レース ー 魔法のステッチ ー その3
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
レースの正体、そして更なる疑問
ー 十数年の時を経て
留学から帰国して何年かののち、海外出張が一年に3回ほどある企業に勤めていた時に私のレースに関する知識は益々深まっていきました。
出張先には毎回パリの他、ロス・アンジェルス、ニューヨーク、アントワープ、ブリュッセル、フィレンツェ、アレッツォ、シエナ、ロンドンなど、アメリカやヨーロッパの様々な街がありました。
ロンドンに滞在する際はいつも必ずヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に足を運びました。この博物館が所蔵するレースはとても素晴らしく、引き出し型の展示ケースを時間も忘れて眺めたのを今でも覚えています。
また、フランスのル・マンのアンティークフェアで知り合った男性ディーラーは実店舗を持たずフェアなどのイベントでのみで販売をされていたので、出張のたびにパリ郊外にある彼の自宅を訪ねては色々なレースを見せていただきました。彼から購入したもののなかには非常に珍しいレースも含まれています。
スウィフト一家も事前に連絡を取り彼らのロンドンの邸宅にお邪魔してレースを直接購入させていただいたりと、私のコレクションはこの間も増え続けていきました。
同時期にSNSのmixiに招待され、このサイトでアンティークレースのコミュニティーを立ち上げてレースについて書かせていただいたりもしました。今から思えば俄か知識でお恥ずかしい限りですが、今でもこのコミュニティーをご覧いただいていたとお話しくださる方もいらっしゃり私なりに嬉しい繋がりとなっています。
ポワン・ド・フランスではなかった
ーレースの名称
長らく、紙ラベルのポワン・ド・フランスという名称とこのレースとの相関性がよく判らず疑問と探究を深めてきたのですが、mixiでのコミュニティー投稿や私自身のコレクションの鑑別のため、年齢を重ねるに合わせ多くの資料や海外の書籍を調査する機会も増えていきました。
そのなかで、ポワン・ド・〜というような名称の意味するところ、このフランス語のポワンpointとは英語ではポイントのことで、ステッチを意味します。イタリア語ではプントpuntoといい、これも同じ意味です。ポワンはステッチを意味すると同時にニードルレースを表しています。一部例外はありますがポワンは針で製作されたレースに対して使用されることを知りました。
ポワン・ドのあとに生産地やレースを生み出した地域をつけて呼ぶのが一般的で、ポワン・ド・フランスはフランスで作られた、創出されたレースを意味しているのです。
では、このポワン・ド・フランスとは、一体どのようなレースなのでしょうか?
通説では、17世紀にルイ14世(在位1643年-1715年)の勅令により1665年に国王の財務総監ジャン・バティスト・コルベールの主導の下で、フランス各地に設置された王立レース製作所において考案するよう下命されたフランス独自のレースを指します。当初はニードルレース、ボビンレースやそのほか様々な技法で開発するよう国王から求められ、これらのフランスで生み出された他国の製品を凌駕するレースに対しポワンクト・ド・フランスpoinct de Franceと国王が命名し、のちにニードルレースのみに使われるようになりました。
ポワン・ド・フランスには特徴があり、このレースにはグラウンド(レースの背景にあたる部分)にボタンホール・ステッチによるブリッド・ピコテbride picotéeと呼ばれるピコット飾りのついた六角形のバーが使われるとされます。ブリッド・ピコテをもつレースのみが慣例的にポワン・ド・フランスと分類されているのです。
(※ブリッドは英語のバーと同義で、モチーフ同士を繋ぎ合わせるバー状のステッチ。当時はまだメッシュは開発されていなかった)
私のレースのグラウンドには、ピコット装飾のない六角形のブリッドと、もっと複雑なステッチの装飾がまばらに充填されているのです。
知識を深めれば深めるほど、このレースはポワン・ド・フランスではないのではないか?という思いも深くなっていったのでした。
ー アルジャンタン・レース【Point d'Argentan】
18世紀のニードルレースで、ボタンホール・ステッチによる六角形のピコット飾りのないブリッド(フランス語で、メッシュを意味するレゾーよりも大きな繋ぎステッチ。バーと同義語)は一般的にアルジャンタンと呼ばれています。
これは19世紀のレース研究の黎明期に、その時代の研究家がノルマンディー地方の街アルジャンタンで考案されたレースとしてポワン・ダルジャンタンに帰属させたことにはじまり、今でも慣例的にアルジャンタン・レースとしているのです。
私のレースは、果たしてアルジャンタン・レースなのでしょうか。
アメリカのクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館の所蔵するコレクションにこのレースと似たデザインのニードルレースがあります。アメリカの著名なレースコレクターのRichard Cranch Greenleafリチャード・グリーンリーフ(1887-1961)が、1950年に同館に寄贈したものです。
これはグラウンドが非常に変わっている珍しいタイプのレースで、アルジャンテラと呼ばれています。グラウンドを複雑な装飾ステッチで充填したニードルレースの一種で、博物館の鑑別では18世紀初期のフランスのニードルレースとしています。
最近の傾向なのですが、以前は重要視されていたレースの生産地の特定や確定的な名称への帰属などが見直され、博物館や美術館の学芸員の考え次第ではあるのですがより可能性を広範に持たせた表現に変わってきています。【 18世紀・ヨーロッパ 】のように、フランスとか、イタリア、のように国名を明示しない美術館すらあるのです。
私もアンティークレースを長年蒐集していくなかで、同じようなレースでもその糸の番手の違い、質の相違、ステッチの微妙な差異、緻密さや表現の違いなど、それまでは職人の技量の差異が生み出したものだと認識していたのですが、ある特定の生産地でのみその種のレースを製作していたわけではないと考えるようになりました。きっとレースに名称を冠された街以外の地域でも、同様のレースを製作していたのではないか?という漠然とした考えが私のなかで育っていったのです。
広くヨーロッパ諸国に流通網が開拓されていた18世紀当時、その技術や技法は秘匿できるものではなく、18世紀前期にはフランス王国とは敵対関係にあったオーストリア系ハプスブルク家の支配地であるブリュッセルのレース商でさえパリに赴き資料としてレースを購入したり、またヴェルサイユ宮廷にレースを流通させていたりしていました。
レースの鑑別、鑑定とは
ー レース研究の歴史
レースの研究がはじまったのは、おそらく最初の万国博覧会がロンドンで開催された1851年以降のことです。この博覧会の展示のために古いレースが収集されて、のちにサウスケンジントン博物館(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の前身)に収蔵されました。
この収蔵をきっかけにレース研究がはじまり、19世紀後期には体系的にレースの種別や歴史を紐解く書籍がイギリスで出版され、のちにはヨーロッパ諸国でも研究書が出版されるようになります。
貴族の家系などに所有されていたレースが蒐集家のコレクションへと加えられ、20世紀の初頭にはアメリカなどの新興国の富裕層もコレクションを拡充させていきました。
戦後、アンティークレース蒐集が一般にも行われるようになると、アンティーク・ソサエティや個人の研究家が蒐集家のために鑑別や鑑定の指針となるような実用書を次々と刊行していきました。これらのレースに関する著作が重ねられるなかでレースの鑑別が重要視されていき、その名称や鑑別・鑑定の規範が固定化、慣例化したためにそれは大きな弊害をもたらしました。
レースそのものの素晴らしさ、技術の驚異的な高さ、デザインの美しさ、ステッチの緻密さ、直感的に感じる感動的な、技法の粋を集めたレースのもつ普遍的な崇高さに目を向けるのではなく、人々はそのレースの生産地や鑑別に重きを置くようになってしまったのです。
ー 私のレース
今回、私にアンティークレースとの出会いを与えてくれたニードルレースを記事として取り上げたのはアンティークレースを蒐集されている方やご興味のある方、アンティークレースをお好きな方に私の経験談をお話しすることでレースを本来の正確な生産地や、詳細な年代を鑑定し種別することは不可能に近いということをお伝えしたかったのです。
私のレースはどこで作られたのか? それは今となっては正確には判らないのです。しかし、少なくとも亜麻糸で製作されたニードルレースで、そのデザインやステッチの様式から18世紀前期の1725年頃から1730年代にかけて製作されたことだけは判ります。
アルジャンタンと呼ばれるレースに相似する箇所も多く、アルジャンタン様式とかアルジャンタン・タイプとでも呼ぶべきなのかもしれません。
しかし、最も大切なことはこのレースは若かりし頃の私にその素晴らしさで驚きを与え、魅了し、断続的ではあるにしろ30年近く興味を失わせることなく蒐集を続けさせるという、人生を変えるような大きな存在となったということです。
レース -魔法のステッチ- おわり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?