見出し画像

これからの採用が学べる小説『HR』|【第4話】「正しいこと」の連鎖

【第4話(最終話)】「正しいこと」の連鎖

待ち合わせは、六本木の某オフィスビル1階にあるスターバックスで。

東京で暮らすようになったのは大学からで、既に7年ほどが経っているが、それまでは東海地方の片田舎で育った。渋谷とか原宿とかいう名はテレビや雑誌で見聞きするものだったから、いま自分が六本木のスタバで人と待ち合わせをしていることに、悪くない満足感を覚える。

店はあまり広くはないが、当然のことのように、オシャレだ。日本語堪能な外国人美人スタッフからアイスコーヒーを受け取ると、俺はビルのロビーが見える位置に座った。壁がないから、店の中からでもビルエントランスの正面にある総合受付が確認できるのだ。ロビー中央にあるカウンターの中には、もし合コンに来たら何かのワナだと思うほどキレイな受付嬢が2人。そしてその脇には、このビルに入った企業のロゴマークが並んだ案内板が立っている。

アイスコーヒーを口に運びながら、俺はその案内板を見つめた。誰でも知っている総合商社、広告代理店のクリエイティブ支店、大手ディベロッパー、外資系コンサルティングファーム。そのそうそうたる顔ぶれの中に、雷のような形で「B」という文字をかたどったロゴを見つけ、俺はつばを飲みこんだ。

スマホを取り出すと、ブラウザを立ち上げる。すぐに、さっきまで見ていたWebページが表示される。そこには案内板と同じロゴマークが掲げられたオフィス写真が写っていた。なぜかジャングル風の奇妙な空間に、統一感のないテーブルや椅子が雑然と並べられている。GoogleとかFacebookとか、ああいう企業をイメージしているのだろう。いかにも今風の、自由で先進的な雰囲気。

思わず頬が緩んだ。自分が今からここに行くのだと思うと笑えてくる。まさか「BAND」もウチの顧客だったとはーー

「BAND」と言えば、モバイルバッテリーの分野で大成功を収めたアメリカ発のベンチャー企業だ。数年前「PO」(ピーオー)というオリジナルブランドを立ち上げ、イケてるデザインのモバイルバッテリーを発売した。POのバッテリーは容量や機能こそ大したことはなかったが、とにかくオシャレだった。結果クリエイター層を中心に話題になり、要するに「バズった」。

俺はカバンの中から、数週間前に買ったばかりのPO製モバイルバッテリーを取り出し、苦笑いする。「御社の製品、使ってるんです」と言ったらBANDの担当者はなんと言うだろうか。そういったおべっかには辟易しているのかもしれない。何しろ、BAND社だ。

その時、一人の女がビルエントランスを抜け、カッカッカッカッとヒールを鳴らしながらロビー中央まで進み出てきた。その姿を見て、思わず息を呑む。

その女は立ち止まり、何かを探すように左右を見回している。驚くべき美人だった。受付嬢とは存在感が違う。俺はあの人の身長がそれほど高くないことを知っている。たぶん160センチくらいだろう。だが、スタイルが恐ろしくいいせいで大きく見える。

その女――HR特別室の高橋はそして、俺に気付いた。


「あの……今日って、どういうアポなんですか」

AA本社の入っているビルと同じような広いエレベーター。高橋と並ぶと、かいだことのないスパイシーな香水が鼻に届く。あの鬼頭部長の先輩、ということは俺よりも二回り以上年上のはずだが、そんな風にはまるで見えない。

「どういうアポって、あんたが知る必要ある?」

……だが、威圧感は確かに、鬼頭部長以上だ。

今朝、HR特別室に出勤すると、高橋のアポに同行するようにと宇田川室長に言われた。

もちろん俺はその場で内容を問うたのだが、あのふわふわしたおっさんが教えてくれたのは、クライアント名と待ち合わせ場所、時間だけだった。だが、その時の俺は、そんな室長の対応に対して何の不満も覚えなかった。何しろ、行き先は今をときめくBAND社だ。

「きょ……今日のクライアント、個人的にも好きなんですよ」

高橋はその小顔をこちらに向けて、はあ? という顔をする。

「なんで?」

「いやだって、すごい会社じゃないですか。自分、商品も使ってるし」

そう言って鞄の中のモバイルバッテリーをチラリと見せた。高橋はそれを冷たい目で捉えると、ため息混じりに首を振る。

「残念だけど、あんまり期待しないほうがいいわよ」

「え? どういうことですか」

俺が言うと、高橋は目を細め、鼻で笑った。

「ま、百聞は一見にしかず。せいぜいショックを受けないようにね、僕ちゃん」


エレベーターの扉が開くと、俺と高橋以外にも5〜6人が箱を降りた。

彼らを見て意外に思った。その全員が、真面目そうなスーツ姿の男たちだったからだ。

クリエイター御用達の商品を扱うBANDだ。ロン毛にボロボロのスニーカーという保科ほどではないにしろ、もう少しラフというか、今風の雰囲気の人間ばかりだと思っていたのだ。

だが、まあ、彼らはBANDの社員ではなく、俺たち同様に商談にやってきた業者なのかもしれない。

箱を出ると、そこはエレベーターホールと呼ぶにはあまりに広い空間だった。俺はその景色に見惚れた。まるで空港のように、壁一面がガラス張りになっており、その高さはどうみてもワンフロア分ではない。恐らく、2フロア、いや、3フロア分を使っているのだろう。

「……すげえ」

思わず感嘆の声を漏らした俺に構わず、高橋はカツカツと大理石風のフロアを歩いていってしまう。

「あっ、ちょっと」

慌ててその後を追うと、正面に例の「B」を形どったロゴが掲げられているのが見えた。さっきエレベーターを一緒に降りた、ダサいサラリーマン達が、一足先にそのロゴの奥へと入っていくのが見える。

高橋は慣れた手付きで、受付に設置されたタブレットを操作する。画面に「すぐにスタッフが参ります」という文字が表示され、それから一分ほどして、脇に伸びる廊下の奥から、いかにもBANDらしい服装の男が顔を出した。

背が高く痩せていて、黒縁メガネにパーマのかかった髪、シンプルな白Tシャツに紺色のカーディガン。下はスラックスではなくジーンズ地の白いパンツで、足元は裸足にローファーだ。そして小脇に小型のノートパソコンを抱えている。

その姿を見て俺はホッとする。そうそう。やっぱりこうでなきゃ。世界的にオシャレで通るBANDでは、こういうクリエイターっぽい雰囲気の社員が働いていなければならないのだ。

「じゃあ、ご案内いたしますので」

その男は挨拶も早々に、俺たちを廊下の奥へと促した。角を曲がり、そこに先ほどスマホで見た通りの風景が広がったとき、俺は嬉しさのあまり声を上げそうになった。

全体的にはやはりジャングルをイメージしているのだろう。壁には一面、本物と見紛う植物のオブジェが設置され、ところどころに人間の背丈ほどもある動物の人形が置かれている。そして、種類がバラバラの椅子とテーブル。そこにはいま俺たちを案内している男とよく似た服装の人間が、ノートパソコンで作業をしたり、打ち合わせをしたりしている。

……やべえ、かっけえ。

素直にそう感じている自分に気づき、苦笑いを浮かべる。ふと見れば、相変わらずモデルのような派手な歩き方をする高橋の耳元で、俺たちを案内する痩せた男が何かを話している。

男が口元を隠しているので俺には何を言っているのかはわからない。だが、男がどこか焦っているというか、怯えた雰囲気であることに俺は気付いた。

……なんだ?

ジャングルのようなロビーを通り抜け、突き当りを左折する。するとそこに、それまでとは一転、茶色というかワイン色というかシックな色合い一色で塗られた壁があり、何か厳重な雰囲気の自動ドアがあった。

ドアの脇には腰ほどの高さの台があり、タブレットではなくなぜか電話機が置かれてあった。痩せた男はこちらをチラチラと振り返りながら受話器を取り上げ、やがて口元を隠しながら話し始める。

……やっぱり。

やはり気のせいではない。男は明らかに怯えていた。電話機に向かって何度も頭を下げ、ときどき震えるようにビクリと肩を揺らす。

やがて受話器を置いた男はこちらを振り返り、それから高橋のそばまで近づいてきて、言った。今度は俺にも聞こえた。

「何度も言いますが、これは本当に異例のことなんです。……私の立場もありますから、くれぐれも失礼のないようにお願いします」


自動ドアの向こうに広がっていた風景に、俺は目を疑った。

さっきまでいたロビーとは、まるで違った雰囲気だったからだ。

壁は地味な灰色、そして床は白っぽいリノリウム。それぞれの部屋の扉の脇に、「会議室」とか「営業部」とかと書かれた白いプレートが設置されている。

ジャングルどころではない、まるで古い警察署のような……それは遊び心の一切が排除された、古臭い「事務所」だったのだ。

「……これは」

思わずつぶやいた俺を、高橋が悪そうな笑顔を浮かべつつ見る。

「じゃあ、こちらでお待ち下さい。用意ができたら、お呼びしますので」

男はすぐそばにあった待合スペースを示し、俺たちがそれに従うと、うつむきがちにさらに奥へと姿を消した。

「……どういうことですか、これ」

高橋と並んで座りながら、聞いた。

「なにが?」

「全然違うじゃないですか、さっきまでの場所と」

「……本当に何も知らないのね」

高橋はそう言って、苛立った様子で首を振る。

「なんですか……それ」

「高木生命」

突然高橋が言った。

高木生命と言えば、大手4社には入らないが、それなりに名前は知られた、老舗の保険会社だ。

……だが、その高木生命が何だというのか。

「BAND JAPANの実質的なオーナー企業よ」

「はい?」

「厳密に言えば、高木生命の子会社のひとつであるTNBインシュアランスが、BtoBのカタログ通販で実績のあったストファルと共同出資して立ち上げたのがBAND JAPAN。要するに、本国のBAND社から日本国内の販売権を買ったのね。もちろん投資比率はストファルより高木生命の方が圧倒的に高い。まあ、簡単に言えば、高木生命が新たに目をつけた投資先がBANDってことよ」

いきなり固有名詞がドカドカと出てきて、理解が追いつかない。

「……ええと、それは、つまり……どういう」

「高木生命と言えば、このコンプライアンス時代に、新規顧客獲得のためには土下座も恫喝も、下手したら暴力だって辞さない、なんて噂されるゴリゴリの営業会社よ。イメージの悪さも手伝って本業の保険事業があまりうまくいっていないものだから、ストファルが持ってたシステムとネットワークを金で囲った上で、BANDに日本国内での販売代理店契約を迫ったんでしょうね」

「……あの、ちょっとよくわからないんですけど……」

俺が素直に言うと高橋は面倒臭そうに続ける。

「僕ちゃんにもわかるように言うなら……そうね、頭はあまりよくないけど喧嘩がめっぽう強い高木生命くんが、秀才だけど気弱なストファルくんを脅して自分の代わりにテストを受けさせて、その100点の答案用紙を持って好きな女の子BANDちゃんにアタックした、ってとこかしら」

妙な例えだが……わかりやすい。

つまりBAND JAPANというのは、BANDが自ら立ち上げた日本法人なのではなく、高木生命を中心とした日本企業がその権利を買っただけの、言わばフランチャイズ企業的なものなのか。

「ちなみに、高木生命は社長から幹部までのほとんどが某体育会系大学出身者で占められてる。要するに、先輩後輩の関係が社会人になっても続いているのよ。これがポイントの1つ目。そして、BAND JAPANの金を出しているのは高木生命。つまり最も強い発言権を持つオーナーはBANDでもストファルでもない。これがポイントの2つ目。さらに、いま私たちがいるこのオフィスの様子。高木生命の社員というのは、流行の細身スーツは禁止。パッと見で会社がわかるくらい古臭い格好をしてるわ。これがポイントの3つ目。さあ、この3点から導き出される答えは何?」

俺は思わず視線を落とした。考える。

「……ここはBANDじゃなく、高木生命」

呟くように言うと、高橋が「いい子ね」と目を細めて笑った。

「まさに羊の皮をかぶったなんとやら、よ。BAND JAPANの役員は高木生命からの出向者ばかり。それもガチガチに学閥で固められた、ね。さっきまで通ってきたラウンジこそBAND風だけど、ひとつ中に入れば、そこはもう完全に高木生命なのよ。上司が言うなら腹も切らねばならないくらいに上下関係のきつい、旧態然とした、昭和的な企業。…さっきの人が、これは本当い異例なんだ、と言っていたのを覚えてる?」

「え? ああ、なんか言ってましたね。異例って……何がですか?」

「私たちが、ここまで入ってこれていることが、よ」

そして高橋は、さっき俺たちが通ってきた自動ドアの方を振り返る。

「BAND JAPANとしての商談は普通、さっき通ってきたふざけたジャングルの中でするのよ。それは、まとまった資本は欲しいがブランドイメージも重視したいBAND社と、BAND社の商品で金は稼ぎたいが自分たちの哲学や伝統を崩す気はない高木生命との、ある意味でウィンウィンの取り決めだった」

なるほど、と思う。

そういえば、さっき一緒にエレベーターから降りた、どう見てもBANDっぽくない真面目な雰囲気の男たち。彼らは高木生命からの出向者だったのだろうか。

「でも……じゃあどうして、僕らはここに通されてるんです?」

当然の疑問を口にすると、高橋はうんざりしたように首を振った。

「さあね。でも、さっきの彼があれだけ怯えてた理由はわかるわ……今日はなんと、社長様が直々にお相手してくれるんだそうよ」

「社長!? BAND JAPANのですか」

「そう。BAND JAPANの社長で、でも実際の本籍は高木生命に置いたままの、おそらく数年で本社に戻って幹部にでもなる人よ。高木生命の伝統を何より重視する人だってことは間違いないわね。……さっきの彼にとっちゃ、誰よりも恐ろしい人なんじゃないかしら」

その時、奥の方から誰かが小走りに駆けてくるのがわかった。顔を上げると、まさにいま話題にしていたあの男が、青い顔をして近づいてくるところだった。

「どうぞ、準備ができましたので、社長室にご案内します」


中に入って最初に見えたのは、赤黒い絨毯だ。毛足が長く、ひと目で高級品と分かる。そして、壁に沿って設えられた棚。全面ガラス張りで、何かのトロフィーや楯、高そうなオブジェが並ぶ。その横にはゆったりしたベージュ色のソファセットとローテーブル。そこには一人の若者が座っていた。まさか彼が社長? ソファのリラックス感と明らかにアンマッチな、背筋をピンと伸ばした座り方。

そして俺はその奥、つまり俺たちの正面奥、壁際に置かれた大きな執務机の向こうに、一人の男の姿を認めた。

男は余裕のある笑みを浮かべ、こちらを見ていた。間違いない、社長はこっちだ。

浅黒い肌、きっちりとオールバックにされたシルバーの髪、派手なネクタイ。五十代半ばくらいだろうか。男はゆっくりと立ち上がり、スーツのボタンを丁寧に止めながらこちらに進み出た。

「社長、失礼いたします。こちら、アドテックアドヴァンスの――」

「ああ、わかってる」

見ようによってはヤクザのようにも見える男が、乱暴に遮る。そしてまっすぐに、高橋の方を見つめた。

「はじめまして、槇原です」

男はそう言って、高橋に名刺を差し出した。真っ白の紙に槇原忠生という名前だけが書かれた、政治家のような名刺。

「高橋です。よろしくお願いたします」

高橋も自分の名刺を差し出す。槇原はそれを受け取りつつ、名刺ではなく高橋の顔に視線を留めたまま、「よろしく」と目を細めた。

俺も名刺を……と慌てて胸元を探ったが、槇原は気持ちいいほど躊躇なく俺を無視すると、「さあ、こちらにどうぞ」と高橋の肩に軽く触れるようにして、ソファの方に促した。

「さあ、座って」

槙原社長はそう言って、さっきから微動だにせず座っている若者の隣に腰を下ろした。彼は一体何なのだろうか。年齢は俺と同じくらいで、重役という雰囲気でもない。

槇原社長の向かい側に高橋が座り、俺はその隣だ。腰を下ろす瞬間、槙原社長が俺をチラリと見た。その顔には笑顔が浮かんでいたが、目は笑っていない。俺は居心地の悪さに思わず視線を落とした。

「それにしても、驚いたな。噂以上だ」

槙原社長が背もたれにもたれながら言って、隣の若者に「なあ?」と同意を求める。若者はピクリと肩を震わせると、満面の笑みを浮かべ、こちらが驚くような大声で言った。

「はい、大変おキレイで、自分も驚きました!」

……なんなのだこの男は。だが、それはそれとして、俺は直感的に、なぜ俺たちがこんな奥にまで招かれたのか理解した。普通の商談はあのジャングルみたいなロビーでやるのだと高橋が言っていた。それなのに俺たちはこんなに奥まった「社長室」にまで通された。なぜか。

……このエロオヤジが。

確かに高橋は、男たちの目を釘付けにするような美人だ。社長くらいの年代の男にとっては特に、たまらないのかもしれない。だが、それはあくまで「本音」の話だ。ビジネスの場、それも初対面の場で、女性の容姿について話題にするなんて。

だが、当の高橋は特に気にする様子もない。「光栄ですわ」と言いつつ、カバンの中から資料や書類を取り出し始める。こんなことには慣れているのだろう。

「お仕事の話をさせていただいても?」

高橋が言うと、社長は笑った。

「おや、つれないね。……だが、そうしよう。美人の機嫌を損ねたくはないからな。おい佐々木、例のものを持ってこい」

社長はそう言って、俺たちをここまで案内してきた痩せた男を呼び寄せる。佐々木と言うらしい。佐々木が慌ててソファに駆け寄り、クリアファイルに入った書類を一枚取り出し、社長に手渡す。槇原社長はそれを一瞥すると、テーブルの上に置き、ゆっくりと高橋の方に滑らせる。

「今回の件、これくらいの予算で考えているんだがね」

俺は目を凝らしてその内容を伺う。見積のようだ。だが、AAの発行した見積書ではなかった。左上に「B」のロゴが入った、BAND側のテンプレートで作られている。……おそらくは今回の採用予算の概算を出したものなのだろう。ここからでは細かい字までは見えないが、一番下にある合計金額はフォントサイズが大きく、よく見えた。

……1200万?

いや、ちょっと待て。

年間予算ということなのだろうか。それとも、数ヶ月から1年程度かけて行う新卒採用の話か。いや、それにしたって多すぎる。

例によって今回の案件内容をまったく聞かされていない俺には、判断のしようがなかった。ハッキリしているのは、仮にその金額が「1回分」のものなのだとしたら、この契約がまとまればとんでもない利益がAAに入ってくるということだ。担当営業にしてみれば、この1件だけでクオーター目標(3ヶ月間の目標)を達成してもおかしくない金額なのだ。

高橋は書類に落としていた視線を、ゆっくりと社長に戻した。その目に戸惑いの色はない。

「随分な金額ですが……いったいどれほど優秀な人材をお求めなんでしょう」

「別にスーパーマンを求めてるわけじゃない」

「じゃあ、なぜ」

社長はじっと高橋を見つめ、試すような目で言った。

「これはまだオープンにはできないんだが、実は近々、当社は新たな商品をリリースする予定でね」

「新規事業……POの事業を拡大するということでしょうか」

槇原社長は目を細め、バカにするように首を振った。

「POはあらゆる意味で順調だが、所詮はニッチビジネスだからね。パイが少ないんだよ。業界内でどれだけ勝っていたって、売上自体はウチの保険よりずっと小さい」

「……ということは、新たな商品というのは」

「無論、本丸の方のだ」

俺には二人が何を話しているのかよくわからない。だが、高橋には事情がわかっているらしかった。

「なるほど。そのための部隊を作るにあたり、POのブランド力を活用するわけですね」

高橋の言葉に、槇原社長は嬉しそうに手を広げた。

「その通りだ。美人なだけじゃなく、頭もいいんだな」

槙原社長はそして、隣にいる若者をちらりと見る。

「今回のプロジェクトに伴い、何名かできる営業マネージャーをウチから呼んでる。マネジメントは奴らにやらせればいい。だが、兵隊が足りない……彼のような」

「なるほど」

「彼は墨田という、入社1年目の新人営業マンだ。どんな人材を求めているのかと聞かれたら、彼みたいな人間だと答えるよ」

彼は墨田、という名らしい。俺はあらためて墨田を見た。スポーツマンタイプというか、日焼けした肌に短い髪、爽やかな印象で、女にもモテそうだ。

「この墨田はね、入社当時はダメダメな奴だったんだ。だけど、ウチに来て研修を受けてさ、変わったんだよ。な?」

槙原社長が言うと、墨田はまた驚くような大声で「はい!」と返事する。

「お前、ほんとダメな奴だったもんなあ?」

「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」

ハキハキと答える墨田を社長は満足げに見つめ、それから高橋に向き直る。

「ということで、仕事については彼に話を聞いてくれ。新規プロジェクトだから全部話せるわけじゃないが、営業なんてやることはだいたい一緒だ」

「……わかりました。ありがとうございます」

高橋はそう言って、「よろしくお願いします」と墨田に頭を下げる。

「お前、俺の悪口は言うなよ?」

槙原社長が首を傾げながら言うと、墨田が「はは、そんな、言わないですよ!」と笑う。

その風景を見ながら、俺はよくわからない感情に襲われつつあった。

槙原社長は確かにエロオヤジには違いないが、なんというか、面倒見のいい先輩、という風にも見えなくはない。個人的にはあまり好きなタイプではないが、墨田の笑顔を見ている限り、関係性は悪くなさそうだ。

「じゃ、高橋さん。あとはよろしく。今日はお会いできてよかった」

槙原社長が腰を浮かせながら言い、「採用成功の折は、ぜひどこかで食事でも」と付け加える。

「そうですね、楽しみにしています」

そう答える高橋の顔には、余裕の笑顔があった。だが、社長が頷いて視線を外した途端、冷たい無表情に変わった。


墨田、佐々木と共に社長室を後にした俺たちは再度「ジャングル」にまで戻ってくると、複数あるらしい会議スペースの一つに通された。

遊びゴコロ満載の外観と違い、部屋の中は意外にもシンプルなつくりだった。白い壁に落ち着いた雰囲気の木製テーブル、黒いチェア。

「いろいろな内装のスペースを用意してあるんですよ。TPOに合わせて選択できるように。さぁ、じゃあ後は墨田くんに聞いてもらえれば」

佐々木が言った。その表情、そして口調から固さが消えている。槙原社長から離れてホッとしているのかもしれない。

「じゃ、あらためてよろしくお願いします」

高橋が言い、高そうなレザーカバーのかかったノートを開く。墨田は笑顔のまま「はい!」とまた大きな声で答えた。

佐々木と違い、この男は社長室を出ても変わらない。体育会系と言うか言動が大袈裟というか、不自然といえば不自然だが、AAにもこういうタイプはいる。
「それでは、取材を始めさせてもらいます」

俺たち求人広告屋は、どんな仕事をするのか、どんな労働環境なのかを、広告を通じて読者に伝えなければならない。だからこうして現場の人間に話を聞き、その詳細情報を得る。これが「取材」である。

見方によっては「1円にもならない時間」なので、取材を嫌う営業マンも少なくない。だからこそ、俺は高橋がどんな取材をするのか気になった。先日の保科しかり、室長しかり、HR特別室の人間は「普通」じゃない。

……だが、結論から言えば、高橋の取材に特に変わった所はなかった。仕事内容、職場の雰囲気、勤務時間など、1年目の営業と大差ない。

一方の墨田はやはり笑顔のまま、その一つ一つに明るく、しかし内容としては特におもしろみもない返答をし続けた。

正味十五分ほどだろうか、「ありがとうございます」と高橋が言い、あっさりと席を立った。

え? もう終わり?

拍子抜けした気分だった。保科や室長のような、明らかに常識とは違う方法で情報を得るようなことはなく、マニュアル通りの質問を重ね、その答えを特に深掘りすることもない。

つまり高橋の「取材」は、その時間を後工程、つまり「金を生み出さない無駄な時間」と考える、俺たちのような営業マンのそれと大差なかったのだ。

佐々木に先導されてジャングルを抜け、俺達はBAND JAPANを後にした。


「あの……質問してもいいですか?」

 エレベーターで下に降りながら、さっきからずっと難しい顔をしている高橋に声をかけた。

「ダメよ」

冗談ではなさそうな言い方に、思わず口をつぐむ。その冷たくも美しい顔から視線を外し、眼下に見える東京タワーを見つめる。

「……どう思った? あの子」

俺の質問は断るくせに、自分はするのか。なんだよと思いつつも、興味が湧いてしまう。

「あの子って……墨田さんのことですか」

「そうよ」

「うーん、まあ、いちいち声がでかいってのを除けば、できる営業マンって感じでしたけどね」

「おかしいと思わなかった?」

「え? いや、別に。何か変なこと言ってましたっけ」

俺が聞くと高橋は小さくため息を付いた。

「言ってないわ。だから変なのよ」

そこでエレベーターは一階に到着した。

箱から出ると、高橋は質問しようとする俺を遮るように振り返った。

「僕ちゃん」

「な、なんですか」

「ちょっと調べておいて」

そして高橋は胸元から一枚の名刺を取り出し、俺の眼前に突き出した。それは、先ほどもらったばかりの、墨田の名刺だった。


どこかぼんやりした心地で一人HR特別室に戻ると、ソファで室長がいびきをかいていた。保科や高橋の姿はない。

「調べとけって……どうやって」

高橋から受け取った名刺を見つつ、オフィスの一番奥、先日保科がクーティーズの掲載履歴を調べていたiMacの前に座る。

トラックパッドに触れると、一瞬遅れてディスプレイが立ち上がる。そこには既に、ビジネスパートナーである求人メディア版元のデータベースウインドウが開かれていた。

ここに社名やSコード(クライアントごとに割り振られた番号)を入れて検索すれば、これまでの掲載実績がすべて閲覧できる。グループ内オープンの情報だから、同業他社の実績まで見放題だ。

俺たち営業マンにとって、このデータベースは欠かせない。新たなリストを渡されたときも、落としたい企業ができたときも、俺たちはコーポレートサイトをググるよりも前にこのデータベースを叩く。所在地や事業カテゴリといった基本情報から、代表者の名前、採用予算の規模、そして募集している職種まで、これを使えばすぐにわかる。

高橋に調べろと言われたのはあの墨田という男についてだったが、一体何をどう調べればいいのか、高橋は何を知りたがっているのか、まるでわからない。 それならまず、会社のことを調べるほかない。

「バンド……ジャパン」

社名を打ち込んでエンターを押すと、数秒でこれまでの掲載実績が一覧表示された。その数、十数件。

受注会社を見ていくと、様々な求人代理店と契約しており、過去に3度、AAの名が登場している。

いずれの契約も約50万円で4週間掲載。俺はAA受注の項目にあるテキストリンクをクリックし、その時に掲載された求人原稿のデータを表示させた。

見慣れたネット求人のフォーマット。だが、募集職種は「社内コーディネーター」というよくわからないものだった。仕事内容欄を確認すると、総務部所属の何でも屋のような仕事らしい。「来社されたお客様のご案内」などとも書かれている。もしかしたら、さっき俺と高橋を迎えた佐々木は、この職種だったのかもしれない。

一通り原稿に目を通すと、俺は版元データベースのウインドウを最小化し、今度はAAのグループウェアを立ち上げた。さきほどまでのシステムと違い、こちらはAA社内限のものだ。こっちなら、各受注の担当営業名と所属部署なども調べることができるのだ。

「ええと……大家って……ああ」

BAND JAPANの担当営業の欄にあったのは、名前は知っているがほとんど話したことのない営業二部の男だった。確か俺より2年先輩の新卒だ。どこか陰気な雰囲気の男で、成績は中の中。俺は特に躊躇することもなく、そばにあった電話で、AA本社・営業二部への短縮ボタンを押した。

「お電話ありがとうございます、アドテック・アドヴァンスです」

「お疲れ様です。営業一部の村本ですが」

「あ……はい、お疲れ様です」

電話の向こうの女性は、どこか緊張した風に答えた。営業一部の人間から連絡が入ることなどあまりないのだろう。

「営業の大家さん、いらっしゃいますか」

「あ、はい。お待ち下さい」

保留の音楽が流れ始めたが、ワンフレーズもいかないうちに大家が出た。

「大家です」

「あ……どうも、営業一部の村本です」

「……はい。何か」

その微妙な間に、営業二部の営業一部に対する複雑な感情が読み取れた。自分たちより格上の部署に対する憧れと妬み。それも、大家からすれば俺は2期下の後輩なのだ。だが、顧客のランクも週売上目標も俺の方が高い。

「ちょっとお聞きしたいことがあって。BAND JAPANってクライアントなんですけど」

「ああ……もうそこ、担当外れてるんで」

「ええ、知ってます」

「は?」

俺はどう説明するか迷った。いまのBAND JAPANの担当は高橋なわけで、つまり何かの理由で営業二部からHR特別室に移管されたということだ。だが、当然大家は、俺がHR特別室にいるなんて知らない。

どう説明するか迷ったが、適当に話を濁した。

「ええと、自分いま、BAND JAPANの移管先の部署で研修中なんですよ。で、ちょっと今の担当から情報収集を頼まれたものですから」

「ああ……HRなんとか室」

大家の声に、バカにするような色が混じった。一瞬苛立ちを覚えたが、いちいちつっかかるのも面倒だと、話を進める。

「そもそも、なぜ二部からこっちに移管されたんです?」

「さあ……そんなこと俺にはわからない」

「別にトラブルがあったとか、そういうことじゃないんですよね」

営業部からどうやってHR特別室にクライアントが流れてくるのかはよくわからない。だが、保科のクーティーズ然り、室長の中澤工業然り、何らかの問題を抱えたSが移管されている気がする。

大家は苛立ちを隠そうとせず言った。

「別に何にもねぇよ。よくわからないけど、今期になったら俺の担当じゃなくなってた。そんだけの話だ。それ以上知りたいなら勝手に上に掛け合ってくれ」

大家に礼を言い、電話を切った。

大家は何も知らされていない、それは確かだと思った。

いや、そもそも特に理由などないのかもしれない。大家の言う通り、俺たち担当営業に断りなくS移管が行われることは珍しくない。

ずっと担当してきた顧客が急に別の営業の担当になったり、逆に、誰かのSが自分の担当になったりする。そのいちいちを気にしていたら営業などできない。

俺はあらためて、高橋から渡された墨田の名刺に目を落とした。

営業、墨田一重。

……あの過剰な笑顔が頭に浮かぶ。入社1年目の営業マンの情報などどうやって探せばいいのだ。そもそも、一体どういう情報を高橋がほしがっているのか、それはなぜなのかすらわからないのだ。

「どうしろってんだよ」

ふと思いついて、スマホを取り出した。Facebookのアプリを起動し、検索窓に「墨田一重」と入力してタップする。

……と、珍しい名前でもないのだろう。5〜6名の候補が表示された。それを1件1件見ていったが、年齢が全く違っていたり、登録情報が少なすぎたりして、これというアカウントは特定できなかった。Xも同様の結果。だが俺は、その後にダメ元で行ったGoogle検索の結果の中のあったある新聞記事の中に、今日会ったあの男の写真を発見したのだった。

写真の中の墨田は、野球のユニフォームを着ていた。

記事は地方新聞のアーカイブで、内容は、十年ほど前に行われた野球の試合について。野球には詳しくないのでよくわからないが、いわゆる「高校野球」としてテレビ放送される決勝トーナメントの前の、代表校を決める予選の模様を伝えるものらしい。

記事によると、墨田の高校はこの試合で敗退した。それなのになぜ墨田の写真が使われているのか。その答えは記事の後半にあった。

「怪我……」

墨田はこの試合の中盤、敵チームのバッターが打ち上げたフライを取る際、チームメイトと激しく接触。そのまま担架で運ばれ途中退場となった。記事には、全治3ヶ月以上の重症で、夏の選手権への参加も絶望的だと書かれている。墨田はチームの中心的な選手だったらしく、この離脱によりチームの戦力は大幅に下がるだろうと結ばれていた。

俺は新たにタブを開き、「墨田一重 怪我」とキーワードを変えて検索してみた。すると、古い匿名掲示板のスレッドがヒットした。嫌な予感を感じつつ開き、キーワードが含まれるレス部分を探す。すると――

<墨田一重が自殺未遂したって>

<あいつ、怪我して引退してから頭おかしくなったんだよな>

<野球部のヒーローだったのになあ>

<前はカッコよかったよね。私好きだったもん>

<なんか、お前のせいで負けたんだ的なイビリがあったらしいじゃん>

<T先輩たちだろ。墨田、あの試合の後、完全に恨まれてたからな>

<すぐ不登校なってたよ。あれ? 退学したんだっけ>

<今は引きこもりでホームレスみたいだってさ。ショック>

<クソデブになってるってマジ??>

それらの投稿は、一番新しいもので5年も前のものだ。ディスプレイから逃れるように視線を天井に投げ、想いを馳せる。

これらの情報から想像するに……

試合で怪我をした墨田はそれ以降、試合に出ることができなくなった。それを恨んだチームメイトからのプレッシャーに耐えられず、不登校または退学となった。そして墨田は引きこもりとなった――そういうことなのだろうか。

そして俺はBAND JAPANで見た墨田の笑顔を思い出す。どこか不自然で、過剰な笑顔。

掲示板の記述がすべて本当だとは思わないが、恐らく、怪我のせいで突然野球人生が閉ざされたことは確かなのだろう。それからの時間、墨田はどういう人生を送ってきたのか。そして、なぜBAND JAPANに入社したのか。

俺はソファの背もたれを思い切り倒し、天井を見つめたまま考えた。


墨田についてのネガティブな記述を見つけた約1時間後、HR特別室の扉の外で、エレベーターの音がした。

「……うん、ああ、なるほどね」

電話で話しながらの登場は、ここで初めて会ったときと同じだ。そういえばあのときは、某大企業の社長とおぼしき相手を、「エロオヤジ」呼ばわりしていたっけ。

だが、今日の高橋の表情は妙に真剣だった。落ち着いた低い声で、話し相手の言葉に耳を傾けている。

「……で、キャッチできそう? ……うん……うん、OK、じゃあまた連絡ちょうだい」

どこか物々しい雰囲気でそう言うと、相手の終話も(恐らく)待たずにパタンと電話を閉じる。そして間髪入れず、長い髪をかきあげながら反対の手で俺を指差す。

「で、何かわかった?」

「……え、あ、ええと……」

「何がええと、よ。早くなさい」

迷いのない口調。俺を下に見ていることを隠そうともしない。まるでSMの女王様だ。そういう態度をとっても様になる風貌なのがまた腹立たしい。

「……まず、BAND JAPANの掲載実績を調べました。それで過去に受注してる営業二部の営業に連絡して、直接話を聞きまして……」

話し始めて早々、「僕ちゃん」と遮られる。

「え……何ですか」

「あなたの行動を一つずつ順番に聞かなきゃいけないの? ……結論を先に言いなさい」

目を細めて俺を睨むその顔に、思わずゴクリとつばを飲み込む。なんだこの迫力。妙な息苦しさを覚えつつ俺は言った。

「……野球です」

「野球?」

「墨田一重は高校の頃、野球部の中心メンバーだった。でもある大会で、チームメイトと激しく衝突して大怪我をした」

「へえ、それで?」

「新聞記事には、全治3ヶ月と書かれてました。墨田が途中退場したことでチームは敗退。その件を周囲から責められ、気を落として不登校になった、というような情報も」

「不登校……その後は?」

「わかりません。野球の試合について以外の情報は、いわゆる匿名掲示板の中から見つけたもので、そちらも確かではありません。ただ、結構辛辣なことが書かれてあって」

そして俺は、墨田が先輩たちから恨まれていたこと、不登校になってホームレスのような風貌になっていたこと、さらには、自殺未遂までしたらしいということを、事実でない可能性もあるとした上で伝えた。

「……あの、高橋さん。俺、よくわからないんですけど」

「何が?」

「どうして俺に、墨田さんについて調べろって言ったんです?」

「さあ」

「さあって……」

自分は躊躇なく質問してくるくせに、聞かれたことには答えない。……考えてみれば、この部署の人間は皆そうだ。保科も室長も、こっちが聞いた質問にまともに答えてくれはしない。

諦めるものか。無言で高橋の顔を見つめていると、高橋は肩をすくめる。

「別に、具体的な根拠があったわけじゃないわ。でも、彼のあの表情……普通じゃなかったでしょ?」

確かに、墨田についての過去を知った上で考えれば、やはりあの笑顔は不自然だったと思う。でも、その印象だってネット上の情報によるバイアスが掛かったものかもしれない。

「確かにちょっとおかしいなと思いましたけど……でも……過去に何があったにせよ、彼が今、ああやって元気に働いていて、しかも十分な給料をもらってるのは事実じゃないですか」

俺が言うと高橋は「そうね」と妙に素直に同意すると、俺の隣の席に腰を下ろす。そして髪をかきあげ、バッグからコンパクトを取り出し化粧直しをはじめる。

「……でも、そういう“事実”も含めて、典型的過ぎるのよ。あの笑顔はお面みたいなものに過ぎない。決して心から笑ってるわけじゃない」

「典型的って……何の話ですか」

「私はこの言い方好きじゃないんだけど……わかりやすく言えば」

そして高橋は、コンパクトの鏡越しに俺の方を見た。

「ブラック企業のやり口よ」

「ブラック企業……」

今日のアポがなければ、笑って否定しただろう。そんなはずがない。世界を席巻しているあの<PO>の会社だ。働き方だって“今風”なのに違いない、と。

だが、今の俺はあの「ジャングル」の奥に隠されたBAND JAPANの「本体」を知っている。そして、ヤクザのような雰囲気の槙原社長と、その言葉一つ一つに過剰に反応する社員たちの姿を。

思わず黙った俺から視線を外し、高橋は続ける。

「今の世の中、ブラック企業と言えば、“残業が多い会社”くらいのイメージかもしれないけれど、問題は残業時間の長さなんかじゃないのよ。この問題の根幹には、本人たちも自覚しないうちに完了してしまう“洗脳“の怖さがある」

「洗脳!?」

予想外の言葉が飛び出して、俺は思わず声を荒げた。それに反応したのか、ソファで爆睡していた室長が「ううん……」と呻いて身をよじる。慌ててボリュームを落とし、俺は続けた。

「すみません。……でも、洗脳って?」

高橋は薄いピンク色の口紅を引き、自分の唇を使ってそれを馴染ませる。その様子が妙に生々しくて、俺は目を逸らす。

「六本木であんたと別れてから、私もちょっとした調べ物をしてたのよ」

高橋はパタンとコンパクトを閉じ、こちらを横目で見て言う。

「調べ物?」

「そ。もっとも、あんたみたいにネットでチャチャッとで終わる話じゃない。ある会社の調査員に会いに行ってきたわ」

「調査員って……誰なんですか」

「いわゆる調査系マーケティング会社の人。クライアントから依頼を受けて、対象企業の情報を集めてくるのよ。場合によっては、本当に入社する場合もある」

「入社って……スパイじゃないですか」

「そうよ」

高橋はあっけらかんと肯定する。

「でも、誰でもネットにアクセスできて、SNSのアカウントを持ってる時代なんだから、社員全員がスパイだとも言える」

「そんなの……詭弁ですよ。金もらって情報を盗むのは犯罪だ。仕事の愚痴をTweetするのとは違う」

そう言うと高橋はわずかに驚いた表情をして俺を見ると、なぜか嬉しそうに笑った。

「意外に固いのね。もうちょっとスレてると思ってたけど」

「……からかわないでください。で、その調査員に何を聞いてきたんです」

「情報を盗むのは犯罪なんでしょ? それを聞いたらあんたも同罪だけど」

思わず口ごもると、いよいよ高橋は楽しそうに笑った。

「ふふ、冗談よ。……今回私が彼に聞いたのは、BAND JAPANの導入研修について」

「導入研修?」

「ええ。入社して最初に受けさせられる研修ね。もっとも、僕ちゃんも見たように、BAND JAPANってのは高木生命の“ガワ”に過ぎない。入社するのがBAND JAPANだろうが、受けさせられる研修は高木生命方式で作られてるわけ」

なんとなく嫌な予感がする。

「……それで、何かわかったんですか」

俺が言うと高橋はもったいつけるように微笑んで言った。

「その調査員に話を聞いたのは大正解だった。何しろ彼、その研修を実際に見たっていうのよね」

「え? じゃあその人、高木生命の社員だったんですか」

さすがに驚いて言うと、高橋は首を振った。

「いいえ。高木生命が毎年4月の前半に数日間貸し切りにする、山奥にある古いホテルの短期バイトに申し込んだのよ。それで、大ホールを使って何時間も行われるその研修の様子を、給仕スタッフの立場で見た」

「へえ……なんか映画みたいすね」

俺は素直に感心してしまった。だが高橋は怖い顔をして「バカね」と俺を睨む。

「いい? 映画なら2時間で終わりだけど、ここでの経験は下手したら一生引きずる。現実だから怖いのよ」

高橋の言い方に、俺の頭は恐ろしい風景が想像された。プロレスラーみたいな男にボコボコにされるとか、両手足を縛られた状態でナイフをつきつけられるとか……研修というよりそれじゃ拷問だ。

「一生引きずるって……一体どんなことをさせられるんですか」

そういう俺に、高橋は答えた。

「選択肢を、奪うのよ」

「選択肢?」

俺が聞き返すと高橋はフーっと煙を吹き出す。また、花とスパイスが混じったような妖艶なにおいが漂う。

「あなた、洗脳の方法って知ってる?」

そう聞かれて眉間にシワがよるのがわかった。

「……恐怖とか苦痛とかを与えて、相手を思い通りにコントロールするんでしょ」

「違うわ」

はっきり否定されて、思わずカッとなる。

「違わないでしょ。何なんです、さっきから」

「あんたの言ってるのは、洗脳じゃない。それはただの脅迫」

脅迫? ……そう言われてみれば、確かにそうだ。だが、洗脳も脅迫も大した違いなどないのではないか。何かしらの理由があって、相手の言うことを聞かされる。状態としては同じじゃないか。

「……どう違うんですか」

「そうねえ」

高橋は俺の方を向き、そしてバカにしたように目を細める。

「例えば、あんたに彼女がいるとするわね」

「はい?」

「もう何年も付き合ってて、あんたはそろそろ彼女に飽きてきてる。でも、長い付き合いなだけに簡単に別れ話もできない。それに、彼女はあんたにゾッコンで、簡単に別れてくれそうもないわけ。どう、イメージできた?」

「……何の話ですか」

言いながらも、俺にはよくイメージできた。過去に似たような状況だったこともある。

「そんなある日、彼女からウキウキで電話がかかってきた。出てみたら、叫びださんばかりの喜びっぷりよ。一体何があったのかしら」

「知らないですよ、そんなの」

「赤ちゃんができました、って」

思わず息を呑んだ。

……いや、架空の話だ。だが、別れたい相手から本当にそんな電話がかかってきたら、俺はゾッとするに違いない。

「そして彼女は、あなたに結婚を要求した。さあ、どうする?」

「どうするって……そりゃ……」

「ふふ、青くなっちゃって。かわいいわね。……まあ、それで実際どうするにせよ、このときあんたは“脅迫”されていると感じるはずよ。もちろん、やることやって赤ん坊までこさえておいて、それで脅迫だなんて虫がよすぎるわよ。でも、こういう話の方が男はピンと来るかなと思って」

……なるほど、確かに、ピンとはくる。

「じゃあ、洗脳はどうなんですか」

バツの悪さを感じつつ言った。

「洗脳は、そうね……例えばあんたに、尊敬している先輩がいたとする。その先輩は強面で、ケンカも強くて、揉め事を収めてもらったこともある。それでいて性格もよくて、悩みを口にすれば、まるで自分のことのように聞いてくれる。あんたは要するに、その先輩に憧れていた」

「はあ」

「でも、先輩を慕う人間は大勢いた。あんただけじゃない、たくさんの仲間が彼のことを好いていた。先輩は要するに、仲間の皆に優しかったということね」

「……それで?」

「そんなある日、あなたは先輩を怒らせてしまった。……内容はなんだっていいわ。あんたはすぐに謝って、それで先輩も許してくれたけど、でも、そのことがキッカケで先輩は、あんたと明らかに距離を取るようになった。あんたは気が気じゃないわよね。でも実際、電話しても出てくれないし、顔を合わせてもそっけない態度を取られてしまう。もう謝罪は済んでるし、もうこうなったらあんたにはどうしようもないわよね。あんたは、先輩はもう俺のことは嫌いなんだと思い、自己嫌悪に陥る」

「……」

「そんなある日、先輩の方から電話がかかってきた。出てみたら、少し会えないかと言われるわけ。当然、喜んで向かうわよね。でも、待ち合わせ場所に行ったら、先輩はなぜか暗い顔をしている。どうしたんだろうと思っていると、先輩は、実は困ったことになってると言うわけ」

「なんですか」

「ある男が先輩の悪口を広めていて、それによって先輩の人間関係がおかしくなり始めていると。もちろん悪口の内容は事実無根。先輩は身に覚えのない悪い噂を流されて、困っている」

「……」

高橋は一体何の話をしているのか。だが、なぜか引き込まれる。というより、俺は感情移入し始めていた。先輩の悪口を流したやつに、怒りを覚える。いったい、どこのどいつだ。

「先輩はそして、その犯人の名前を言った。あんたも知ってるやつよ。共通の知り合いも多いし、どこでどんな仕事をしてるかも知ってる」

「……なるほど」

「そして先輩はポロリと言うの」

「……なんですか」

「あいつさえいなければな……って」

「……」

「さあ、あんたならどうする?」

思わずツバを飲み込んだ。その状況になったら、俺はどうするのだろう。

答えははっきりしている気がした。俺はその相手に、先輩の変な噂を流すのを止めろと言うだろう。場合によっては、手が出ることもあるかもしれない。

そういうことを考えている俺を、高橋は目を細めて見つめた。そして、怪しい笑みを浮かべて言った。

「ね? これが洗脳」

「……え?」

「実際には選択肢を奪われているのに、それに気づかない。あんたはきっと、その相手を排除しに行くでしょう? あくまで自分が選択したのだと思いながら」

「……」

脅迫と洗脳の違い。高橋の例え話は、悔しいがわかりやすかった。

「……じゃあ、BAND JAPANの墨田さんは、会社に“洗脳”されてるってことですか」

「私にはそう見えたわ」

高橋はそう言って頷き、続ける。

「……というより、それがブラック企業の基本的なやり口なのよ。社員に対して、法律的にも、倫理的にも、あるいは常識的にもおかしい働き方をさせるためには、脅迫じゃダメ。脅迫したって、相手は萎縮し、やがてそのプレッシャーに耐えられなくなって逃げてしまうか、あるいは壊れてしまう。前者ならいわゆる“ブッチ”、後者は鬱病とか自殺とかね。でも、会社としてはそれじゃ困るのよ。働かせ続けることが目的なんだもの」

言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。脅迫で相手をコントロールするというのは、会社にとってもリスクということか。だから、“自分が選択したのだと思わせる”やり方、つまり洗脳を選ぶ。

「……じゃあ、その導入研修っていうのは、洗脳をするための研修ってことですか。一体どんなことをするんです?」

「さっきの話で言えば、仲の良かった先輩と溝ができたくだり、ね。あの状況を、人為的に作り出すのよ。つまり……人格否定ね」

「……はい?」

「何か適当な理由をでっちあげて、お前はひどいやつだと否定する。お前はダメだ、お前みたいな人間がいるだけで周りが迷惑する、お前には何の価値もない。そんな言葉や態度を、執拗に投げつける。……そしてこのフェーズで重要なのは、情報の遮断。山奥にポツンと建ってるホテルなんか最適よね。スマホや携帯を取り上げればなおよしね。……そういう状態で何度も何度も否定の言葉を受け続けると、人間っていうのは自分は本当に価値のない人間なんだと思い込んでしまうのよ。あんたが、先輩は俺のことが嫌いなんだと自己嫌悪に陥った、あれと同じ」

「……それで、どうするんですか」

「糸を垂らす」

「糸?」

「徹底的に人格否定された人は、どうにか救われようと手を伸ばす。そこに何かしらの糸が垂れてきたら、誰がどういう目的でそれを垂らしたかなんて考えず、無心で掴んでしまうでしょうね。……あんたが、先輩からの久々の電話に、喜び勇んで応えたように」

思わずゴクリ、とつばを飲み込む。なんなのだ、この話。

「思い出して? 社長室での出来事。槙原社長と墨田さんの会話」

高橋に言われ、俺は記憶を探る。そして思い出した。「ほんとダメな奴だったもんなあ?」と言う槇原社長の言葉に、「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」と墨田は答えたのだ。

「今は価値がないかもしれないが、キミは変わることができる。そのやり方は私たちが教えてあげよう。そう言われたら、否定されまくって拠り所を失った人は喜んで従うでしょうね。それに……ほら、僕ちゃんの調べた情報」

「あ……」

そうだ。野球。墨田は野球の試合で怪我をして、それで……

「彼は既に、人格否定された状態だった。そこに、どういう伝手なのかはわからないけど、BAND JAPAN、いや、高木生命が現れて、糸を垂らした。……楽だったでしょうね、会社としては。自分たちがお膳立てするまでもなく、彼は救いを求めていたわけだから。そして彼は会社に忠実なロボットになった」

頭が痛くなってきた。記憶の中のあの笑顔が、途端にグロテスクなものに見えてくる。

「……そうだとして、どうするんですか」

俺は言った。

「何が?」

高橋がタバコを吸いながら首を傾げる。

「契約ですよ。1200万円とかっていう、すごい見積もり出して来てたじゃないですか。あれ……受けるんですか」

受けるに決まってる。頭の中でそう聞こえた。どこに、こんなすごい契約を捨てる企業がある。1200万円だぞ? 当たり前じゃねえか。

だが一方で、墨田の人生はどうなるのだ、と思った。あんな不自然な笑顔を浮かべたまま、この先何十年もあの会社で働くのか?

俺のどっちつかずな感情を読み取ったのかどうか、高橋は数秒俺を見つめた後、言った。

「私は“仕事”をするときにしかお金は受け取らない。それだけよ」


HR特別室の入った雑居ビルを出て、新橋駅に向かって歩く。

午後七時少し前。

立ち並ぶ居酒屋にはたくさんの客が詰めかけ満員状態だ。路地を抜けて表通りに出ると、いよいよ人の数は増える。

なんとなく視線を上げると、遠くに汐留の高層ビルが見えた。この時間にはまだ当然、煌々と明かりが灯っている。

なんとなく、墨田のことを考えた。

墨田はきっと、まだ働いているに違いない。六本木のあのビルで、不自然な笑顔を浮かべたまま。

高橋は結局、これからどうするのか、何も教えてはくれなかった。そして、俺に何かを指示することもなかった。

奇妙な焦燥感がふっと湧いた。これでいいのか? 俺はこのまま家に帰っていいのか?

もちろん俺はBAND JAPANの担当営業ではない。研修の一貫として高橋についていっただけで、この案件に何かしらの役目を負っているわけではないのだ。

そう。だから、別に俺が何を気にすることもない。このまままっすぐ家に帰ればいい。

だが。

無表情で改札へと向かう周囲のサラリーマンたち。そのロボットのような顔を見ながら、自問自答する。心の奥の方に、何かが引っかかっている。

なんだ。俺は何を気にしている?

……墨田が自分と同年代だったからだろうか。それとも、憧れの企業だったBAND JAPANが、想像と違っていたからだろうか。高橋から聞いた、脅迫と洗脳の話のせいか。

確かにそれもあるだろう。だが、そうではない。もっと個人的な感覚、クライアントではなく、自分自身に関係あること。

そう。

HR特別室のメンバーなら、どうするのだろう?

俺はそう考えていた。クーティーズバーガーの件も、中澤工業の件も、HR特別室の人間は、俺には絶対に思いつかないような方法で「解決」した。いや、受注こそ「成果」だと考えている俺と彼らとでは、そもそも想定している「解決」が違うのだ。

俺は多分、それが、悔しいのだ。

「くそ……」

俺は、改札へとまっすぐ進んでいく人の流れから出た。そしてJRではなく、都営地下鉄の新宿線ホームの方へと向かっていった。


約30分後、俺は今朝と同じスターバックスにいた。

既に七時を過ぎているが、客は少なくない。今日二度目のアイスコーヒーをカウンターで受け取ると、ビルのエントランスが見える席に座る。

……何をやってるんだ、俺は。

俺がここに“戻って”きたのは、墨田を「出待ち」するためだ。だが、なぜそんなことをしているのか、仮に墨田に会えたとして何をどうしようとしているのか、それはわからない。

わからないまま、ぼんやりと人の流れを見続けた。

30分ほどした頃、俺はエレベーターを降りてきた墨田を見つけた。

慌てて立ち上がると、既に空になっていたカップをゴミ箱に捨て、墨田に気付かれないようにその後ろにつく。

墨田はきちんとジャケットを着て、手にはビジネスバッグを持っている。取材時にはよくわからなかったが、背も俺と同じかそれ以上には高く、スタイルもよくて、後ろ姿もキマっている。

冷静に考えてみれば、有名企業に正社員として雇用され、年収も高い墨田の境遇は、羨ましがられこそすれ、同情されるようなものではない。

墨田に続いてビルを出て、溜池山王方面に歩いていくその後ろ姿を追いながら、それでも俺はなぜか、“尾行”をやめられなかった。それは、墨田ではなく「俺自身」の問題のせいなのだと、俺はいい加減理解しつつあった。

HR特別室のメンバーなら、どうするだろうか。

頭の中に、その問が残っている。保科にしろ、室長にしろ、そして高橋にしろ、最初は頭がおかしい人間だとしか思えなかった。少なくとも、俺がAAの営業一部で一緒に仕事をしてきた人たちは、客をバカ呼ばわりしたり、採用ニーズを自ら潰したりはしなかった。だが、俺はどこかで、彼らの「仕事」に対する向き合い方に、惹かれてもいるのだ。

「クソ……」

言い訳のように、小さく悪態をつく。すると、それが聞こえたわけではないのだろうが、十メートルほど前を行く墨田がふと立ち止まり、あっと思う間もなくこちらを振り返った。

「……」

墨田はそこに俺がいることをわかっていたかのように、俺の顔を真っ直ぐに見ていた。

まずい。俺は咄嗟に視線を地面に落とし、墨田には気付いていない風を装って、足を進める。ポケットからスマホを取り出し、適当に操作しながら、立ち止まったままの墨田の横を通り抜けた。

「ちょっと」

背後から声をかけられて、今度は俺が立ち止まった。

ゆっくりと振り返る。

そこに、昼間見たのとはまるで違う、泣きそうな顔をした墨田の顔があった。


腰よりも高いスツール、正方形の小さなテーブル。その中央には今流行りのカフェ風のデザインで作られたメニューが置かれ、ナイフやフォークの入った籠で重しがしてある。

「いらっしゃいませ」

黒いTシャツに黒いサロンの店員がやってきて言う。いかにもこういう店で働いていそうな、痩せた長身の優男だ。

「当店2時間制をとらせていただいていますが、よろしいでしょうか」

「え? ああ、大丈夫です」

「お飲み物、いかがしましょうか」

「……じゃあ生2つで。あ、ビールでいいですか?」

俺が言うと、向かいに座る墨田が「ああ、はい」と小さく頷く。

店員が手元のiPadで入力を終え、離れていく。それと入れ違いに、強烈な気まずさが襲ってくる。

墨田に声をかけられた俺は、初めて気付いたというように驚いて見せ、せっかくだし一杯やっていきませんかと、目に入った一番近い店に墨田を誘ったのだった。

俺の突然の誘いに、墨田は戸惑った表情を浮かべつつも、「わかりました」と言った。俺が咄嗟に付け加えた、「もう少し取材させてもらいたくて」という言葉に納得したのかもしれない。

「……村本さん、おいくつなんですか」

やがて、沈黙を破って墨田が言った。

「あ……ええと……26の年です。墨田さんは?」

「今年28です」

ということは、2つ上か。

そこに店員が生ビールのジョッキを2つ運んできて、それを狭いテーブルに置きながら、「お食事、どうされますか?」と聞く。チラリと墨田を覗うと、「任せます」と言うので、チーズの盛り合わせなどを適当に頼む。

「じゃ……お疲れ様です」

店員が去った後、おずおずとグラスを傾けると、墨田も困ったような顔をして「あ、どうも」とそれに倣った。騒がしい声の中でグラスの触れ合う音が一瞬響き、すぐに飲み込まれる。沈黙の気まずさを避けるように、俺達はそれぞれゆっくりとビールを飲んだ。

一体俺は、何をしているのか。

いや、こうなることを全く予想していなかったといえば嘘になる。

俺は多分、何かを確かめたくて墨田をつけた。いや、もっとはっきり言えば、墨田と話をするために総武線ではなく銀座線に乗ったのだ。

「あの、墨田さん」

ジョッキをテーブルに置き、言った。

「……はい」

そして俺はあらためて、墨田の表情が昼間とはまるで違うことに気付いた。

墨田は笑顔ではなかった。どこかぼんやりとした、抜け殻のような表情。

……いやそれは、高橋の話からの連想なのかもしれない。一日たっぷり働いた営業マンなら、誰だってこんな顔になるものだ。墨田はあのBAND JAPANの営業マンで、社長からも期待されている人間だ。それに応えるためにも、一生懸命働いているのだろう。仕事モードの昼間と、そこから解放された今で、表情が違うのは当たり前だ。

……だが、そう都合のいいロジックを紡ぎだす俺の理性を、何かが引き止める。

何か。

何かとは、何だ。

<採用ってのは、人間の話だろ?>

<求人広告を売ることが自分の仕事なんて、私は考えたことなんてない>

俺はツバを飲み込んだ。そして、言った。

「取材したいというのは本当です。でも私は、仕事の内容や一日の流れじゃなくて、あなた自身の本当の気持ちを聞きたいと思っています」

俺の言葉は聞こえていたはずだが、墨田の表情は変わらなかった。まるで俺がそこに座っていないように、遠くを見るような目でぼんやりとこちらを見ている。

再び沈黙が降りた。

これまで以上に気まずい沈黙だった。客の笑い声が響く店の一角、そこだけ照明が落とされたような気分だ。

「……なんて、すみません。変なこと言いましたね。忘れてください」

バカなことをした。さっさと一杯飲んでお開きにしよう、そう思いながらジョッキを持ち上げたとき、その黄金色の液体の向こうで、墨田の顔がグニャリと歪んだのが見えた。

「本当の気持ちって……村本さん、なんですかそれ」

俺はそのまま、ジョッキを静かに下ろした。墨田の言葉は、内容だけ考えれば、俺の言葉に同調したような台詞に聞くこともできた。俺の自嘲に対し、「そうですよ、おかしなこと言わないでくださいよ」と一緒に笑うような。

判断がつかないまま、それでも俺は実際、墨田の本音を聞くためにこんなことをしているのだ、と考え、質問を続ける。

「御社のオフィスでインタビューさせてもらったとき、仕事が楽しいって仰ってましたよね」

「……ええ」

俺はツバを飲み込み、言った。

「あれって、どの程度本音なんですか?」

墨田が顔を上げ、俺の方を見た。その目が妙に黒く、大きく見える。俺は自分の顔が引きつっているのを感じた。墨田の瞳の中に、何か怒りのようなものを感じたからだ。

「いや……あの、あれだけ成功している会社さんなんだから、けっこう厳しい働き方をしてるんじゃないかと思いまして」

「……ああ」

墨田が小さくうなずき、「まあ、甘くはないですよね」と答える。

「やっぱり、そうですか」

「ええ。まあでも、そんなの当たり前ですから。保険の営業が始まったら、今よりももっと大変だろうし」

「……保険?」

俺が言うと、墨田はギクリとした顔になって、目を伏せた。

なるほど、と思う。つまり墨田もまた、例の新商品の営業として、高木生命へと転籍するということなのだろう。

「墨田さん、教えてください。墨田さんは保険を営業するんですか?」

「いや、忘れてください。僕にそれを言う権限はない」

「でも……現職の本音がわからなければ、いい求人にはならない」

勢い込んで言った俺に、墨田は妙な表情を見せた。目を細め、それからふっと笑みを漏らす。

「村本さんは、僕とは違うんだな。村本さんは多分、そういうこと考えてもいい人なんだ」

「……どういうことです?」

「だから、なんていうか、自分に自信があるっていうか、いや違うな、自分の信じた道を進む勇気があるというか」

「……」

「僕には、そんなものはない。本音が聞きたいって仰いましたけど、これが僕の本音です。僕は、少しでもリスクのない道を選びたい。金って意味でも、安定性って意味でも、既に成功者のいる道を選ぶのが一番確実じゃないですか」

墨田の顔が、徐々に笑顔になっていった。それに合わせて、声も大きくなる。

「……だから、今後もなくならない商品を、既に実績のある大企業で売るのが一番です。もちろん、それを望んだからといって、誰もが希望通りの就職ができるわけじゃない。そういう意味で、僕は幸運でした。こんなにダメな人間を、BAND JAPAN、いや、高木生命が拾ってくださったんですから!」

最後にはもう、墨田の顔は取材時の「お面」に戻っていた。

<墨田一重が自殺未遂したって>
<すぐ不登校なってたよ。あれ? 退学したんだっけ>
<今は引きこもりでホームレスみたいだってさ。ショック>

頭の中に、匿名掲示板のコメントがチラチラと浮かんだ。


遠ざかっていく墨田の背中を、俺はよくわからない気分で眺めていた。

店に居たのは30分ほどだろう。最初に頼んだつまみが、思い出したようにドカドカと運ばれてくる頃には、俺はもうその空気に耐えられなくなっていた。

鳴っていない電話をもってその場を離れ、五分ほどして戻ると、急用ができたと詫びて会をお開きにした。

渋谷や新宿のような活気はない、静かなビジネス街の夜。

墨田の姿が見えなくなっても、俺は動けないままだった。

……何をやってんだか。バカみたいじゃねぇか。

精一杯の自嘲を勢いにして、振り返った。それで全部忘れて、家に戻るつもりだった。さあ、と足を踏み出した時だ。

すぐそばのガードレールに、女が一人腰かけていた。

細い体をガードレールに預け、タバコを吸っている。その細い首がくいと伸び、青白い夜空に水蒸気のような煙が吐き出されたとき、思い出したように俺は気づいた。

「高橋さん……」

呟いた俺を横目で見た高橋は、冗談めかして言った。

「夜遊びなんて、ダメじゃない」

ガードレールから立ち上がると、尻に敷いていたのだろう、レース付きの高そうなハンカチがあった。高橋はそれを慣れた手付きで畳み、カバンに入れる。

「どうして……どうしてここにいるんですか」

当然の疑問を口にした。高橋は肩をすくめ、言う。

「偶然なんじゃない? あんたが彼に会ったのと同じく」

そうか、と思う。俺は高橋につけられていたのだ。墨田をつけていた俺をつける高橋。……だが、何のために?

「まあそんなことはいいわ。夜遊びついでに、ちょっと付き合いなさいよ」

そう言って高橋は、ちょうど通ったタクシーに向かって細い手を上げた。


外堀通りを進むタクシーは、ほんの五、六分で俺たちを新橋駅へと運んだ。「SL広場」として有名な日比谷口。その真ん前で高橋は車を止め、金を払うと、また何も言わずにカツカツとハイヒールを鳴らして歩いていく。

「あの……どこ行くんですか」

「いいからついてらっしゃい」

そう言って高橋はすぐそばの薄汚い雑居ビルに入ると、古いエレベーターに乗り込んだ。俺も慌ててそこに飛び乗る。

液晶の中、角ばった数字が増えていき、やがて7階で止まる。

チン、と音がして、扉が開いた。

「あっ……」

俺は思わず言った。そこに見えたのは、想像とはまるで違った風景だったからだ。

落ち着いたバー。

木目調の内装、微かに聞こえる音量で流れているゆったりしたジャズ、そして、エレベーター正面にあるカウンターの中で、ほとんど無表情に近い薄い笑みを浮かべている正装のバーテンダーが二人。

「いらっしゃいませ」

そのうちの一人が言い、頭を下げる。

「カウンターで。シャンパンを2つ。それから……」

席につきながら、手書きのメニューに目を落とす。

「あ、これこれ。いちじくのレーズンバター添え」

「かしこまりました」

カウンターの下にある荷物置きにカバンを置き、高橋の隣に腰を下ろす。

三十秒とたたず、ピンク色の発泡酒が、高そうな細いグラスに入って置かれた。

「じゃ、お疲れ」

「……お疲れ様です」

よくわからないまま乾杯をし、一口飲んだ。

「で? どんな話をしたわけ?」

「え……ああ」

墨田のことか、と思いつく。だが、その前に確かめなければならないことがある。

「高橋さん、どうして僕をつけたりしたんですか」

「は?」

「いや、だって、偶然なわけないじゃないですか。それに……俺が墨田さんと会ってたことを知ってたでしょ。つまり、あの店に入る前から俺の行動を見てたってことだ」

そうに違いなかった。だが、高橋はこともなげに言う。

「失礼ね。私の行き先に、あんたがいただけよ。それも、ただいただけじゃない、私たちのターゲットを連れ去った」

「え……ターゲットって……墨田さんのことですか?」

俺たちの前にドライいちじくが置かれた。真っ赤なマニュキュアの塗られた高橋の指がそれに伸びる。

「ま、正確に言うなら私の担当は彼じゃなかったんだけど。……まあそれはいいわ。とにかく私は私の思惑のもと六本木のあのオフィスビルに向かった。そしたら、一階のカフェでキョロキョロしている僕ちゃんを見つけた。しばらく見てたら、僕ちゃんは何かを見つけて、慌てて立ち上がって店を出ていった」

……あのビルのスタバで張っていたときだ。そして、エレベーターから降りてきた墨田を見つけると、俺はその後を追った。俺は横目で、いちじくを頬張る高橋を見る。

「とにかく、その時点で私たちの計画は狂った」

「……計画?」

「まあそんなことはどうでもいいのよ。だいたいあんたこそ、何をどうするつもりで彼を追ったわけ?」

「それは……」

それを言われると困る。俺にもよくわからないのだ。そして俺はもう、その問に自分で答えをだすことを半ば諦めていた。

俺は正直に話した。

具体的な計画などないまま墨田をつけたこと。途中で墨田に気づかれて、咄嗟に近くにあったあの店に誘ったこと。そして、墨田自身は今の境遇を「甘くはない」と認識しつつも、自分のような人間が高木生命のような大きな企業に拾ってもらって「幸運」だったと考えていること。

「彼はなんというか、彼なりのロジックで今の状況を受け入れていると感じました」

黙って聞いていた高橋は、三分の一ほど残っていたシャンパンをくいと飲み干す。

「おかわり」

差し出すグラスをバーテンが受け取り、「かしこまりました」と頭を下げる。

「何よ、彼なりのロジックって」

「……オフィスで話したでしょう。野球の話。彼が怪我をしたことでチームが負けて、それ以降のリーグ戦にも参加できなくなったって」

「ああ、そうだったわね」

高橋は電子タバコを咥える。すぐに、昼間とはどこか違う、甘い香りが漂い始める。

「ネットに書かれてたあの情報、自殺未遂がどうのって話が事実とした場合、彼が安定や保身を一番に考えるのも無理はないと思いました。……実際彼はいま、BAND JAPANの正社員なんだ。年収も高いし、BAND JAPANの後ろ盾である高木生命の社長からも期待されるような存在です。そう考えれば、彼の言っていることも一理あると言うか」

「それであんたは、言われるがままを受け入れたってわけ?」

ふうっと煙を吐きながら高橋が言い、俺は思わずカッとなってそちらを見る。

「じゃあ、高橋さんならどうするんですか。だいたい、誰がどんな職場で働こうが勝手じゃないですか。しかも、本人はそれでいいと言ってる。むしろ、自分は恵まれてるって認識なんですよ? 洗脳だなんだって言いますけど、それを外野がどうこう言う権利はないんじゃないですか?」

俺の剣幕を制するように、お待たせしました、とバーテンがグラスを高橋の前に置く。高橋は小さく「ありがと」と言い、それをゆっくり一口飲む。それから少し大きめのため息をついた。

「鬼頭はさ」

「……はい?」

突然出てきた名前に、俺は素っ頓狂な声を出してしまった。だが高橋はおかまいなしに話を続ける。

「あいつは、入社当時から目立ってたのよね。ああ見えて要領がいいし、頭の回転も早い。商品のこと、施策のこと、上へのアピール方法。誰よりも早く理解して、実践していったわ。結果、あいつは売れた」

「……聞いたことあります」

そうだ。今でこそ“変人”扱いされる鬼頭部長だが、かつてはとんでもない売上目標を毎週達成していたスーパー営業マンだったと聞いている。

「AAのような営業主体の会社にとっては、売上をあげる奴が正義よね。自然、鬼頭はどんどん出世した。リーダーになり、マネージャーになり、統括マネージャーになり、そして部長、そして今では取締役」

「まあ……実際すごいですよね。羨ましい」

本心から言った。あの人個人に対して明確な憧れを抱いているわけではないが、これ以上ない理想的なキャリアだと思う。しっかり結果を出し、それが認められ、相応のポジションや給与を勝ち取ったのだ。

だが高橋は、「そうかしら?」と言ってタバコを吸う。

「周りがどう思っているかは別として、あいつ自身は今、大きな壁にぶち当たってると感じてるはずよ」

「壁?」

「だからこそ、取締役になった途端、HR特別室なんておかしな部署を作った。そしてそこに、私みたいな跳ねっ返りを配属させた。私だけじゃないわ、保科にしろ室長にしろ、それまでいた部署では変人扱いされる“異端児“よ」

そうだったのか。やはりHR特別室は鬼頭部長が作った部署だったのだ。そして、メンバーを選んだのも。

だが、それならさらに謎は深まる。

「どうして、そんな部署を作ったんです。それに、“壁”って、一体何なんですか」

俺が言うと、高橋はなぜか嬉しそうに目を細め、紅い唇の端から甘い香りの煙を吐く。

「それをわかってほしくて、あんたを送り込んだんじゃないの?」

「……え?」

「この一週間あんたを見てて、なんとなくわかったわ。多分あのバカは、あんたならその壁の本質を見極められるんじゃないかって期待したんじゃないの」

「期待……俺に、ですか」

それは違う、と俺は頭の中で反論する。

俺はM社の一件で鬼頭部長を怒らせた。その罰としてこのおかしな部署で研修を受けることになったのだ。……確かに研修を言い渡されたのはM社のキャンセルが発生する前だったが、それでも、電話で話した鬼頭部長が怒っていたのは間違いない。

「まあ、期待と言っても、別に営業力云々の話じゃないわ。私たちがこれからぶつかっていく壁は、小手先のテクニックで乗り越えられるようなものじゃない」

「……」

「そんな中で鬼頭はさ、あんたのその、なんていうの、すれてるようで意外とナイーブな所? 冷めてるようでいて、意外と人の感情を無視できない所? わかんないけど、そこに何かを期待したのよ」

「……なんですか、それ」

褒められているのかけなされているのか、漠然とした話でよくわからない。そもそもこれは一体、何の話なんだ。

俺は咳払いをして、言った。

「とにかく話を戻しましょうよ。高橋さんはこの案件をどうするつもりなんですか」

俺の言葉に高橋は「さあねえ」と呑気な返事をよこす。

「どうするかはまだ決まってないわ。その答えは多分、もうすぐここにやって来る」

「はい?」

俺が言った時、背後からチン、という音がして、エレベーターが到着した。


降りてきたのは、保科と室長だった。

二人は雑居ビルの貧相なエレベーターとこの落ち着いたバーとのギャップに驚く素振りも見せず、何事かを話しながらカウンターに近づいてきた。室長がまるでバスケットのシュートを打つような素振りをし、それを保科が呆れるような目で見ている。

やがて室長が俺に気づき、「おや」と目を丸くする。

「これは珍しい、ええと……」

「……村本です」

どうしてここに室長たちが現れるのか。いや、入店時の様子を思えば、2人はこの店が初めてではないのだろう。慣れた雰囲気の高橋同様、常連客なのかもしれない。

だが、俺は覚えていた。今回の案件をどうするのか、そう聞いた俺に対し、その答えはもうすぐやってくると高橋は言ったのだ。

――あの2人が答え、なのか?

戸惑う俺をよそに高橋は、「ね、向こう、いい?」とテーブル席の方を指差した。バーテンダーは「かしこまりました」と頭を下げる。

「お飲み物はこちらでお持ちしますので、皆様どうぞあちらへ」

礼を言ってテーブル席へと移動する高橋に、保科と室長が続いた。俺も慌てて後を追う。格子柄のパーテーションで半個室のようになった4人席。高橋と保科が隣に座り、向かい側に高橋、俺は空いた席に座るしかない。

すぐにバーテンダーが俺たちのグラスと新しいおしぼりを持ってやってきた。室長はスコッチの水割り、保科は烏龍茶をオーダーする。

それらが運ばれてくると、高橋は乾杯をする間もなく言った。

「で? どうだったの」

いたずらを企む子供のような目。それを室長も嬉しそうに受け止め、うふふ、と笑う。

「いやあ、君の人脈は恐ろしいなあ。確かに見つけたよ」

「何よ、見つけてから言ってるんだから、当たり前でしょ。そんなことより、話はできたの?」

「ああ、随分と長い話をね」

室長は手元の重厚なグラスを掲げ、薄茶色の液体をゆっくりと飲む。

「海が見える丘の施設でね。ありゃもう、ホテルみたいなもんだな。僕、羨ましくなっちゃったよ」

「もう、そんなことどうでもいいわよ。どんな話をしたのか早く言いなさいよ」

「うん、まあ、最初は驚いとったが、僕が後輩だと知って安心したようでね」

「ああ」

「どうしてあの人たちは、自分と同じ大学の卒業者だっていうだけで、あんなに急に態度を変えるんだろうね。……それに先方、僕のこと知っててさ。ああ、君が宇田川君か! とか言って」

「あら、さすが有名人」

有名人? 室長が?

話の内容もさっぱりわからないが、室長が有名人だというのもさっぱりわからない。答えを探すように向かい側を見ると、テーブルに置かれた烏龍茶をストローですすりつつスマホをいじっていた保科が俺の視線に気づき、「バスケだよ」とボソリと言った。

「バスケ?」

「そ。このオッサン、こう見えてバスケの元有名選手」

えっ、と思い、室長の方を見る。

「うふふ、まあ、そうなんだよねえ」

「元でしょ、元」

高橋が冷たくツッコみ、「でも、ほんと使えるわよね、その経歴。羨ましいわ」と遠くを見るような目をする。

俺は思わず首をかしげた。身長は俺よりだいぶ小さいし、体型だって島田のように小太りだ。有名選手どころか、本当にバスケができるのかもわからない。

だがその一方で、いくつかの記憶がすくい出されるように浮かんだ。

初めてHR特別室に行った時、ソファに寝転んだ状態からすごいバネで立ち上がった室長。

中澤工業の事務所に貼られたバスケット選手のポスターに、妙に興奮していた室長。

「同学でしかもバスケ部の有名選手。そりゃ相手も心を開くか……でも、さすがに今回の話は寝耳に水なんじゃないの」

保科が言うと、室長は「それがさ」とどこか悲しげな雰囲気になって答えた。

「僕が行く前から、既に考えていたっていうんだ。一線から退いて、あらためて自分の人生を振り返ったんだと。そうしたら気づくことがあった。BANDへの出資話ももちろん知ってて、それを知った当初はむしろ喜んでいたんらしいんだな」

「当初は、ということは、今はそうじゃないのね。高木生命の本当の思惑が見えてきたってことなのかしら」

BAND、そして高木生命。

……やはりこれは今回の案件についての話らしい。だが、俺にはその全体像がまったく見えない。一体室長と高橋は何の話をしているのか。

「ああ。先方も、引退者とはいえ社内とのつながりが完全になくなったわけじゃなさそうでね」

「なるほどね。で……彼の結論としてはどっちに転んでるわけ」

「まあ、自分の人生そのものの評価でもあるわけだから、そう簡単に結論は出せないだろう。人間、過去の記憶というのはほとんどプライドと同義だからね。だが、後悔している部分はあると言っていた」

「……そう。それで明日の件は?」

「まあ、大丈夫だ。しかるべきところに許可も取った」

室長はそう言いながらスコッチウイスキーを飲んだ。

「さすがね。……で、保科、あんたの方は? 会わせてもらえたの?」

「ああ、まあね」

スマホから顔を上げず保科が答える。

「それで、どんな状態だったの? 話はできた?」

「……いや、ほとんどできなかった。2人で縁側で、ぼーっとしてただけ。でも、お母さん曰く、今日はすごく気分が良さそうに見えるって。訪ねてきてくれてありがとうってさ」

「それって、どういう意味?」

すると保科はスマホを置き、言った。

「俺みたいなどこの馬の骨ともわからない奴でも、訪ねてきたことを喜んでくれるんだ。状況は推して知るべしだろ。俺、マジでムカついてきたよ。彼をあんな風にした奴は、その高級な施設でのうのうと暮らしているわけだろ」

室長の方を睨みつけながら言う保科に対し、室長も視線を落とす。

「君にしちゃいささか短絡的な意見だが……逆に言えば、君がそう思うくらいの状態だったんだろうね。だがね、さっきも言ったが彼は後悔していたよ。彼のような人生を歩んできた人間が後悔を口にする。それがどれくらいのことか、わからぬわけではあるまい」

ふと沈黙が訪れたが、それを高橋が自然に引き継いだ。

「あれだけ大きな会社よ。何人もの人間の人生を巻き込みながらここまで永らえてきた。……いい? だからからこそ簡単には止まれないのよ。むしろ、誰かが止めてくれることを望んでるように私には思えるわ。……特にあの社長にとっては、お兄さんのことがあるわけだから」

「でも高橋さん、結局会わなかったんだろ、今日」

「あら、よくわかるわね。この僕ちゃんのおかげで、予定を変更したの」

そう言って俺を指差し、室長と保科が俺を見た。

「いや……あの、どういう話なのか俺、全然わかんないんですけど」

そうだ。その通りだ。いつだってこいつらは、俺を置いてきぼりに話を進めやがる。

「だから、明日のプレゼンの話さ」

室長が事もなげに言う。

「プレゼン?」

そして高橋はメニューに視線を落としながら、面倒臭そうに言った。

「明日13時、BAND JAPAN。いいわね?」


次の日―。

「あの……これはどういうことなんです」

BAND JAPANのエントランスに現れた佐々木は、青い顔をして言った。痩せ型の長身にクリエイターっぽい服装。昨日も俺たちをこうして迎えた、案内役の男だ。

「社長の許可は取れているはずですが」

高橋が事もなげに言うと、佐々木は困った顔でうつむき、唸った。昨日以上に怯えた様子だ。

「ええ、それはそうなんですが……ただ、私としても内容を事前に聞いておく必要が、ですね……」

モゴモゴと言う佐々木を横目に、「さ、行くわよ」と高橋は俺に言った。

取り合おうとしない高橋の様子に、佐々木も諦めたのだろう。槙原社長とアポが取れているのは事実らしい。結局それ以上は何も言わずに俺たちを先導し始めた。

それにしても、昨日の今日でよくOKをもらえたものだ、と思う。

……いや、下手をしたら希望を出したのは今朝なのかもしれない。何しろ今回の案件をどうするか、昨晩あの落ち着いたバーに行った時点では決まっていなかったのだ。

俺たちは昨日と同じ“ジャングル”の中を進み、そして当然のように、それを通り過ぎた。つきあたりを左に曲がって、それまでとはまるで雰囲気の違う“壁”へと向かう。

「あの……プレゼンって、一体何をどうプレゼンするんですか」

ペコペコ頭を下げながら電話で話している佐々木を見ながら、隣の高橋に小声で聞いた。保科や室長の姿がないことも気になるが、まずは何をしにここに来たのか、だ。高橋は無表情にこちらを見て、何も言わないまま視線を戻す。そしてボソリと、しかし何の迷いもな口調で言った。

「何をプレゼンするかって、そんなの決まってるじゃない」

「……え?」

「価値観よ」

「はい?」

「私たちは、価値観をプレゼンしに来たのよ」

そのとき扉が開き、俺達の前にBAND JAPANの“本体”、高木生命が姿を表した。


槙原社長は、明らかに不機嫌そうだった。

「どういうことかね、高橋さん」

ソファではなく執務机の向こうの椅子に体を預けたまま、社長は言った。

「と、言いますと?」

高橋は、薄い笑顔を浮かべ、首を傾げてみせた。槙原社長は眉間にシワを寄せ何かを言いかけたが、それを一度止め、深呼吸した上で、ゆっくりと苦笑いを浮かべた。参ったな、という雰囲気で続ける。

「あなたが個人的な話をしたい、と言うから、私はこうして時間を作ったんですよ」

個人的な話?

すぐに、小さな納得感と、下品な想像が頭に浮かんだ。

なるほど、このエロオヤジは、高橋にそう言われてホイホイと乗ってきたのだ。まさかこの社長室でいやらしいことでもしようと考えたのだろうか。

だが逆に言えば、高橋はそういう下心を利用して、こんな急なアポイントを切ったということなのか。思わず頬が緩みそうになった。ざまあみろ、と思ったのだ。さすが高橋さん、やることがエグい。

……だが、すぐに、不安が押し寄せてきた。

槙原社長は、高橋にコケにされたも同然だ。ここまで俺たちを案内し、早々に人払いされた佐々木の青い顔を思い出す。今回の相手は、先日保科と行ったクーティーズバーガーや、室長と行った中澤工業とはわけが違う。天下のBAND JAPAN、いや、高木生命なのだ。今回の件が問題になったとき、ぶつかって消し飛ぶのは俺たちAAの方ではないのか。

思わず表情を伺った。だが、やはりと言うべきか、高橋は落ち着き払っている。……保科といい室長といいそしてこの高橋と言い、やはり頭がおかしいとしか思えない。

「ええ、そのとおりです。私は個人的な話をしにきました」

「そうか……じゃ、彼は必要ないんじゃないか?」

槙原社長のギョロリとした目が、恐らく初めて、俺に向いた。

「あ……あの……」

思わず口ごもる俺をよそに、「彼は大事な研修生ですから、いてもらわなければなりません」と高橋は答える。

次の瞬間、ドン! という鈍い音が響いた。ハッとして顔をあげると、槙原社長が今度こそ怒っていた。固く握ったらしい拳が、机の上で震えている。今のは社長が執務机を叩いた音らしい。

「……舐めるのもいい加減にしろ」

ドスの利いた声。冷たい表情。その裏側に感じられる強烈な怒気の気配。中澤工業のタカちゃんもプロレスラーのような迫力があったが、それとは種類の違う、言うなれば、ヤクザの組員ではなく組長の凄み。

こういうことに慣れていない俺は、その迫力に思わず体を引いてしまった。

……のだが、隣に立つ高橋は逆に、カツカツカツ、と執務机へと向かっていくではないか。

そして……事もあろうに、その机に向かって、拳を振り上げ、そして振り下ろした。

再び、ドン、という音。

目を丸くする槙原社長に向かって、高橋は言った。

「舐めてなどいません。むしろあなたこそ、求人を舐めないでいただきたい」

「……なんだと?」

「結論から申し上げますわ」

そして高橋は驚きの表情を浮かべた槙原社長にゆっくりと顔を近づけ、ささやくように言った。

「御社の採用課題は………あなたです」

「私が……採用課題だと?」

「ええ、そうですわ」

怒りの為か微かに震えた槙原社長の言葉に、高橋は躊躇なく頷く。

「……どういう意味だ。冗談を言っていい場面じゃないぞ」

俺は思わずツバを飲み込んだ。槙原社長の言葉は、高橋個人だけでなく、俺たちの勤めるAAにも向けられている。今回のBAND JAPANの1200万円という大商いも、社長の判断次第ではなくなってしまうだろう。いや、それで済めばマシなのかもしれない。案件がキャンセルされたところで、利益がなくなるのは確かだが、話がゼロに戻るだけなのだ。

だがもし、公式な形で抗議を受けたらどうなる。高木生命という大きな会社から「AAの営業からこんな対応をされた、AAはひどい会社だと」と表明されたら、AAは大きなダメージを食らう。

しかし、高橋の後ろ姿は凛としたものだった。

「もちろん冗談ではありませんわ。御社がより大きな成長を目指すのであれば、そして、そのための採用を本気で行うのであれば、まず見直すべきはあなたの考えそれ自体だということです」

「……私の、考え?」

「ええ。求人業者らしい表現をお求めなら、ターゲット設定の見直し、と言い換えましょうか」

ターゲット設定。つまり、どんな人間に対して求人のメッセージを送るか、という設定のことだ。確かにここでミスをすることは多い。経験者が欲しいと言って「経験5年以上」と条件を設定したものの、実際には経験年数より資格の有無の方が重要だった、というようなケースだ。ターゲットが変われば当然、伝えるメッセージも変わってくる。

しかし、槙原社長はふん、と鼻で笑った。

「偉そうに言うな。君らの仕事は私たちクライアントの求める人材を引っ張ってくることだろうが。外野の君らがなぜ、ターゲット設定を見直せなどと言えるのかね」

槙原社長のストレートな言葉に、確かにそれもその通りだ、と頷きそうになった。

俺たち求人屋の仕事は、クライアントの求めている採用を実現することだ。どういう人材が何人、いつまでに欲しいのかを決めるのはあくまでクライアント側で、俺たちではないのだ。

だが、高橋は首を振った。

「いいえ、そうではありませんわ」

「何が違うというのだ」

槙原社長はどこか勝ち誇った顔で言い、手元の引き出しから、最近はあまり見なくなった紙巻きたばこを取り出し、火をつける。そしてゆっくりと立ち上がると、目の前に仁王立ちする高橋を避けるようにして、ソファに座った。

「ま、せっかくだ。話を聞こうじゃないか」

どうぞ、と向かい側の席を勧める社長に高橋は目礼し、それに従った。ゆったりした背もたれのソファに、浅く座る。一瞬迷ったが、俺はその場から動かなかった。高橋の隣に座ったところで、俺にできることなど何もない。それに、徐々に怒りを収めつつあるように見える社長が、また機嫌を損ねないとも限らない。

「つまり君は、私のターゲット設定が間違っていると言うんだね」

「間違っているかどうかはわかりません。ただ、仮に墨田さんのような方を採用できたとして、御社がいま切実に求めている、社会的な信頼というものは手に入らないだろうと考えているだけです」

「ほう……君は彼を否定するのかね?」

槙原社長はどこか嬉しそうに、ニヤリと笑った。

槙原社長が、「ターゲット通りの社員だ」と太鼓判を押した墨田。そうだ。昨日俺は墨田に接触するために新橋から六本木に戻り、そして2人で酒を飲んだ。

墨田は今の状況を「幸運」と言った。少しでもリスクのない道を選びたいと、そのためには既に成功者のいる道を選ぶのが一番だと。過去に辛い思いをしたからこそ、BAND JAPAN、いや、高木生命の傘の下で暮らせることに価値を感じていた。

「ま、わからんこともない。あいつの表情や物腰が不自然だとでも感じたのだろう? 確かにあいつはまだ若手で、しかも新人だ。ウチの文化がまだ馴染みきっていない部分はある」

社長は体を起こし、テーブルの上のガラス製の灰皿でタバコをとんとん、と叩く。

「だが、それもじきに慣れてくる。これまでもそうだったんだ。最初は墨田のように、皆ぎこちない。だが、早い者で半年、遅くても1年で、みな立派な“高木生命の営業”に成長していく。そう思えば、墨田は非常に優秀だ。入社半年ほどだが、既にいい結果を出している。……どうだね、高橋さん。私が彼に期待し、彼のような人間に来てもらいたいと思うのはおかしいかね?」

高橋は何も言わない。……いや、もしかしたら何も言えないのかもしれない。俺たちはしょせん求人屋だ。社長がこう思っていて、墨田ら社員たちもその環境を受け入れているのなら、一体それ以上何が言えるというのか。

黙ったままの高橋に、社長は体を乗り出すようにして言った。

「いいかね、高橋さん。あなたが墨田をどう判断したかは知らん。だが、あいつは事実、強くなった。入社した頃は本当に弱かったんだ。あんな状態では、人生を自らの足で歩んでいくことなど到底できない。そんなあいつに、私たちは強くなる機会を与えた。このままじゃお前はダメなままだぞ、だから頑張らなきゃだめだとな。俺たちの差し伸べた手を、あいつは掴んだ。あいつは自分の意志で、強くなることを決めたんだ」

社長の表情は真剣だった。本当にそう思っている顔。

「俺たちのやり方に異論を挟む人間もいるだろう。だがな、そういう奴はしょせん偽善者だ。本当の地獄を見たことがない、ひよっこだ。人生は綺麗事ではいかない。いいかね、高橋さん。墨田は潰れる間際だった。あのままじゃ、二度と立ち上がれないまま人生を終えていくだけだっただろう。わかるかね? この厳しい世の中、弱いままでは渡っていけないんだ!」

自分の言葉に興奮するように、語尾が荒くなった。

社長室の中に、しん、と冷たい沈黙が降りた。

「……お兄さんのように、ですか」

やがて、ポツリと呟くように高橋が言った瞬間、槙原社長の目が大きく見開かれた。

「……何の話だ」

そう言って口元を歪めた槙原社長だったが、動揺は明らかだった。真剣だった表情が、どこかバツの悪そうな……いや、というより、まるで吐き気を覚えているような苦しげな様子に変わっていく。

高橋は「お兄さん」と言った。お兄さん? それはつまり、槙原社長の兄のことを言っているのだろうか。……だが、もちろん俺はそんな人のことは知らない。

「あの……お兄さんって……」

思わず言った。ソファで槙原社長と対峙している高橋が、その後ろで突っ立ったままの俺の方をチラリと振り返り、言った。

「もともと高木生命は、槙原社長のお兄さんの就職先だったのよ」

「え……」

高橋はそれだけ言うと、さっきまでの饒舌が嘘のように俯いて黙り込む槙原社長の方に視線を戻す。

「お兄さんは社長の4歳年上で、新卒で入社したのが高木生命。当時の高木生命は、保険業界の中でも勢いのある会社でね。就職先としても人気があって、その中でお兄さんは、高い倍率の入社試験をクリアして希望通りの就職を実現した……そうですよね?」

高橋の問いかけに、槙原社長は視線だけを上げ、呻くように言った。

「……何の話だ、と聞いている。仕事に関係のない話をするな」

「ええ、もちろんです。関係があると思うので話しているだけです」

高橋は事もなげに言い、説明を再開する。

「……一方、社長は実家のある中部地方から東京都内の大学に進学、一人暮らしを始めた。お兄さんも就職のタイミングで実家を出ていたから、兄弟が顔を合わせる機会はほとんどなくなってしまった。そして3年目、社長の就職活動がそろそろ始まるというタイミングで、あなたはお兄さんに相談することにした。何しろ、お兄さんは天下の高木生命の内定を得た“勝ち組”です。経験者からのアドバイスほど為になるものはない。そしてあなたは久々にお兄さんに連絡をとった。そしてそこで、予想だにしていなかった事実を知った」

高橋の意味深な言葉に、槙原社長がピクリと肩を震わせた。

「あなたが連絡した数日前、お兄さんは一人暮らしの家を引き払って既にご実家に帰られていた。心も体もズタボロになって……」

「え……」

思わず声が漏れる俺をよそに、高橋は続ける。

「聞けば、高木生命での連日の激務、そして上からの強いプレッシャーのせいで、重度の精神疾患に罹ってしまったと。お兄さんはやがて退職し、ほとんど外出もできないような状態になってしまった。……今で言えば、いわゆる引き篭もり状態ね」

「……」

ちょっと待て、と思う。どうして高橋はそんなことを知っているのか。社長が反論しないところを見ると、事実なのだろう。

社長の兄が高木生命の出身者で、それも体調不良が理由の早期退職者。それではなぜ目の前の社長は今、このポジションに座っているというのか。自分の兄が受けた“仕打ち”を考えるなら、高木生命に怒りを感じこそすれ、入社を考えるなどありえないではないか。

「あなたは確かに、怒りを感じた。大切な兄をこんな風にした高木生命を許せないと思った。……でもその一方で、こうも感じていた」

「……」

「兄が壊れてしまったのは、兄が“弱かった”からではないか」

高橋の言葉に、再びの沈黙が降りる。

たっぷり二十秒ほど黙ったあと、社長はため息混じりに言った。

「そうだ」

そして、いつの間にかフィルターだけになっていたタバコを灰皿に入れると、新しい一本を取り出し、火をつける。

「……君の言う通りだ、高橋さん。どうやってそんなことまで調べたのか知らんが……まあそれはいいだろう。そう、私は兄が純粋な被害者だとは思えなかった。スポーツを通じて世の中の厳しさを学んでいた私にとって、兄はあまりにも弱々しく見えたのだ」

社長はどこか演技じみた所作で、ふーっと煙を吐き出す。

「……俺たちは、常に強くあろうとしてきた。チームに弱いものがいれば試合になど勝てない。体が辛かろうが心が辛かろうが、そんなものは関係ない。それを乗り越えるだけの強さを身につけるだけだ。……そんな私からすれば、途中で潰れた兄は、負け犬だった。俺は違う。どんなに辛かろうが負けたりなんてしない。だから、高木生命に入った」

社長はそう言って、どこか満足気に背もたれに体を預け、目を閉じる。

「そしてあなたは、勝ち上がった。激務やプレッシャーを跳ね除けて、この厳しい環境の中で、着実に認められていった」

高橋が言うと、社長は満足げに頷く。

「そうだ」

「そして今、役員の座も視野に入るようなポジションに座っている」

「そうだ」

「お兄さんのこと、今ではどう思うんです? もう20年以上、引き篭もり状態なのでしょう」

槙原社長は目を開け、「そうだな……」と視線を上げると、どこか穏やかさすら感じる口調で言った。

「どう思うのかと言われれば、かわいそうな兄だと考えている。もはやあの男が人生をやり直すことはない。だから、俺が支えていくつもりだよ。それが俺たちのような人間の責任だからな」

「俺たちのような人間、とは?」

「強くあろうとし、そして実際、強くなった者のことだ。兄ももしかしたら、強くあろうとしたのかもしれない。だが結果、強くはなれなかった。……悲しいことだ。だから俺たちは、より効果的に強くなるためのシステムを考えてきた。それが高木生命の作り上げてきた教育制度であり、営業スタイルなんだ」

「墨田さんのような弱い者を、強くするシステム、ですか」

「そう、その通りだ」

槙原社長の目に、再び力が戻った。自分の考えに対する自信、迷いのなさがにじみ出る強い目。

「俺は墨田に、兄のようになってほしくはない。潰れてしまう前に、早く“強者”にしてやる必要がある。わからないか? 弱いから潰れるのだ。強くなれば潰れない。俺自身がいい見本だ。皆、俺のようになればいい。強き者から教えられれば、自分も強くなれるし、そして、強くなる方法を次世代に伝えていくこともできる」

「……なるほど。あなたの考え、そしてターゲット設定は間違っていないと?」

高橋の質問に、社長はやれやれ、というように首を振る。

「当たり前だ。だが、あなたは少し勘違いしている。これは何も俺独自の考えってわけじゃない。大学時代の部活の監督からチームメイトたちも同じだし、何より高木生命で成功してきた人たちは皆こういう考え方だ。つまり俺は、高木生命の伝統に則っているだけなんだよ」

「ではあくまで、墨田さんのような方を採用していくと」

「くどいな。それが正義になる世界なんだここは。これは高木生命の伝統だ。偉大な先輩たちからずっと受け継いできた、成功のメソッドなんだ」

「偉大な先輩、と言うと? 憧れの先輩がいらっしゃったんですか?」

高橋が話の矛先を変えると、槙原社長はいよいよ安心したのか、リラックスした雰囲気で言った。

「私にとってはなんと言っても都筑先輩だな。かつて俺の教育担当になってくださった方だ。その後は目の見張るような出世をして、数年前までは役員を務められていた。都筑先輩はあらゆる面で俺の見本だった。憧れたもんさ。……そうだ。俺がこの理論を本気で正しいと思っている証拠を言おうか」

「ええ、ぜひ」

槙原社長の顔に、あのヤクザの組長のような、凄みのある笑顔が浮かんだ。

「その都筑先輩は、俺の兄の教育担当だった方だ」

「え……」

声が漏れたのは高橋ではなく俺だった。

なんだそれは。自分の兄をあんな風にした先輩に、この人はこれほど憧れているのか?

混乱が押し寄せてきて、そしてそれは、すぐに恐怖に変わった。一体なんなんだこの人は、いや、この会社は。

高橋も同じ気持ちなのだろうか。社長を前にしばらく黙り込んでいたが、やがて小さくため息をつくと、スッと立ち上がった。

「おや……帰るのかね?」

余裕のある表情でそう聞く槙原社長を無視するように、高橋はカツカツカツ、と音を立てて出口の方へと歩いていってしまう。慌ててあとを追おうとしたとき、ソファのところに高橋のカバンが置きっぱなしであることに気づいた。忘れているのか?

ソファに駆け寄ってカバンに手を伸ばした時、背後で扉の開くガチャっという音が聞こえた。

次の瞬間、ハッとして振り向いた俺の目に、意味不明な風景が飛び込んできた。その意味を理解する前に、高橋が言った。

「今日はお越しいただきました。あなたの憧れの、都筑先輩に」


何が起きているのかわからず視線を彷徨わせた俺は、扉の形に四角く切り取られたその風景の一番奥に、佐々木の姿を認めた。

呆然とした表情。常に不健康そうな雰囲気を醸す男だったが、今は貧血でも起こしたような真っ青な顔をして、眼の前に並んだ人間の背中を見つめている。

佐々木の視線の先にいるのは、そう、HR特別室の面々だった。

眠たげな表情をした室長と、こんな場所にもダボダボのスウェットと汚いスニーカーという格好で来ている保科。そしてモデルのように腰に手を当てて挑むような視線を寄越す高橋。

……そうだ。白昼夢なんかではない。俺はある意味で、こうなることを知っていた。昨晩この面子で行った新橋のバーで、室長と保科も“BAND JAPANへのプレゼン”に参加するようなことを言っていた。

だがそれでも、不可解なことに変わりはない。一体2人は何をしにここに来たのか。どうしてこのタイミングなのか。どうやってあの“ジャングル”を抜け、この「最深部」までやってこれたのか。

そして何より……その車椅子の老人は誰なのか。

室長と保科、そしてその横に立つ高橋の3人の前に、見知らぬ老人がいた。

「都筑先輩……」

俺の後ろで、槙原社長が呟くように言った。それを聞いて俺は、先ほどの高橋の言葉を思い出した。

<今日はお越しいただきました。あなたの憧れの、都筑先輩に>

……やがて室長が一歩前に出て、老人の後ろに立った。車椅子のハンドルに手を置くと、ゆっくりと、だが躊躇のない足取りでこちらに近づいてくる。

「あ、あのっ!」

後ろからヒステリックな声。見れば、佐々木だ。

「私には! どうにもできません、社長! 都筑様です! 私に止める権利など!」

その言葉に、今更のように思考が整理されていく。

……そうだ、都筑先輩と呼ばれるこの老人は、先ほどの社長の話にあった「憧れの先輩」なのだ。

都筑老人は妙な表情で槇原社長を見つめた。微笑んでいるようにも、苦笑いを浮かべているようにも、あるいは何かを恥じているようにも見える。何度かゴホゴホと咳払いしたあと、「おう」と掠れた声を出した。

「先輩……どうしてここに」

槙原社長は本当に驚いているようだった。座っていたはずだが、いつの間にか立っている。

「いや……まあな」

曖昧に受け応える都筑だったが、室長が「さあ、こちらへ」と手を差し出すと素直にそれを受け入れ、介助を受けつつ車椅子からソファに移動した。先ほど高橋が座っていた場所に、ゆっくりと腰を下ろす。

「槇原……まあ、座れ」

都筑の言葉に槇原は戸惑いの表情を浮かべたが、やがて「はい」と頷いて向かい側に座った。

「忙しいだろうに、すまんな……」

「そんな……とんでもありません! こんな所までご足労下さって……ご用事があれば伺いましたのに!」

都筑の前では、槙原社長も一人の“後輩”なのだろう。その表情には明らかな変化があった。まるで墨田のような、どこか作り物めいた笑顔。言葉遣いまで変わっている。都筑はなぜか、そんな槙原社長から目を逸らすように俯いた。そして、呻くように言った。

「槇原よ……俺を恨んでいるだろうな」

「……え?」

「どう言えばいいのか……俺は取り返しの付かないことをしたんではないかと思っている。お前に対しても、な」

「せ、先輩、何を仰います。私を育ててくれたのは先輩じゃないですか! 見て下さい先輩! 私は子会社の社長を任されるまでになりました。これも全て、先輩のご指導のおかげです! 感謝しかありません!」

「……だが、隆弘は今でも、家にいるんだろ?」

隆弘、という名が出た瞬間、槙原社長の顔がカッと赤くなった。そして、身を乗り出して、テーブルを挟んだ向かい側に座る都筑の肩を抱くような素振りをしながら、「あいつは!」と叫ぶように言った。

「あいつは……兄は……弱かっただけだ! 高木生命の与えた試練に勝つことができなかった。せっかく先輩たちが強くなる機会を与えてくださったのに、それに応えることができず、勝手に脱落していったんです! そんな奴のことを、先輩が気に病む必要などありません! ……先輩、私を見て下さい、先輩は事実、私を成功させてくれた。あんな弱者のことではなく、先輩たちの紡いできた伝統を引き継ぐ、私のような人間を見て下さい!」

……だが、畳み掛ける槙原社長の言葉に、都筑の表情はさらに苦しげなものになっていく。

「違う。違うんだよ、槇原」

「先輩?」

そして都筑はグッと目を閉じ、呻いた。

「その“伝統”こそが、俺を苦しめているんだ。俺が先輩から受け継ぎ、そしてお前たちに強いた、その伝統……。そしてお前が今、かつての俺と同じ様に、若手に強いているその伝統。俺たちはそれが“正しいこと”だと教えられてきた」

「そ、そうです! その通りです! だから先輩もあれほどの成果を得られたのではないですか! そしてその先輩に指導いただいた私も、高木生命の幹部としての成功が見えてきています。それは“正しいこと”ではないですか!」

「違う」

都筑はそして、まっすぐに槙原社長を見据えた。その目に、どこか芯が通った感じがする。槙原社長もそれを感じたのだろうか、かぶりつきだった体を少し引く。

「……違う?」

「ああ。俺は今日、お前にそれを伝えたくてここまで来た。いいか、俺たちは“正しいこと”を知っていたわけじゃないんだ。いいか、俺たちは……“このやり方しか知らなかった”んだよ。このやり方しか知らなかったから、これが“正しいこと”だと信じて疑わなかった。だが、どうだ。外の世界に出てみれば、俺たちが死ぬ気で守ってきた“伝統”など、何もしてはくれない」

「……」

「勘違いするな、槇原。俺は何もお前に、いい子になれなどと言いに来たわけじゃない。ただ、俺たちはどこかで、その“伝統”というものを生きながらえさせるために、利用されてきたんじゃないかということを考えてほしいんだ。お前の兄貴の……隆弘のような人間を俺たちは何人生み出した? 何人の人間を壊してきた?」

「それは……壊れた人間が弱かったからで……」

「槇原、違うんだよ。本当に弱いのは、俺たちの方なんだよ。偉そうにふんぞり返ってきた俺たちだが、実際は、伝統の奴隷じゃないか。伝統という化け物を生かすためだけに必死で働いてきた、いや、働かされてきた奴隷なんだよ」

都筑はそう言って、また肩を落とした。

「こんなことを言っても、お前には何も伝わらないかもしれない。俺だって会社を辞めるまでは露ほども思わなかったことだ。いや、退職後何年間かは、勤務中と同じ気持ちだったよ。だが、こうして体を壊し、一人で老人ホームで過ごすようになったとき、痛感した。いいか、槇原。世の中にはいろいろな価値観がある。そして、自分とは違う価値観を受け入れられない人間は、苦しむことになる。……そういう人間を量産する“伝統”など、なくなった方がいい。俺は最近そういうことを考えているんだ」

「……」

槙原社長は口を半開きにし、信じられないという表情で黙っていた。

「いいか、槇原。俺はもう間に合わない。このまま、自分の人生を後悔しながら死んでいくのだろう。だがな、槇原。お前はまだ間に合う。お前自身が変われば、いいか、お前自身だけでなく、お前の部下たちの人生も変わるんだ。そのことを、頼むから一度、真剣に考えてみてくれないか」


俺たちHR特別室の面々は、数十メートル先の風景を黙って見ていた。

BAND JAPANのオフィスが入るビジネスビルの一階ロビー。しかしそれは俺が墨田を待ち伏せたあのスタバのある表側ではなく、ビル関係者――それもVIPだけが利用できるらしい特別な裏口だ。

やがてロータリーに高そうな黒塗りのワンボックスが停まり、スーツを着た運転手が、前傾姿勢で滑るように出てきた。背景には、東京のど真ん中だということを忘れそうな漆喰塗りの壁と豊かな竹林。ここはビルとビルの間に作られた秘密の空間なのだ。

車椅子を押す槙原社長が運転手に何かを言い、運転手が何度も頷く。離れているし、自動ドアで阻まれているので、槇原が何と言っているのかはわからない。車椅子に乗っている都筑の顔も、槇原の体に遮られて見えない。

俺はぼんやりと、先程までいた社長室でのやりとりを思い出す。

都筑や槙原社長が、唯一の「正しいこと」として信じてきた、高木生命の伝統。会社を辞め、身体を壊して老人ホームに入った都筑は、そこで初めて、異なる価値観を持つ者同士が助け合い、認め合う姿を目の当たりにした。同時に、それまで自分が振りかざしてきた価値観が、まるで通用しないことを知ったのだ。

<わかるか、槇原。俺は老人ホームでは“弱者”だったんだよ>

部屋を出る直前、呻くように言った都筑の言葉が蘇る。

「さ、行きましょ」

高橋が言い、「そうしよう」と室長も同意する。保科は無言でスマホをいじっていたが、くるりと振り返って歩き始める。

「ちょ、ちょっと……あの」

俺を置いてけぼりに歩いていく3人の後ろ姿に、思わず声をかけた。

「何よ」

高橋が振り返り、面倒臭そうに言う。

「これで終わりですか? 俺たち、あの爺さんと社長を会わせただけじゃないですか。申込書も回収してないし」

そう。そうだ。槙原社長は都筑との会話に夢中で、途中から俺たちのことなんて忘れていたに違いない。長く話したせいか都筑が疲労を訴えると、槙原社長自ら車椅子を押し、ここまで送ってきた。俺たちだけ社長室に残るわけにもいかず、一緒についてきたのだ。

「これがプレゼンなんですか? そもそもAAは、具体的なプランを提示していないじゃないですか」

「プラン?」

俺の言葉に、高橋が眉間にシワを寄せた。あんた何言ってんのよ、という顔だ。

「そ、そうですよ。プレゼンっていうのは、プランを提案するものじゃないですか。掲載媒体とかサイズをどうするのか、いつからいつまで掲載するのか、とか」

「違うわ」

俺の言葉を食い気味に、高橋はピシャリと言った。豊かな長い髪をかきあげ、見下すように俺を睨む。

「言ったでしょ。プレゼンで提示するのは、価値観よ。そして、その価値観に賛同するかどうかは、クライアントが決めること」

あ……と思う。価値観の提示。そうだ、確かに高橋はそんなようなことを言っていた。

思わず黙り込むと、高橋の隣に立つ室長が、いつものニコニコした顔で言った。

「あとは社長の判断に任せようじゃないか。きっと何かは伝わったはずさ」

「……そ、そんなに簡単に、あの社長が変わるとは思えませんけど」

苦し紛れに言うと、今度は保科が、スマホに視線を落としたまま言った。

「そりゃ簡単じゃないよ。だから俺たちにこの案件が回ってきたんじゃん」


駅に入ってしまうと、人の多さに、俺たちはほとんど会話することもできなくなった。

サラリーマンで満載の地下鉄に揺られながら、俺はぼんやりと考える。

営業とは何か。

そもそも、仕事とは何か。

プレゼンは価値観の提示だ、と高橋は言った。そして、それに賛同するかどうかはクライアントが決めることだと。

いまいちピンと来ないが、価値観という言葉をプランに、賛同という言葉を契約に変えれば、印象は変わってくる。

プレゼンはプランの提示で、契約するかどうかはクライアントが決めること。

そう考えれば、何もおかしなことなどない。当たり前のことじゃないかと思う自分もいる。

……だが、そうじゃない自分もいる。

本当に「当たり前」だろうか。プランを考え、それを提示し、契約するかどうかはクライアントに委ねる。俺は今まで、そういう営業をしてきただろうか。

違うような気がした。

俺がやってきたのは、プランを考えることでも、契約を相手に委ねることでもない。俺の頭にあったのは、「どうすれば契約がもらえるか」だけだった。相手がうんと言いやすいプラン、相手に気に入られるためのごますり、丁寧すぎるほどのお礼メール、相手の上司に宛てた手書きの手紙。それらすべてが、「契約」のためだった。

それが営業の仕事だ、と思っていたから。

地下鉄の車内、俺はぼんやりと、少し離れた場所にいるHR特別室の3人を見る。乗客でごった返す車内で、室長はあのゆるい笑顔でバスケットのシュートのような動きをし、それを隣の高橋がたしなめる。保科は我関せずといった様子で、2人に背を向ける格好でスマホに何かを打ち込んでいる。

営業とは何か。

仕事とは何か。

あの人たちと一緒にいると、それがわからなくなる。

高橋、保科、そして室長。以前の俺なら「頭のおかしい奴ら」で切り捨てたであろう彼らが、いま、俺を激しく揺さぶっている。


BAND JAPANからの帰り、HR特別室の面々と俺は、銀座線の新橋駅に到着した。

それにしても人が多い。金曜だからと言っても、午後三時過ぎだ。あるいは、夜の飲み会のために、皆急いで仕事に勤しんでいるのだろうか。

改札を出、SL広場の中ほどまで出た頃、室長が振り返って言った。

「さ、行こうかね」
「行くって、どこへですか」

俺の言葉に室長は怪訝な顔をして、「どこって、宴会だよ」と言った。

「は?」

宴会? なんだそれ。意味がわからない。だいたいまだ日がガンガンに照っている時間だ。

いいからいいから、と強引に歩かされ、ほんの一分ほどで目的地にたどり着いた。

「さ、到着だ」

そう言った室長が指差す先を見て、驚いた。

見覚えのある佇まい。そうだ。HR特別室での研修初日、保科の頭のおかしさを見せつけられた店、クーティーズバーガーだ。

状況が呑み込めない俺をよそに、保科が慣れた感じで扉を開け、中に入っていく。ガランガランという鈴の音。高橋と室長もその後に続く。俺も慌ててその後を追い、店内へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ!」

どこか聞き覚えのある声が聞こえ、すぐに奥から図体の大きな男が近づいてきた。

「あ……」

思わず言った。

「村本さん。お待ちしてましたよ!」

以前の雰囲気が嘘のような明るい笑顔、大きな声。あの時はおどおどした様子で話していた茂木は、まるで別人のようだった。

「え? あ、どうも」

「さ、こちらへどうぞ」

よくわからないまま席についたとき、カウンターの奥からもう一人の男が現れた。前回と服装が違うので一瞬わからなかったが、大きなジョッキに注がれた生ビール3つと烏龍茶を盆で運んできたこの人は、間違いなく社長だった。

あのときは背伸びした「意識高い系」の格好をしていた社長は今、茂木以上に年季の入ったエプロンに、頭にはこれまたくたびれたバンダナ、という出で立ちだ。

「今日は腕によりをかけて作りますよ。あんたたちには……感謝してるからな」

「……え?」

その時、ガランガランと扉の開く音がした。思わず振り返ると、見慣れぬ男女が店に入ってきたところだった。茶髪の元気の良さそうな若い女と、メガネをかけた真面目そうな小太りの中年男。

「おはようございまーす」

女の方があっけらかんとした様子で言い、俺たちの横を「いらっしゃいませ」とニコニコしながら通り過ぎていく。2人はそのままカウンターの奥へ進み、見えなくなった。その様子を嬉しそうに見ていた茂木がこちらに顔を向け、言う。

「先日採用した新人たちです。…しかも2人とも正社員で」

「新人? 正社員で? ていうかもう?」

さすがに驚いて聞き返した。原稿が出てまだ一週間も経っていない。ただでさえ採用が難しいと言われる飲食業界の正社員募集だ。この短期間で2名も採用できたとしたら、それは大成功と言っていい。

「2人とも、内定を出したその日から毎日出勤してくれてます。彼ら、クーティーズバーガーの味を本気で学ぼうとしてくれてるんです。こっちが驚くくらいの熱意を持って」

「そうなんですか……」

半ば呆然としながら答えると、社長がどこか照れくさそうに言う。

「思った以上にたくさん応募が来たもんだから、俺も茂木も、浮かれちゃってな。エントリーシートをずらっと並べて、こりゃじっくり選べるな、なんて言ってたんだ。……でも、保科さんに怒られちゃって」

「え?」

「あんたらが一緒に働くのはエントリーシートじゃないんだ!そんなもの眺めてる暇があるなら1秒でも早く会え!って」

皆の視線が保科に集まる。保科はちょっと肩をすくめて見せる。

「でも、本当にその通りでした」

茂木が話を継いだ。

「僕らが店のことで悩んでたのと同樣、求職者のみなさんも、それぞれがそれぞれの悩みを抱えながら就職活動をされてるわけですよね。僕らも人間で、彼らも人間。そんな当たり前のことを僕らはずっと忘れていた。そういう視点でエントリーシートを見たら、受ける印象が全然違ってきまして」

「印象、というと?」

「ええ。今までってとにかく年齢とか経験しか見てなかったんですよ。でも、その人の人柄とか熱意とか、そういうものが伝わってくるエントリーシートの方が、ずっと魅力的に見えてきて。そういう基準でこれぞ、と思う人にすぐ連絡しました」

「最初に連絡した2人が、さっきの2人だよ」

社長が言い、嬉しそうに目を細めた。

「茂木の言う通り、彼らの熱意はすごい。だから彼らが入った日から、私もこうしてできる限り現場に入ることにしたんだ。彼らに教えたいことがいっぱいあるし、それに、なんていうんだろうな、彼らに教えることで私が学ぶ部分もある。……本当に今回のことで、私は目が醒めたよ。まったく、保科さんには頭が上がらない。こうしてお店も使ってもらってるし」

そうだった。俺は思い出して、誰に言うでもなく聞いた。

「ていうか、どうして僕ら、ここに来てるんです? ビール運ばれてきてるし。まだ3時過ぎですよ?」

今度は茂木が驚いた顔をして俺を見た。

「知らなかったんですか? これ、村本さんの送別会ですよ」


HR特別室の3人は相変わらずだった。

俺の送別会だと言いながら、俺に関係のない話をベラベラと話し、そうかと思えば高橋が俺を“僕ちゃん”とからかってみせたり、室長は急に立ち上がってバスケットのシュート練習(もちろんエアーだ)を始めたり、保科に至ってはその場でスマホのRPGゲームを始めやがったりする。だが――

なんだろう、これは。

社長が次々運んでくるビールを半ばヤケになって喉に流し込み、茂木が開発したというフィッシュバーガー(これは社長が初めて「悪くない」と認めてくれたものらしい)を頬張っている間に、俺は妙に感傷的な気分になっていったのだった。

送別会、だと?

社会人になってから、この手のイベントごとは何度もあった。新卒で入社してすぐに歓迎会があったし、3ヶ月の決算ごとにチームや部の打ち上げがあったし、何なら週1回2回という頻度で上司のつまらない説教を聞くために居酒屋に連れて行かれたりした。

それがサラリーマンとしての務めであり、一つ一つの飲み会に意味がなかろうが、長い目で見れば、こういう文化に馴染めない人間が出世することはない。そう考えて、イヤイヤながらも我慢して参加してきた。

……そう、俺はずっと我慢してきた。

飲み会だけじゃない。

俺は本当は、いろんなことを我慢してきた。

満員電車に乗って通勤することも、客や上司からの理不尽に耐えることも、売上目標を勝手にどんどん上げられることも、そして、仕事の過程にやりがいや喜びを感じられないことも、俺は「サラリーマンだから仕方がない」「まだ新人だから仕方ない」と我慢し、そして諦めてきた。

だが、どうだ。

このおかしな部署のメンバーたちは、何も我慢などしていない。好きな時間に出社し、目上の企業の社長にも啖呵を切り、売上目標どころか自ら売上を捨てるようなことばかりする。

しかし――

そう、しかし。

俺はこの人達のように、自分の仕事に「プライド」を持って取り組んできただろうか。

金になるかどうかもわからないのに、馬鹿みたいに本気になって取り組んだことがあっただろうか。

ふと気がつくと、高橋が俺をなにか言いたげに見ていた。

「な、なんですか」

「僕ちゃん、来週からは、営業一部のメンバーに戻るわけね」

すると室長も話に入ってくる。

「営業一部と言えば、我が社のエリート部署だものな。すごいよね、ええと……」

「……村本です」

何度目かわからないこのアホくさいやり取り。

そこに、さっきの新人店員が追加の料理を持ってくる。茶髪の若い女。まるで大切な壺でも運ぶような慎重さで、キレイに盛り付けられたポテトフライを皿にそっと置く。

「これ、私が揚げたんです。何十回と練習して……でも、何か違和感あったら教えて下さい。次から絶対に直しますんで!」

こちらが引くくらいの眼力で言う。ふと見れば、カウンターの中では茂木と社長が、恐らくは自分より年上だろう中年男に、真剣に何かを教えている。中年男も、額に汗をびっしりかきながら、真剣にそれを聞いている。

……なんだよ。

……なんなんだよ。

こいつらに比べて……俺は。

こんなんで……俺はこんなんでいいのかよ。

「あの」

気がつくと言っていた。理性が、というより、本能が叫んだような感じだった。

「……俺、もう少しここにいちゃダメですかね」

おい。

何を言ってる。

「もう少し、HR特別室にいちゃダメですかね」

バカな。

頭でもおかしくなったのか。

だが、言葉は止まらなかった。

「俺、ここに来て、なんかいろんなことがひっくり返されて、最初はなんだこれって、みんな頭おかしいんじゃないかって思って、いや、今でもちょっと思ってますけど、でも、でも、何か掴めそうなんですよ。だから、もう少しここで、皆さんと一緒に仕事しちゃ、ダメですかね」

酔いすぎだ。

何を言っている。

思わず俯いた。早くも後悔が襲ってくる。だが……だが、何も間違っていないとも思うのだ。

俺は事実、そう感じていた。来週の月曜、何事もなかったように営業一部に出勤する自分を、想像できなかった。

たった一週間だ。たった一週間、彼らと過ごしただけなのに。

……ちょっとした沈黙の後で、高橋のふっという笑い声が聞こえた。

視線をあげると、いつになく嬉しそうな高橋の顔。

「ダメよ」

「……え?」

「ねえ?」

そう言って高橋は保科を見る。保科はスマホをテーブルに置き、俺の方を見た。

「ダメに決まってんじゃん」

「そんな……」

助けを求めるように室長を見る。室長はいつもの呑気そうな笑顔だ。だが、その口から放たれた言葉は、俺の頭の中にずっと残るものになった。

「君は帰る。それが大事なことなんだ」

「……」

「だけど、営業一部に帰る君は、一週間前の君とは別の君だ。私たちとの仕事を通じて君が何か変化をしたのなら、そしてそれを自分で大切だと思えるなら、君はその変化をほかの誰かに伝えていかなければならない。鬼頭部長がなぜ君をここに送り込んだのか、送り込まれた人間として、君はそれを本気で考える責任があるんだよ」

「やだ、ちょっと良いこと言うじゃない」

高橋がちゃかしながら、手元のビールジョッキを手にとった。隣の保科も、烏龍茶を手に持って掲げる。

「別にどこで働こうが、君はもう、HR特別室のことを忘れることはない。そうだろ?」

そう言って室長もジョッキを持ち上げた。

俺は三人の顔を見回した。その目に、俺をバカにするような色は一切ない。

こみあげてくる感情を奥歯で噛み締めながら、俺もジョッキを持ち上げた。

「乾杯!」

室長の声が響き、次の瞬間、グラス同士が重なりあう高い音が響いた。


【エピローグ】


HR特別室での“研修”が終わった翌週の月曜、俺はどこかぼんやりした心地で東京駅に降り立った。

駅から徒歩数分の巨大なオフィスビル。BAND JAPANのあった六本木のビルに勝るとも劣らない大きなエレベーターで上階に向かい、一週間ぶりに営業一部のオフィスに向かう。

その立派なエントランス、広い廊下、今風の設えを前に、思わず苦笑いが浮かんだ。

雑多な新橋、飲み屋街ど真ん中の雑居ビルにあったHR特別室とはまるで別世界だ。

もちろんここには、オフィスのど真ん中に真っ赤なソファが置かれていることもなければ、そこでぐうぐうイビキをかく室長の姿もない。

一週間ぶりに戻ってきた“職場”だ。

さすが営業一部というべきか、始業まで1時間近くあるのに、既に大勢の社員が出社してきていた。だが、俺はすぐに、違和感を覚えた。

多いどころじゃない。ほとんどの席に社員が座っている。

それに、普段なら黙々とPCの向かっていることの多い彼らが、なぜか一様に電話で話している。話し終えて受話器を置いたと思えば、すぐに新たな番号をプッシュする。

――テレアポしてるのか?

テレアポというのは、新規顧客獲得のための営業電話のことだ。社名と連絡先の書かれたリストに沿って手当たり次第電話をかけ、「求人のご用命はありませんか」と営業する。

当たり前だが、話が進むことは稀だ。10件に1件興味を持つ会社があればいい方で、100件以上かけて成果ゼロということも珍しくない。

客単価が低く、日常的にクライアントが入れ替わり続ける営業三部のようなチームでは、頻繁にこういうテレアポの時間を設けていると聞いた。だが、クライアント数が少なく、一社あたりの単価が大きい営業一部では、これまでほとんどテレアポをしてこなかった。

営業一部らしからぬ風景を不審に思いつつ自分の席まで行くと、隣であの島田までもがまじめくさった顔で電話をかけていた。

いつもの間延びした大声ではなく、なんとなく淡々とした、疲れたような口調。

そういえばこいつ、テレアポが大の苦手だと言っていたっけ。

そりゃそうだ、と思う。こいつのように一社一社に全力を尽くし、結果紹介をもらってクライアントを広げていくタイプの営業は、こんな無差別爆撃のような営業は合わないのだろう。

「はあ……そうですよね、はい、失礼しました」

ため息混じりに受話器を置いたタイミングを見計らい、声をかけた。

「おい、島田」

それで俺がいることに初めて気づいたらしい。島田は一瞬眠たそうな表情で俺を見上げ、そしてすぐに破顔した。

「あ、村本くんじゃない! 久しぶり〜」

いつもの呑気な顔に戻って言う島田にどこかでホッとしつつ、声を落として言う。

「これ……何やってんだよ、皆」

「何って、テレアポだよテレアポ」

「いや、それは見りゃわかるけどな。なんでウチでテレアポなんてやってんだ。しかもまだ始業前だろうが」

「そうなんだよねえ」

島田はまたため息をつき、そして、周囲の目を避けるように身体を縮ませる。そして手元に手を添え、言った。

「こないだ電話で言ったでしょ? 先週ビッグSが立て続けに落ちたって」

ああ、と思う。確かにそういう話を聞いた。

「それで先週の金曜、上層部とマネージャーが集まって緊急会議さ。で、今日から全体でテレアポタイムを設けるってことになって。落ちたSの代わりに新しい取引先を見つけようってことだね」

「そうだったのか」

「それに、アポ数を増やせっていうんだよね。1日最低3件回れとか、1件の商談は最長1時間までとか、そんな話もチラホラ出てきててさ。効率を上げろ、生産性をあげろって、もうすごい鼻息だよ」

確かに、理屈は間違っていない。顧客が減ったなら、それを増やす努力をするのは当たり前だ。

だが、なにか強烈な違和感がある。その違和感は、エリート部署の営業一部がテレアポをする、ということに対するものではないように思えた。

「それ……なんかおかしくねえか」

ボソリと言う。

「うん、僕もそう思うんだけど、でも――」

「おい! 何サボってんだ」

どこからかそんな声が聞こえ、見れば俺と島田の上司である岡本リーダーがすごい形相でこちらに近づいてくるところだった。あっという間に俺たちのそばまで来ると、島田の肩口を乱暴に掴む。

「おい! 無駄口たたいている暇があるなら電話しろよ!」

「あ……すみません」

声を荒らげられた島田は怯えた表情で言い、受話器に手を伸ばした。ドラえもんのような丸っこい手で、リストにある電話番号をプッシュする。俺がその様子を黙って見ていると、岡本は「村本、お前ちょっとこっち来い」と奥の会議室の方を顎で示した。

会議室に入るやいなや、岡本は言った。

「村本、お前は先週いなかったから知らないだろうが、今日から毎日、朝に2時間、テレアポをすることになったんだ」

「……はあ」

「お前も明日からは参加しろ。わかったな?」

それだけ言って部屋を出ていこうとする岡本を、「あの」と呼び止めた。

「……なんだ」

「テレアポって……そんなことより先に、見直すべきところがあるんじゃないですか?」

思わず言った俺に、岡本は信じられないという表情を見せた。やがてその顔は怒りの色に染まっていった。

「何言ってやがる。この状況は、お前がM社から切られたことだって原因の1つなんだぞ! お前の尻拭いを皆でしているのに、他人事みたいに言うな!」

岡本はそう言い放つと、心底憎そうに俺を睨み、乱暴に扉を開けて会議室を出ていった。


一人部屋に取り残された俺は、そのままぼんやりと立ち尽くした。確かに、今の発言はまずかった。岡本が怒るのも無理はない。実際、俺のM社の一件がキッカケの一つになってしまったのだろう。

だが、俺の心は妙に静かだった。あんな風に怒鳴られ、睨まれたのに、何の動揺もない。

もちろん新規開拓というのは大切なことだ。AAを知らない相手に、自らの存在を知らせることには大きな意味がある。

だが、今オフィスから電話をかけている人間のどれくらいが、「相手に価値を提供しよう」と心から考えているだろうか。

自分もそうだったからよくわかる。俺たち営業マンの頭にあるのは、「契約を取って、自分の営業目標を達成すること」だけなのだ。

そんなスタンスの人間がいくら電話をかけまくったところで、根本的な解決にはならないのではないか。

仮に新たな客が見つかったとして、俺たちが本気で彼らに向き合うことができなければ、きっと遅かれ早かれ、ウチとの取引は停止されてしまうだろう。

――本気。

自分の中から、その言葉が自然と出てきたことに、驚きを覚えた。

本気。

本気の提案。

1週間前の俺には、その言葉の示すものが何なのか、さっぱりわからなかった。

だが、今は――

頭の中に、新橋の雑居ビルに集まる、“頭のおかしい先輩たち”の顔が浮かんだ。

あの人たちなら――

あの人たちなら、どうするだろうか。

そんな風に自問していると、さっき岡本が出ていった扉が再び開いた。

入ってきたのは――1週間ぶりに見る、イタリアマフィアだった。


鬼頭部長はスタバのコーヒー片手に、どこか物憂げな表情で中に入ってきた。俺に向けて肩をすくめてみせると、「こんな騒がしい営業一部は初めて見たな」とこめかみを掻く。

「部長の指示じゃないんですか。このテレアポ施策は」

「まあ、なにか対策を打てと指示したのは俺だ。……ちょっと強く言い過ぎたのかもしれん」

そう言って鬼頭部長は扉を振り返る素振りをする。

そして俺を改めて見ると、「どうだ、久しぶりの東京は?」と聞いてくる。

「……新橋だって東京ですよ。山手線でたった2駅です」

「ほう。意外な答えだ。“意識高い系”筆頭の言葉とは思えん」

今度は俺が肩をすくめる番だった。鬼頭部長は愉快そうに目を細め、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。

「――で? どうだった。HR特別室での“研修”は」

「……わかりません」

俺は正直に答えた。

HR特別室で過ごした1週間が、俺の何かを変化させたのは事実だろう。だが、それが何なのか、どんな意味を持つのかは、俺自身にもまだわからない。

「ただ――」

「ただ?」

俺は小さくため息をついた。それはある種、自分の敗北を認めた証拠のように思えた。自分、そう、これまでの自分の敗北。

「部長の仰っていた通り、HR特別室は甘くありませんでした」

「……そうか」

そう言ってしばらく間を置いた鬼頭部長は、何気ない風に言った。

「延長を申し出たそうだな、研修の」

誰かが話したらしい。室長か、高橋か――。

だが、事実だ。酔った勢いもあっただろうが、俺は、HR特別室に留まることを望んでいた。

「はい」

「だが、断られた」

「でも、今はそれでよかったんだと思ってます」

俺は先ほど見たオフィスの状況、そして俺を怒鳴りつけた岡本の様子を思い出しながら、言った。

「ほう、なぜだ」

「室長に言われたんです。僕の中に起こった変化を、職場に持ち帰って皆に伝える責任があるって。その時はよくわからなかったんですが、ここに戻ってきた今は、なんとなくわかるような気もするんです」

「皆に伝える、か。お前は一体何を伝えると言うんだ、AAのエリート共が集まる営業一部に?」

「……それはまだわかりません。でも、例えば今朝から皆がやってるテレアポですが、あれはあんまり意味がないんじゃないかとか」

「言うじゃないか。だが、今はそれくらいに切羽詰った状況だとも言える。テレアポの代わりに、お前は何をするんだ?」

鬼頭部長にそう言われたとき、当たり前のように、俺の頭の中に一つの答えが浮かんだ。

「クライアントに会いに行きます。そして、理解しようと努めます」

「これまたお前らしくない答えだな。それで売上が上がるか?」

「さあ、それはわかりません」

「……」

「ただ、売上を上げるためだけの提案なんて、これからの時代、通用しない気がするんです。クライアントは僕たちに、そんな提案は求めていない」

俺の答えに、鬼頭部長がニヤリと笑った。

「そうか。わかった。……じゃあまあ、よろしくな」

俺は一礼して、鬼頭部長の前を通り過ぎた。扉に手をかけたとき、ふと思い出して振り返った。

「部長」

「ん、なんだ」

「志望動機を聞きましたよね、この間」

「ん、ああ。そうだったな。思い出したのか?」

「いえ、それは相変わらず思い出せないんですが」

そして俺は言った。

「でも、もし就職活動をやり直せるとしても、僕はまたこの業界に入る気がします」

「……そうか」

強面の鬼頭部長が嬉しそうに笑い、行け、と手で示した。

俺は頷いて扉を開け、皆が暗い顔でテレアポを続けるオフィスへと進んでいった。


#創作大賞2024 #お仕事小説部門


いいなと思ったら応援しよう!