
円錐ばかり眺めていたら、いろいろ落書きしたくなって、noteに再々入会(3度目の自己紹介)
人生は積み重ねだと誰もが思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身も無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
◆
もうそろそろキャリアを変えたいと決めてから、覚えたけどいらない知識や情報を減らす作業に入った。紙メディアは断捨離し、電子メディアもだいぶ制限した。
キャリアを積み重ねるための転職ではない。
窮屈になった自分を変えて、「自在さ」を得たい。
そこで、ここ数年キャリアの基盤にある足し算思考の中に、徐々に引き算思考を足していく、という論理的には矛盾に見える作業を始めた。
言葉の上で矛盾するくらいが、新しいことに手を伸ばせる。
言葉で考えれば、行動も保身の範囲に留まるだけだ。
ここがルビコンだ。さあ飛べ !!! (Salto mortale:論理の飛躍)
そんな動機で数年前、引き算思考を導入する実験場としてnoteを選んだ。
そして、退会を繰り返すことにもなった。
1回目のnote入会時に、今まで見聞きした知識を吐き出そうとした。が、どこか自分の言葉をフィードバックして言葉の中で堂々巡りしていることに気づいて嫌気がさしてきた。言葉を積み上げてまた自分を足し算思考に戻そうとしていた。ので、退会した。
2回目の入会は体調を崩した後だった。マインドフルネスやプチ断食等引き算思考を生活に取り入れながら、体から引き算する心身断捨離を試みようとした。が、続けていく過程で体調が回復し始めた。すると、言葉の堂々巡りがまた始まった。ので、再退会した。
その後、心身断捨離の効果は新たな体の不調の形で現れた。減量したぶん筋肉量も減少し、腰を中心に不調が続く。そこから体の調子と付き合って筋力をアップしたり姿勢を修正する技法を模索する日々が始まった。
苦しいが、そんな自己内対話をしながら自分を複数化する時間を持てたのは不幸中のなんとやらだった。
というのも、自分が一つにまとまらないと足し算思考は前に進まないからだ。足し算思考を制限するちょっとしたコツを見つけた。
◆
再退会後、思い立って、学部時代熱中して読んだが未消化だったジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー』の英訳版と邦訳版を打ち込んだ。それから打ち込んだ日英版を並列させて、フランス語版原書と対応させるためのノートも作った。
(コロナ禍にはグレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』の邦訳版を全文PCに打ち込んで英語原書を読む際のノートを作った。その後、文庫版が出て修正する作業も含めて、ただ読むよりも楽しい体験になった。ので、そんな記憶も後押ししてくれた。)
一方、この間PCに打ち込む時間が格段に増えたことが、結果的には筋肉量の落ちた体にダメージを与えるきっかけにもなった。
が、文字を打ち込みながら、タイプする音や文字の流れや澱みに沿って指や眼球を動かし、呼吸している自分を感じられた。座ったまま音楽を奏でるような時間を体感できた。
一方、『千のプラトー』が奏でる音楽は一つの図を思い起こさせた。
アンリ・ベルクソン『物質と記憶』中の記憶の円錐(逆円錐)図である。
ベルクソン研究者だったドゥルーズの考えの片隅に(または基盤として)あったかもしれないと思うほど、『千のプラトー』を読み進めるたびに頻繁にこの円錐図が脳裏に浮かび上がり、躍動した。

1.円錐の底面ABは純粋過去と呼ばれる。言葉になった記憶が過去になって長期的にアーカイブされる場所だ。思い出される記憶の断片はここにとどまっている。このとき体は座っているか立っているか、静止した姿勢になっている。
2.下に行くにしたがって円錐の幅が小さくなるのは、言葉にならない記憶が増えるからだろう(A’B’やA’’B’’の面)。この辺は言葉になりづらいイメージが多い短期的な現在の記憶だ。このとき体は歩いているか、軽い運動をしているか、変化する環境の中にある。
3.そして円錐の頂点Sが来る。言葉にならない瞬間瞬間の今ここの記憶の場所だ。このとき体は懸命に走っているか、飛んだり跳ねたりしているか、滑って転んでいるか、パニック的危機の中にある。
4.Sが触れる平面Pは「可動平面」と呼ばれている。人間に見立てるならこの逆円錐は可動平面を歩いたり走ったり、滑って転んだり、跳ねたりしている。走っていると長期なAB面から降りて瞬間的なSに近づき(「収縮」)、座っているとSから上昇してAB面に近づく(「弛緩」)。
全力で走ったり転んだりするときは昔のことは思い出す暇もなく、座っていると何かを思い出しがちになる。
マインドフルネスをしたりウォーキングをしながらそんな自分の傾向をコントロールするようになって、さらにこの図を頭の中で動かしてみる。
すると、徐々にその動きを体感に連動できるようになってきた。
◆
この図を頭と体でシミュレートして動かしながら、『千のプラトー』を打ち込んだ後、引き算思考を身につけようとする最近の自分は、円錐の頂点Sに向かいたいのだろうと解釈するようになった。
そのきっかけは、円錐図のAB面だけで進むかのようなデータ至上主義のIT社会の中でもがく自分の頭に対して、不調のたびに主張してくる体が抵抗を始めたというところにありそうだ。
ともあれ、体の不調を契機に、マインドフルネスとウォーキングを通して自分の体と付き合うようになって以来、健康情報が氾濫する現代社会を病者の側から距離をとって見直す習慣がついた。
その後、ベルクソンの円錐図への興味はアインシュタインの相対性理論を見事な図で表わしたミンコフスキーの光円錐を経て、荒川修作の「ダイアグラム」へと変奏していくのだが、ここではその図だけを挙げておく。
(ベルクソンはアインシュタインに「私はあなたと同じことを考えている」という趣旨のことを言ったそうだ。が、アインシュタインは首を傾げたという。このことは後にここでの落書きのテーマに取り上げるかもしれない。)

引き算思考をベルクソンの円錐図に重ねて点Sへ向かったり、円錐の中を動き回ったり(弛緩⇆収縮)、この図自身を変形しようとした人たちをめぐる落書き的断片をnoteに放り出してしまおう。
以上のような意図から、この落書き的な自己紹介は書かれた。
(今回はまだ以前書いた記事のスタイルが指先に残っている。が、体が長い文を書かないようにと警告するので、以後は1時間以内で書ける断片程度のものを目指したい。目標は点Sにあることを念頭に「沈黙」に設定、書く姿勢も円錐図を巡る落書き程度にとどめたい。)
◆
思い返せば、引き算思考を身につけようとし始めた頃から少しずつ現代アートに何度目かの再会を果たしていた気がする。
(その後現代アートからダ・ヴィンチの手稿群にも手を伸ばしてみた。この点も、彼の手稿や作品にある乱流や螺旋の図について落書きしてみたい。)
今なら思う、岡本太郎はベルクソンの逆円錐の頂点Sに飛び込んで、「ほんとうに生きること」や「いのちの分厚さ」を「瞬間瞬間に新しく生まれ変わる」こととして体感し、自らの表現の姿勢をセットアップのだろう、と。(冒頭の引用を参照)
岡本はナチスのパリ侵攻をきっかけに日本に帰国し、戦後すぐ縄文に魅せられたという。
人間のいいように環境を支配する足し算思考が人間同士にも及び、世界戦争として実体化した。
そんな時代に、岡本は自然の動きに相応して生きる縄文人の「生きること」を、引き算的に「生きること」の実践的表現としてアートの中に招き入れたのかもしれない。
そういえば、人類学者クロード・レヴィ=ストロースはベルクソンを「書斎の中の野生人」と評したとか……
まあ、そんなことはどうでもいいのだ。
※今回参照した本
※見出し画像は、左からベルクソンの逆円錐図、ミンコフスキーの光円錐、荒川修作「ダイアグラム」(少し縦長に変形を施してある)