だけ、おたくで掲載してあげるよ」
「ありがとうございます。それでは社に戻り次第、さっそく見積もりを――」
これで終わりだ。
確信を覚えて資料を片付け始めた時、それまでずっと黙っていた保科が、小さく笑い、そして、信じられないことを言った。
「バッカじゃねえの」
社長の動きが固まった。そしてゆっくりと保科を見る。いや、それは俺にしても同じだった。
「……保科さん?」
聞き間違いかもしれない。いや、そうであって欲しい。
「……何だ君は。何がバカだというんだ」
社長が呻くように言った。保科は肩をすくめ、だが特に躊躇する様子もなく、こう言い放った。
「こいつが今した話だよ。社長さん、あんな話に納得したんですか?」
「ちょっと……あんた一体何を……」
思わずそう言う俺を、保科ではなく社長が手を上げて制した。社長は目を剥き、歯を食いしばった顔は、怒りのためか赤くなっている。
「この人は……この人は採用単価を下げるって言ったんだぞ。掲載料金も割安になるって……それのどこがバカなんだ」
声がおかしい。何かをせき止めているような、喉の奥に落ちていくような声。もうやめた方がいい、そう思って保科を止めようとしたが、間に合わなかった。保科はそんな社長を前に、まるで1たす1の答えを言うような気軽さで、言った。
「うーん、それがバカだとわからないところ、かな」
「何だと!」
社長が叫んで立ち上がる。
「何だその態度は! 何なんだお前は! ずっと自分は関係ないみたいな顔しやがって、やっと口を開いたと思ったらそれか! お前……俺が、俺がどんな思いで商売やってるかわかってるのか! バイトは入ってもすぐ辞めるし、店もまとも回らない。だから売上も上がらないし、それでも高い金を払って求人を出し続けているんだぞ! お前、採用ってものを真剣に考えているのか!」
そこまでを一気に吐き出した社長は、肩で息をし、そして鬼の形相にも泣き顔にも見える表情で保科を睨みつけた。俺は怖くなった。保科は一体何を考えている。客のこんな顔を商談の場で見たことなどこれまでに一度もない。いや、商談の場だけじゃない。俺はこんなにも感情をむき出しにした人間を見たことがあっただろうか。
重苦しく、悲痛な空気。俺は保科を見た。奇妙なことだが、助けを求めるような気持ちだった。社長をこうさせたのはこいつなのに、なぜかどこかで、保科ならどうにかしてくれるような気もするのだ。
「採用を真剣に考えているのか……か」
保科は独り言のように言い、そして、微かに俯いて小さな溜息を漏らすと、上目遣いに社長を見据えた。
「その言葉、そのまま返しますよ、社長」
「な……」
絶句する俺と社長を前に、保科は続ける。
「だってそうでしょ。採用の打ち合わせなのに、なんで掲載期間だとか金額だとか、そういう話ばっかりなんだよ。採用ってのは、人間の話だろ? だったらもっと、人間の話しようぜ」
……ドキリとした。
人間の話。
社長も同じだったのかもしれない。怒りのあまり見開かれていた目が、ゆっくりと机に降りていく。だが、怒りがおさまったわけではない。当然だ。
「お、お前に何がわかる……お前みたいなガキに……」
すると保科は何を思ったのか自分のリュックをガサガサと漁り始めた。そして中から赤い表紙の単行本を一冊取り出すと、それをどんとテーブルに置く。
見るからに古い本だ。タイトルは……『美食の本懐』。著者はアーロン・ウッドワード。赤い表紙に、何も乗っていない皿を持つコックのイラストが書かれている。
「これは……」
社長は目を丸くして呟くと、その本に手を伸ばした。
「保科さん……何ですかこの本?」
「……四十年くらい前に発売された、ある美食家のエッセイだよ」
「美食家?」
「そう。でも、別にうまい店を紹介してる本じゃない。食べるとはどういうことか、いや、幸せとは何なのかって妙に漠然とした話を延々と語ってる。……そうですよね、社長」
「どうしてこれを……」
社長は信じられない、という顔で本を手に取り、保科に言った。
「10年くらい前、ある人が社長の作ったバーガーを食べて、その時の感想をブログに書いて残してたんだよ。その人はバーガーのうまさに感動して、それを作った当時の社長に声をかけた。どうしてこんなバーガーが作れるのか、どんな工夫をしているのか、モチベーションは何なのか。そんな質問に対して、社長は答えた。ウッドワードの『美食の本懐』が原点だということ。食べることを通じて人を幸せにしたい、幸せは食から生まれるってことを教えたい。その触媒としてうまいバーガーを作ることが、自分の使命なんだって」
「使命……」
「社長はうまいバーガーを作るために、そしてそれを食べた人たちを幸せにするために頑張った。毎日遅くまで店に残って、新しい商品を開発したり、サイドメニューを考えたりした。おかげでお客さんはどんどん増えた。当然、大勢のスタッフが必要になった。でも、これは俺の想像ですけどね社長、あの頃は採用に困ったりはしてなかったんじゃないですか?」
「………」
社長は黙っていた。
「誰よりも率先して行動する社長に共感して、あるいはその調理の腕に憧れて、ここで働きたいって人がたくさんいたんじゃないですか?」
「………」
「クーティーズは活気ある店になった。売上もかなり上がったんでしょう。それで店を移転することにした。それまでの店舗の二倍以上の広さだ」
「え……じゃあ昔はここじゃなかったんですか」
思わず口を挟んだ俺に保科は、「だからそう言ってんじゃん」とバカにしたように答える。
「元々は下北沢にあったんだよ。名前は今と同じだけど」
「そうなんですか……でもなんでそんなこと知って……」
「結構な有名店だったみたいで、ネットにいろんな情報が残ってたよ。とにかく――」
そして保科は社長に向き直り、話を続ける。
「若者や観光客メインの下北と違って、新橋はサラリーマンの町だ。店も大きくなったし、客層も変わるしで、社長はだんだんと経営者としての仕事に追われるようになった。社長自身が厨房に立つ機会は徐々に減っていったんでしょう。結果、経営的には成功。ただ、注文を受けてからパティを焼き始め、一皿一皿時間をかけて丁寧に盛り付けを行うこれまでのメニューだと、回転率という意味では課題があった。そこで社長はより大きな利益を求めて、メニューを一新することにしたんだ。これまでよりもシンプルかつライトなものに。とにかく回転率を重視して、店員も増やすことにした。求人広告を出すようになったのはその頃……つまり移転から半年後だ」
「どうしてそんなことまで……」
「今朝、会社のPCで掲載実績を調べた。初回掲載は今から約2年前。つまり、移転から半年だ」
そうか、と思う。掲載実績はAAのネットにログインした状態でなければ調べられない。今朝保科がHR特別室――AAのネットが使える環境――に顔を出したのは、その為だったのか。
「やがて社長は、完全に店舗から離れた。その経緯はよくわからないけど、とにかく現場のオペレーションは社員やバイトに任せて、社長業に専念することになったんだ。……それから2年、社長は今採用に困ってて、そして多分、あの時と同じ失敗を繰り返そうとしてる」
黙ったままだった社長が、保科のその言葉にピクリとし、視線を上げた。
「……お前に何がわかる」
声が震えていた。保科は肩をすくめる。
「お前に何が――」
社長が続けて言おうとした時――
「あの……社長」
突然、低い声がした。
ふと見ると、先ほど厨房にいたあの大きな体の男が、いつの間にかこちら側に出てきて、社長の後ろに立っていた。大きな体に似合わない、小さな声。
「何だ! 今忙しいんだ」
社長が今度はその店員を睨みつける。身長差は二十センチほどあるだろう。彼の前では小柄な社長は子どものようにも見える。
「いや……あの……ちょっと相談したいことがあって……」
「うるさい! 後にしろ!」
社長が声を荒げる。男はその反応に、怯えたように俯いた。
「わかりました……もういいです」
男はボソリとそう言うと、カウンターではなく店の出口へと向かっていった。扉が開き、ガロンガロンと鈴が鳴る。
「お、おい……どこに行くんだ!」
呆然として叫ぶ社長を横目に、なぜか隣の保科が、大きなリュックを背負って立ち上がった。
「じゃ、あと頼むわ」
「は? どこ行くんですか」
俺の言葉を当然のように無視し、保科は小走りに店から出ていってしまった。
……
クーティーズバーガーの厨房にいた大きな体の男が店を出ていき、それを追うように保科が去っていった後、社長の怒りは嘘のように消え、ただ呆然とした表情でテーブルを見つめていた。
「じゃ、あと頼むわ」そう言って出ていった保科。めちゃくちゃだ。まともな大人とは思えない。
だが、この店に入る前と今とでは、保科に対する印象が変わったような感じがする。どう変わったのか、そう聞かれてもよくわからない。あの小柄なキャップの男は、間違いなく頭がおかしい。おかしいが………しかし。
気づくと社長は、テーブルの上に置きっぱなしだった『美食の本懐』に手を伸ばし、静かにその表紙を開いた。黄ばんだページ、途中で千切れている赤いしおり紐。
ビジネスマンというより、やはり職人独特の節だった社長の指が、その表面を優しく撫でていく。その顔に浮かぶのは、もう感情とも呼べないような何かだ。笑っているようでもあり、泣いているようでもあり、そして何も感じていないようにも見える。
居たたまれなかった。黙って本のページをめくる社長を見ているのも、あるいは、その社長に見つめられるのも、嫌だった。今すぐにここを出たい。こんな、何かが「剥き出し」になったような場所には、もういたくない。
「あの……じゃあ、また連絡しますから」
一方的に言って席を立った。
滞在時間は三十分程度だっただろう。だが、店を出た途端、長い夢から醒めたような感覚があった。
スーツを着たサラリーマン、みっしりと連なった飲食店。新橋の町は、三十分前と何も変わっていない。その「日常」に早く戻りたいと、俺は慌てて足を踏み出した。
◆
HR特別室に戻ると、向かって左側のミーティングスペースに保科が座っていた。キャップを取り、それを左の指でクルクルと回している。途端に怒りが沸き起こった。
「ちょっと保科さん!」
だが次の言葉が出る前に、俺は思わず口をつぐんだ。保科の向かい側に、見覚えのある男が座っていたからだ。
「あ……あなたは……」
それは間違いなく、さっきの店、クーティーズバーガーで見たあの大男だった。汚れた調理服。ポマードのようなもので固められた黒髪。髭。その風貌に似合わぬおどおどした態度。
「来客中なんだ、静かにしろよ」
振り返った保科が、左手で弄んでいたキャップをかぶりつつ言う。その向かいで、大男が上目遣いに俺を見、小さく会釈する。
「……あの……先ほどはすみませんでした」
「え……あ、いえ」
状況が飲み込めない。保科はともかく、なぜこの男がここにいるのだ。いや、いま思えば確かに、保科はこの男を追って店を出たような感じだった。だが、一体何のために? そして、なぜ二人してここに来るんだ。
「あの、保科さん。どうしてこの人がここに……」
「取材してんの。つうかさ、そんなとこで突っ立ってられると気が散る。座るかどっか行くかして」
そう言われて、わけも分からず俺も腰を下ろすことになった。……いや、ちょっと待て。取材?
俺が混乱する横で、保科は向かいの男に話しかける。
「じゃ、茂木さん。あらためて聞かせてください。どうしてさっき、店を飛び出したりしたんです?」
男の名は茂木と言うらしい。まるで警察官に取り調べを受けているように、落ち着かない様子で視線を動かす。
「それは……」
茂木が口ごもる。確かにこの人はなぜ店を飛び出したのだろう。社長の驚きようからすると、あれは予定外の出来事だったに違いない。もしかしたら茂木自身も、自分がなぜ飛び出したのかわからないのかもしれない。
「茂木さん、これは採用のための取材だよ。あなたが話してくれないと、原稿なんて書きようがない」
原稿……。やはり保科は制作マンなのだ。だが、社長にあんな態度を取った以上、掲載依頼などもらえるはずがないではないか。原稿制作も、そのための取材も、無駄でしかない。
保科の言葉に、しばらく黙っていた茂木はやがて、意を決したように顔を上げた。
「もうダメだな、と思ったんです」
「ダメって?」
保科が先を促す。いつの間にか手元にノートを広げ、メモを取り始めていた。
「俺……ほぼ創業時からのメンバーなんです。下北の店ができて三ヶ月後くらいに入ったんで、もう10年近くになるんですけど」
「下北のOPEN3ヶ月後っていうと、2014年の秋頃か」
保科が即座に返す。
「そうですね。それくらいです。次の年の4月に正社員になって、そこからは一応ずっと、頑張ってきたんですけど。でも、もうダメだなって。ダメっていうか、あんな社長、もう見ていたくないっていうか」
社長の話が出て、なぜかドキリとした。ほんの10分か15分ほど前、魂が抜けたような顔で、保科の置いていった単行本を眺めていた社長の姿が思い出される。俺が店を出た後、社長はどうしただろうか。
「前の社長はどんなだったんです? 今とは違ってたわけでしょ」
「そりゃあもう」
保科の言葉に、茂木は大きく頷く。
「なんていうか、24時間ハンバーガーのことしか考えてないって感じの人でした。毎日のように新メニューを開発しては、俺たちに試食させるんです。テキトーな意見を言うと怒られてね」
「怒られる?」
思わず俺が口を挟むと、茂木は「ええ」とどこか照れたように笑う。
「うまい、とか、いい感じ、とか、そういうのじゃ納得しないんです。社長、これを食べてお前は何を考えた、少しでも幸せを感じたか、みたいな聞き方をするんですよ」
「幸せ?」
「そうです。幸せは食から生まれる……ってのが社長の口癖で。……ほら、さっき保科さんが持ってきてたあの本、『美食の本懐』でしたっけ。あれの受け売りらしいんですけど。とにかくあの頃の社長は、バーガーを通じて人を幸せにするってことに全力を傾けてる感じでしたね。誰よりも早く店に来て、誰よりも遅く帰ってましたし、オーダーが溜まって大忙しなのに、ちょっとでもバーガーを残した客がいると店の外まで追っかけてって話を聞いたり」
「そりゃすごい」
保科が嬉しそうに鼻を鳴らす。
「そうやっていろんな人からいろんな意見を聞いて、どんどん新しいメニューを開発してました。その数は何百種類だと思いますよ。素材とかにもすごくこだわってて、バンズの新しい仕入先を探すためだけに2週間店を閉めたこともありました」
「なんか……バーガーづくりに取り憑かれてるって感じですね」
思わず言うと、茂木は頷く。
「ええ、まさに。……でも、俺はそんな社長が好きでした。俺だけじゃない、他の社員やバイトたちも皆そうだったと思います。社長がハンバーガーのことしか考えてないから、組織体制とか待遇とか、そんなの全然整ってなかったし、給料だって安かったですよ。バンズの件で2週間店を閉じたときなんか、俺達の給料まで半分になるところだったんですから。……でも、それを不満になんて思わなかった。むしろ、社長がバーガーのことだけ考えていられるように、皆でフォローしようって話し合って」
「どうしてそんな風に思ったんですか」
保科が聞く。茂木は昔を懐かしむように天井を見上げ、ポツリと言った。
「社長の作るバーガー、本当にうまかったんですよね」
「なるほど」
保科はニヤリと笑い、深く頷いた。妙に楽しそうな様子で、ノートに何事かを書き込んでいく。
いや、何が「なるほど」なんだ。俺にはまったくピンと来なかった。
社長の作るバーガーがうまいと、なんで給料が減ってもいいと思うんだ。俺なら絶対にゴメンだ。どうして社長の道楽に社員がつきあわなきゃならない――
「ちなみに、茂木さん以外の社員さんは?」
保科が言うと、茂木は悲しげに視線を落とした。
「辞めましたよ。店をリニューアルオープンしてから、少しずつ」
リニューアルオープンというのは、さっき保科が店で話していた移転のことだろうか。下北から新橋へ。二倍以上の広さの物件に引っ越したんだと言っていた。おそらくそれでオペレーションが変わったのだろう。それに不満を持った社員たちが辞めていった。
そういう話は、小中規模のクライアントを多く抱える営業三部や二部の人間からよく聞いていた。特に飲食店というのは、立地や客層のちょっとした変化で売上が大きく変わる。儲かっていたからと言って、そのビジネスモデルがどこでも通用するかと言えばそうではない。同じ地区内でも、通りを一本移動しただけでガクリと売上が落ちた、という話もあるくらいだ。
「大きな物件に移動したことで、オペレーションが大変になったんだ。それでしんどくなって辞めていった。そうでしょ?」
思わず言った。俺だって天下のAA、それもエリート揃いである「営業一部」の人間だ。まだ3年目の若手には違いないが、大手企業をいくつも担当してきたプライドはある。
しかし保科は「はあ?」という顔をした。
「社員たちが辞めたのは、店が移転したせいじゃねえよ」
「え?」
「メニュー刷新がキッカケだ。そうでしょ? 茂木さん」
保科がそう言うと、茂木は深く頷いた。
「そうです。その通りです」
「移転当初は、皆あんなにやる気だったのに?」
「え……ええ、そうです。移転に伴ってはバイトが数名辞めた程度で、社員は全員残ってました。状況が変わったのはメニューが変わった後です」
茂木が少し戸惑ったように言う。
「ちょっと保科さん、なんでそんなことまで知ってるんですか」
だが保科は俺の言葉を完全に無視し、「具体的には、何が変わったんです?」と茂木を促す。
「そうですね……それまでとは違って、効率とスピードが重視されて、そして何より、社長がいなくても作れるような簡単なレシピになりました。確かに回転率は上がったんです。客単価も200〜300円くらい下げたんで、新規の客もかなり増えましたし。でも、反対にスタッフのモチベーションはどんどん下がるばかりで……それで気づいたら一人、また一人と辞めていって」
「社長はそのことを知ってたわけでしょ。つまり、社員たちがどんどん辞めていってること。彼はその間、何してたんです?」
茂木の顔が暗くなる。
「店長……いや、すみません。以前は社長が店長をやってましたからそう呼んでたんです。……社長はその頃にはもう、社長業っていうんですか、そういうのに夢中になってて、現場にはほとんど顔を出さなくなってました。何とかコンサルタントとか、横文字の肩書の人たちとつきあうようになって、データとか生産性とか、そういう話ばかりするように……。
そもそもメニュー刷新の件も、社員には何の相談もなく社長が決めたんです。多分、そういう外の人たちの入れ知恵だと思うんですけど。とにかく、なんというか、社長は変わってしまったんです。辞めていった社員のことも、あいつらは新しいシステムに対応できない古いタイプの人間だったんだ、って言って」
「なるほど……でも、茂木さんは残った。なぜです?」
「別に……俺しかいなかった、っていうだけのことです。正直、逃げ遅れたって感じですよね。気付いた時には社員は自分しか残っていなくて、だからバイトたちのシフトを増やすんですけど、店を任せられるほどモチベーションの高いバイトなんてなかなか見つからないじゃないですか。
……いや、下北時代は自分含めてそういうバイトもいたんですけど……今はもう、1日3時間だけならとか、土日は無理とか、当日ギリギリになっての欠勤とか……そういうのが当たり前で。だから、結局、俺が店に立つしかないんです。別に残りたくて残ってたわけじゃありません」
「……」
「……」
俺も保科も何も言えなかった。茂木はこういう話を、もしかしたら初めて誰かにしたのかもしれない。だが、吐き出してスッキリした、という感じには見えなかった。どちらかと言えば、話す前より苦しそうですらある。その顔は、まるで先ほど店で見た社長のようだ。そんな人に、どんな言葉をかけられる。
沈黙を破ったのは、茂木だった。
「さっきも言いましたけど、社長の作るバーガーは本当にうまかったんです。バーガーの神様なんじゃないかって、社員たちの間ではよく言い合ってました。でももう、社長はあの頃の社長じゃない。バーガーの神様は、もうあの力をなくしちまったんでしょう」
保科は目を細めてそれを聞いていた。そしてちらりと壁掛け時計を確認し、言った。
「よし、茂木さん。確かめに行こう」
「……」
茂木は黙って保科を見返した。数秒間、二人は見つめ合った。やがて茂木がふっと笑みを浮かべ、頷いた。
「そうですね。そうしましょう」
いや、ちょっと待て。一体何の話をしてるんだ。
状況についていけず二人の顔を交互に見つめる俺に、保科がおかしなことを言った。
「よし、今すぐ店に戻るぞ」
「……は? なんでですか」
店というのは恐らく、さっきまでいたあの店、クーティーズバーガーのことだろう。だが、なぜ? 今からあそこに行って何をしようというのか。
呆気にとられていると、なぜか嬉しそうな顔をした保科が俺を見た。
「よし営業マン、速攻ダッシュして社長を引き留めとけ」
「は?」
「早くしないと社長、どっか行っちゃうかもしれないじゃん」
「い、いや……ちょっと待ってくださいよ、さっきから何を言ってるんです。どうして社長を――」
思わず言い返す俺に、保科はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だから、神様のつくる“幸せ”を、食いに行こうって言ってんだよ」
◆
何だ……俺は一体何をやってるんだ。
ほんの数十分前に戻ってきた道を走りながら自問自答する。はっきりした答えが出る前に、久々に動かす体がすぐに悲鳴を上げ始める。
営業三部に配属された同期は、靴が二ヶ月でダメになるのだと言っていた。足で稼ぐ営業。泥臭い仕事。
そういう話を聞くたびに、俺は内心バカにしていた。なんて非効率なことをやってやがる。営業なら足ではなく頭を使え。同じ時間で高い成果を上げることこそ、営業にとっての「生産性」だ。
そんな俺が今、走っていた。しかも、理由もよくわからないまま。
何なんだ。この情報化社会の今、しかも、名だたる大手を相手にする営業一部の俺がなぜ走らなきゃならない。
「クソっ」
悪態をつきながらも、なぜか俺は走り続けた。
記憶の隅に、保科が茂木に対して行っていた「取材」の様子が残っていた。頭のおかしい保科の「取材」。
時給を聞くでも、待遇を聞くでもない、まるで芸能人のインタビューのようなパーソナルな話ばかりだった。あんな情報で求人の原稿が作れるはずもない。メチャクチャな取材だと、できれば否定したい。だが、なぜかそうし切れない自分がいる。何かが自分の中で引っかかっている。
こんな気分になるのは初めてかもしれなかった。俺は自分が何を感じているのかはっきりとはわからないまま、新橋駅前を行き交うサラリーマンの間を駆け抜ける。
4月の午前11時、すぐに額に汗が浮かんでくる。右手に家電量販店。観光客らしきアジア人の団体が、店頭に並べられた目玉商品の前で満面の笑みを浮かべている。あの商品を買うためにわざわざ日本に来たのだろうか。非効率なことしやがって。このネット社会、欲しいものがあるなら通販で買えばいいじゃねえか。
だが、商品の箱を抱えてガッツポーズをする父親らしき男の嬉しそうな顔を見た時に、なぜか突然、保科の言葉が蘇った。
――採用ってのは、人間の話だろ?
気づいたときにはクーティーズバーガーの軒先に立っていた。汗が全身から吹き出してくる。こんなに走ったのはいつ以来だろうか。上がる息を整えながら、扉を押した。既に聞き慣れたガロンガロンという鈴の音。
「しゃ……社長……」
社長はまだ店にいた。さっきと同じ席に座り、難しい顔をしてMacBookに向き合っていた。
「……すみません……あの……」
何をどう言えばいいのだろう。だいたい俺は何のためにここに戻ってきたのか。顔を上げた社長は俺に気付くと、一瞬驚いた表情をし、だが次の瞬間には、保科と遅刻してきたときに見せたような難しい顔になった。
「何の用ですか。もう御社と話すことはありません」
社長はぴしゃりとそう言うと、またPCに視線を戻してしまう。先ほど見た、どこかぼんやりした様子はもうなかった。テーブルの上にはまだあの本が置かれたままだったが、その存在を拒絶するように、天板の隅に裏返して置いてある。それはそのまま、俺たちAAに対する気持ちだとも感じられた。
冷静に考えれば、あんな態度をとっておいて、契約がもらえるはずもない。いや、社長の態度は控えめだとさえ言えた。たとえば、これがもしウチの鬼頭部長だったら……
そう考えてゾッとする。
あんな態度を商談相手がとったとして、鬼頭部長はどんな反応をするだろうか。仮にもう一度商談を再会したいと望むなら、上司を連れてくるなり何らかの補償をするなりしなければダメだろう。もちろん、担当営業の全力の謝罪があった上でだ。
……謝罪か。
普通に考えれば、まず俺がすべきはそれだ。だが、心のどこかで、俺はいま社長に、そうではない別の何かを伝えなければならないのではないか、という気もした。……しかし、それが何なのかがわからない。頭の中で、保科の言葉やHR特別室で見た茂木の悲しそうな顔が浮かぶ。
黙っている俺に、社長が溜息混じりに顔を上げた。
「なんなんだね、一体。もう話すことなどないと言っているだろ? こっちはね、忙しいんだ。人手が足りないし……社員もどっか行っちまうし……」
社長は自嘲的な表情を浮かべ、iPhoneを持ち上げてみせる。
「それに、バイトもドタキャンだよ、店のグループラインで一方的に報告して終わり、ときた。……見てみろ、ランチ時間間際なのに店員が一人もいない」
社長はそう言って投げやりに笑った。唯一の社員というのは茂木のことだろうか。
「まったく……誰一人頼りにならない。俺は一人でこの店を守らなきゃならない」
「社長……あの……そうですよね」
何か言わなければと、適当な相槌を打った。すると社長はカッと目を見開いた。
「何がそうですよね、だ! あんたなんかに俺の気持ちがわかってたまるか! 会社に雇われて、ぬくぬく営業してりゃいいだけなんだからな! 採用ができようができまいが、あんたの懐は何も痛まない。だけどな、俺にとっちゃ、死活問題なんだよ! 採用できないことが、こんなに……こんなに……」
そして社長はまたうなだれ、頭を抱えるようにしながらこめかみを揉んだ。
社長は明らかにおかしかった。情緒不安定というか、人が狂う過程に立ち会っているような感じがする。そのキッカケを作ったのは俺たちなのかもしれない。だが、目を見開いてこめかみを激しく揉む社長を見ていると、何をそこまで苦しんでいるのかと違和感を覚える。
……たかが採用の話じゃないか。死活問題って……どうしてそこまで……
その時、背後でガロンガロンと鈴の音がした。ハッとして振り返る。
茂木と保科だった。緊張した面持ちの茂木と、いつも通り無表情の保科。やがて保科が茂木の大きな背をすっと押すと、茂木は頷いて、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
俺の横を過ぎ、そして社長の前へ。視線を落としていた社長が、その気配にゆっくりと顔を上げる。
「……茂木、どこ行ってやがった。もうランチまで時間が――」
「社長、いや、店長」
言葉を遮るようにして茂木が言う。
「俺と勝負してください」
その言葉に、社長は眉間にしわを寄せ、口をぽかんとあける。いや、俺も同じ気持ちだった。この人、一体何を言い出すのか。
「……お前、なにわけのわからないことを言ってんだ。いいから早く開店準備を――」
「受けてくれなきゃ、この場で辞めます」
「な……」
驚く社長を残し、茂木は店の奥へと歩いていく。そしてそのまま、カウンターの向こう、つまり厨房に入っていってしまった。呆然とその背中を目で追っていた社長に、保科が声をかけた。
「審査員は俺たち、やりますから」
保科の細い腕が俺の肩口に置かれ、「な?」と言う。
「どっちのバーガーがうまいか、知りたいよな」
「え?」
「バーガーの神様がご健在かどうか、確かめないと」
保科の言葉に、俺より社長が反応した。
「神様……バーガーの……」
「おかしな話でしょ。でも、茂木さんがそう言うもんだから。社長は、いや、店長はバーガーの神様だったんだって。そうまで言われちゃ、確かめたくなるじゃないですか」
「……」
厨房の中に入った茂木は既に、調理のための準備を始めていた。その表情には、確かに覚悟の色が見て取れた。茂木は本当に、社長がこの勝負を断ったら辞める気なのだろうか。
先ほどHR特別室で見た、茂木の思い詰めた顔が浮かんだ。
微かに、納得感があった。あの人がいま対峙しているのは、職場としてのこの店ではないのだ。そうではなくて、10年以上にもわたってこの店につきあってきた、自分自身と対峙しているのだ。
「社長のハンバーガー、食べてみたいです。この勝負、受けてください」
気付いた時には、俺もそう言っていた。
社長は渋々といった様子で立ち上がると、厨房の中で仕込みに入っている茂木の方をじっと眺めた。それから、微かに聞こえる店内音楽よりもさらに小さな溜息を漏らすと、ゆっくりと店の奥へと進んでいく。俺たちの視界から一瞬消えた社長が、カウンターの向こう、四角く切り取られた厨房の中に再び現れる。
それでも社長は、茂木の横に立ち尽くしていた。作業をするでもなく、何か話すわけでもなく、ただ黙って茂木を見ている。使い込まれた様子の厨房の中では、社長の着た真新しいギンガムチェックのシャツが妙に浮いて見える。
やがて茂木は手を止め、どこからか取り出したエプロンを社長に差し出した。社長は微かに戸惑った様子で、しかしそれを受け取ると、シャツの上に身につけた。そして手首のボタンを外すと、腕まくりをして、手を洗い始める。
俺は保科と並んで座り、その様子を観察していた。社長は手を洗い終えると、おそらくは足元にあるのだろう冷蔵庫の中から、いくつかの食材を取り出した。レタス、トマト、そして、見慣れないスパイスが入った瓶。
そのとき俺は、不思議なものを見た。食材を用意している社長の表情が、ふっと変化したように見えたのだ。周囲全部を敵だと見ていたような強張った顔が、少年を思わせるような、どこかやんちゃな、得意げな顔に変わった。
「保科さん」
「……なに」
声をかけたのは俺なのに、何を言うつもりだったのか自分でもわからない。俺はまるで言葉を失ったように、自分よりずっと小柄な、キャップにロン毛というふざけた格好の「先輩」を見つめた。俺の視線を横目で捉えた保科は、小さく溜息をつくと、「あんたさ……」と言った。
「なんでこの業界入ったの」
「え……」
「たくさんある企業の中で、なんでウチを選んだの」
なんだそれ、なぜ今そんなことを聞くのか。しかし、どこかで聞いた気がした。視線を落とし、記憶を探る。最近もどこかでそんな質問をされたような……そうだ、あれは――
――お前の志望動機、なんだっけ――
ハッとして保科の顔を見ると、その視線は既に俺でなく、厨房の中に注がれていた。俺もそれを追う。カウンター席の向こうの厨房で、茂木と社長が並んで手を動かしている。
「あの二人は、なんでこの業界だったんだろうな。どうして、この店だったんだろうな」
「……」
「ここにいる理由を聞かれて、どうしてここで働いているのかって聞かれて、すぐに答えられる人って、どれくらいいるのかな」
その時、茂木がチラリと社長の方を見、そして、照れたような笑いを一瞬浮かべたのを、俺は見逃さなかった。
何だ……
何なんだ……この感覚。
……たかが採用じゃないか。どうして、どいつもこいつもこんな……
俺にとって採用とは、求人広告を売るための免罪符のようなものに過ぎなかった。企業から金を引っ張るための、便利な言い訳。
確かに口では毎日言っていた。「御社には人材が必要ですよ」「人材がいなければ事業も売上も成長しませんよ」。だがそこで言う「人材」とは、果たして何のことだったのか。俺はそこに、「人間」の体温を一度でも想定したことがあっただろうか。
約5分後、肉の焼けるうまい匂いを漂わせながら、茂木と社長が出てきた。茂木の手には、2枚の皿。
「お待たせしました」
茂木はそう言って、俺たちの前に皿を置く。楕円形の白い皿に、2つの大振りなバーガーが乗っている。
「どっちを誰が作ったのかは、秘密にしといてくださいね」
保科が言って、茂木が頷く。
「わかってます。フェアに判断してください」
保科が頷き返し、片方のバーガーに手を伸ばした。
「ほら、あんたはそっちから」
促されて俺も残った方のバーガーを手に取った。
あたたかいバンズ、肉汁のしたたるパティ。昼が近いこともあって、腹は減っていた。躊躇なく鼻を刺激するそのうまそうな匂いに誘われ、思わずほおばった。
口の中に旨味が広がって思わず唸った。全国チェーンのバーガーとは明らかに違う食べごたえ。
「うまい……これ、うまいっすよ」
「じゃ、交換」
保科にそう言われ、俺たちはバーガーを交換した。そして再度ほおばる。
……
……
衝撃を受けた。
明らかに違った。
先ほどのバーガーとは、レベルが違っていた。
やわらかいのに歯ごたえのあるバンズ、香りの強さ、滴る肉汁。挟まれているレタスの一枚にすら、強烈な旨みを感じる。
先程のものも確かにうまかったが、こちらの方がずっと重層的な味がする。口の中で味が複雑に展開し、強烈な刺激を感じさせてくれる。
「……何だ……これ……」
思わず言うと、保科が俺の肩を叩き、「決まりだな」と言った。そして俺の手の中にあるバーガーを指さし、「こっちの勝ちです」と言う。
すると、茂木の顔がふっと緩んだ。嬉しそうに頷いて、「ちょっといいですか」と俺の持っているバーガーを指差す。
「自分も確かめていいですか」
その表情と言葉で、勝ったのは茂木の作だったのか、と思った。茂木はその大きな手でしっかり掴んだバーガーを、巨体に似つかわしい豪快な大口で一気に齧る。目を閉じゆっくりと咀嚼してから、ゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ。
目を開けた茂木はいよいよ嬉しそうな顔になった。そして、言った。
「さすがです、社長」
「……え?」
思わず声が出る。
「うまいです。本当にうまいです。なんで俺と同じ材料使って、こんなうまいバーガーが作れるんですか」
厨房から出てきて以降、ずっと不機嫌そうな顔で様子を見ていた社長が、チッと舌打ちをする。
「……俺の教えた通りに作らねえからだ。レシピが簡単になったからって、細かいテクニックを忘れていいなんて言ってねえぞ」
不貞腐れたような、どこか照れ隠しのような口調。茂木は俯いて、「……すみません」と言う。だがすぐに顔を上げて、言った。
「俺、あなたに教えてもらいたいことたくさんあるんです。まだまだたくさん……この店をよくしてくには、もっと教えてもらいたいことが……だから……」
それは途中から涙声になった。大きな体を揺らすようにして、絞り出すように続ける。
「社長……いや、店長。店に戻ってきてください。あなたは俺達にとっての神様だったじゃないですか。うまいバーガーを通じて人を幸せにするんでしょ? 前みたいに、馬鹿みたいにバーガーづくりに没頭すればいいじゃないですか」
「茂木……」
社長の表情が、今度こそ本当に変わったのがわかった。何かを決意した顔だった。
その瞬間を待っていたかのように、保科が立ち上がり、言った。
「じゃ、そろそろ求人の打ち合わせ、やりましょっか」
◆
週の明けた月曜、朝7時半。
老齢の化物にも見える新橋駅舎から、サラリーマンたちが吐き出される。月曜だ、今日からまた地獄の日々が5日間も続く、その顔は無言でそう言っている。
いや、彼らはもはやそんな絶望にすら慣れてしまっているように見える。SL広場で偶然行き会った知り合いと笑顔で会釈し合い、視線の離れた次の瞬間には真顔に戻る。まるで、ロボットのような無表情。パンパンにふくらんだ営業バッグに引きづられるように、無数の飲食店とオフィスがキメラ的に融合した、雑多な街へと吸い込まれていく。
HR特別室に向かう俺の足は重かった。
鬼頭部長から突然、HR特別室での研修を言い渡されたのが先週の木曜。明くる日の金曜から、俺はあの奇妙な部署で「研修」を受けることになった。
オフィスのソファでいびきをかく室長、大企業の社長をエロオヤジ呼ばわりするおばさん。そして、キャップにロン毛という格好で客先に赴き、商談相手の社長に向かって躊躇なく「バカ」と言い放つイカれた制作マン。
休日である土日を俺は落ち着かない気分で過ごした。予定を入れる気にもならず、普段なら絶対にやらないスマホゲームをやって過ごした。
俺はよくわからない葛藤に苦しめられていた。原因はわかっている。クーティーズバーガーで見たあの「商談」、そしてHR特別室に戻っての「取材」、再度店に戻って開催された「バーガー対決」、さらには、その後に改めて行われた「求人広告の打ち合わせ」。
たった一日、いや、ほんの数時間の中で目の当たりにした一連の出来事を、俺自身、どう捉えていいかわからずにいた。
SL広場を横目に烏森方面に向かう。やがて、ニュー新橋ビルの角に作られた宝くじ売り場で、このド平日にスウェット上下という格好をしたオヤジがクジを買っているのが目に入った。どうみても社会不適合者。もしかしたらホームレスなのかもしれない。だが、そんな相手にさえ、店員の女性は満面の笑みでクジを渡す。
あの店員は、本当にあの仕事がしたくてあそこにいるんだろうか。
ふと、そんなことを思った。あの人は、どうしてあの仕事をしようと思ったのだろう。やりがいを感じているのだろうか。あんな薄汚い客に対して、なぜそんな笑顔を向けられるのか。
……なんだよ。何を考えてる。
俺は自分にツッコミを入れる。たった一日、頭のおかしい制作マンに同行し、頭のおかしい商談を見せられただけだ。だいたい、保科があのあと社長から取った契約は、たった12万円だ。Webの社員向け求人媒体に、2週間の掲載。そんな新人1年目のような受注に、どれだけの価値があるというのか。
1週間経ったら、俺はまたAAの営業一部に戻る。そして今までのように、大手企業を担当し、何百万もの規模の提案を行う。
営業は、売ってナンボの職業だ。より大きな額の契約をとって、会社に貢献する。それが評価されて、給与は上がり、昇格もする。それが当たり前の世界だ。
――その会社のことを一生懸命考えて、一番いいと思うプランを本気で提案するのさ――
先週、同期の島田に言われた言葉が頭をよぎった。
ふっ、と鼻から笑い声が漏れた。
偉そうに言うあいつも、小さな町工場に300万円以上の求人費を出させて喜んでるんじゃねえか。何が本気の提案だ。営業は儲けた人間の勝ちだ。カッコつけてんじゃねえよ。
エレベーターで7階に上がり、扉を開けた。
入ってすぐのソファには宇田川室長がいて、俺を見るとにこやかに片手を上げた。
「あ、おはよう田中くん」
誰だ田中って。この人はいつもこうなのだろうか。
「……村本です。おはようございます」
「ねえねえ、これ見た?」
室長はそう言って、手に持っていた書類を指差す。
「……何ですか、それ」
遠目でもそれが求人広告のプリントアウトだとわかった。AAでは営業二部や三部がよく売っている、地域密着をコンセプトとした求人媒体だ。俺たち営業一部がメインで扱う正社員向け媒体に比べ、価格帯はかなり安い。
事例か何かだろうか。近づいて覗き込んだ俺は、目を見張った。
「これ……」
このサイズの原稿には1枚だけ写真が入る。そこに写っていたのは、クーティーズバーガーの社長と、そして茂木だった。
「保科くんが作った原稿だよ。キミも同行してたんだろ?」
まだどこか強張った雰囲気の社長と、打って変わって嬉しそうな笑顔の茂木。その写真の横には、「バーガーの神様が、戻ってきました」というキャッチコピーが添えてある。
俺は思わず、室長の手から奪い取るようにしてそれを取ると、文面に目を走らせた。
<私は、勝つつもりでいました。>
そんな印象的な文面で始まった原稿は、茂木の一人称で書かれていた。
<これで最後にしよう、そんな覚悟で臨んだ勝負でしたが、社長のつくったバーガーを食べた瞬間、私は負けを悟りました。いや、もしかしたら、私は食べる前からそれを予感していたのかもしれません。社長と二人並んで厨房に立ちながら、何年ぶりかに見るその手さばきに少しの衰えもないことを確認していたからです。>
原稿はその後、クーティーがどういう店なのか、なぜ入社したのか、どういう想いで働いていたのか、という茂木自身の回想へと繋がり、やがて移転からメニュー刷新の話、一度は辞めようと決意したことなどが、赤裸々に表現されていた。
<私は多分、自分がバーガーに向き合う覚悟を持てていなかったことを、店から離れた社長のせいにしたかったのでしょう。そうやって、大切なことから目を逸らして、自分を正当化していました。でも、今回のことで気づいたのです。次は私が「神様」を目指さなければならない。社長にも負けないバーガーを作って、社長がそうしてきた以上の人たちを幸せにしたい、そう思っています>
基本的に求人広告は原稿サイズと掲載期間によって料金が決まっている。今回AAが受注した12万円の広告は、決して大きなサイズではない。文字数制限は確か2000文字程度。だが、その原稿の隅々にまで、茂木の「ストーリー」が満ちていた。
<クーティーズは、今こんな状態です。それでもいいという方、私と共にバーガーに本気で向き合ってくれる方、まずは一度お店に来ませんか。面接より先に、まずは一口。それで伝わるものが、きっとあるはずですから。>
「なんだ……これ」
思わず呟いた。こんな求人原稿など見たことがない。1人の「人間」をこれほどクローズアップし、それも、「高時給」「残業少なめ」「待遇バッチリ」といった、求職者が聞いて喜ぶようなお決まりの文言も一切使わず、ただひたすらに当事者の「想い」を綴った文面。
――採用は、人間の話だろ――
ふと聞こえた気がして、オフィスの奥へと視線をやった。壁に沿って配置された長テーブルの一番奥、金曜の朝にあの席でPCを操作していた保科の姿が思い出された。
「最後、見たかい?」
「……え?」
「そこ……ほら、採用フローのところに、社長の言葉がある」
言われて再び原稿に視線を落とした。確かに原稿最下部、普通なら「応募→面接→内定」という事務的な内容しか書かれていない採用フローの項目に、びっしりと言葉が書かれてある。
<社長業に専念するあまり現場にほとんど立たなくなっていた私を、茂木という素晴らしい人材がずっと支えていてくれていたのだとわかり、あらためて採用というものの重要性を痛感いたしました。今後は初心に戻り、バーガーに対する情熱をベースにした採用活動を行うつもりです。まずは私が、そして茂木が本気で作ったバーガーを食べに来てください。それからじっくりお互いの考えを話し合いましょう>
「……どう思うかね、その原稿」
宇田川室長はそう言って、奥のデスク――恐らくそこが室長の席なのだろう――についた。
「どうって……」
「うん?」
まただ。また、心が乱されている。ここに来るとろくなことがない。
営業は稼いでナンボ、そう再確認したはずだ。どういう内容の原稿だろうが、たった12万円ぽっちの契約が会社にどれだけ貢献できているというのか。それに、だ。そう、それに――
「……こんな原稿で、効果が出るんですか」
俺は言った。どんな個性的な原稿を出そうが、応募がなければ意味がないではないか。効果が出ない原稿を掲載するなど、金をドブに捨てているのと同じだ。
「効果、か」
宇田川室長は椅子の上で大きく伸びをして、天井を見上げる。
「何を持って効果と言うんだろう、山田くん」
「村本です」
言い返しながらも、言葉の意味を考える。
「そりゃ……最終的には応募数です。ただ、Web媒体なんですから、まずはPVを稼がないとだめでしょうね」
「ほう、PVね」
そうだ。俺の担当してきた大手企業は、応募数と同様、いやそれ以上にPVを気にする傾向がある。
PV、ページビュー、つまりその求人広告が何度表示されたかを示す数値だ。
常に求人広告を出しっぱなしの状況を「ベタで出す」「ベタ掲載」などと言うが、そういう顧客の場合、求職者がいつどの原稿を見て応募してきたかを厳密に管理するのは難しい。
また、応募後の書類選考に時間がかかったり、面接のスケジューリングに手間取ったりするケースも多く、一定期間内の有効応募数を確定させるのは意外と大変なのだ。
だからこそ、常にリアルタイムな数値として参照できるPVで効果を図るというのが習慣化しているのだ。
俺はそういったことを宇田川室長に説明した。Webの原稿なのにわざわざプリントアウトして読む様子を見ると、室長はWebに疎いのかもしれない。
「まあ、営業一部の客と、ここの受け持ちの客は違うのかもしれませんけどね」
皮肉を込めて付け足したが、宇田川部長はそれをどう受け止めたのか、ニコニコしたままこちらに視線を向けた。
「茂木さんにとっては、どうなのかなあ」
「……は?」
「茂木さんにとっての、あるいは社長にとっての効果、って何なんだろうと思ってね」
「……」
思わず黙ると、宇田川室長はふふ、と声に出して笑った。そして俺をじっと見つめると、微かに目を細めるようにして、言った。
「なんとなく、鬼頭さんが君を送り込んだ理由がわかってきたよ」
(【第2話】ギンガムチェックの神様 おわり)