黄金時代のオランダのレース ー 小さな貿易大国 ー その2
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
肖像画とレース
ー 丹念に描かれたレース
17世紀の北ネーデルラントでは、宮殿や教会を飾る巨大な歴史画、神話画や宗教画よりも、日常のありふれた情景を描いた風俗画や、「死せる自然」と呼ばれた静物画や花瓶に活けられた花卉を描いた植物画、そして肖像画が人気を博しました。
これらの絵画は商人の邸宅を飾るのに相応しい題材と考えられていました。風俗画や静物画の大きさも、個人宅に飾るのにぴったりなサイズだったんですね。
なかでも、肖像画を当代の巨匠に描かせることは裕福な商人たちのステイタスとなっていたのです。【 オランダの黄金時代 】と言えば、レンブラントやフランス・ハルスに代表される肖像画を思い浮かべる方も多いですよね。
当時のネーデルラントのレースには、爆発的に人気のあったチューリップがデザインに取り入れられているんです。現代人には想像もつきませんが、チューリップは投機目的にその球根が高値で取引され、やがて人々は【 チューリップ・バブル 】に熱狂することになりました。
フランドル製のスカラップのボビンレースは、主に衿やカフスを縁取るために使用されました。『三銃士』にも描かれているように、チャールズ1世時代、ルイ13世時代にはとくに人気の高いレースでした。
イギリス国王チャールズ1世の宮廷画家として知られたAnthony van Dyckアンソニー・ヴァン・ダイク( 1599-1641 ) が描いた肖像画に、このタイプのレースが数多く見られるために【 ヴァン・ダイク・レース 】と呼ぶこともありますが、これは近代になって名付けられたものです。
17世紀当時にそのように呼ばれていたわけではないので留意してください。
肖像画に描かれたレースと瓜二つのレースがこのように数多く、私のコレクションのなかにも見つけることができます。
経済的に豊かであった当時の連邦共和国の商人たちにとっても、フランドル製のレースは非常に高価なものだったようで豊さの象徴としてのレースを自分たちの肖像画のなかで丹念に描かせました。レースは彼らの経済力を他者に知らしめるアイテムとして、その効果が重要視されたからなのです。
依頼主のレースを絵筆で表現する画家へのリアリティへの要求により、17世紀のネーデルラントの富裕な人々がどのような装いをしていたのかを今日でも私たちは知ることができるのです。
【 オペーク 】 と 【 牡丹の花 】
ー オペークと呼ばれるレース
17世紀後期のネーデルラントでとても人気の高かったボビンレースがあります。それは【 オペーク 】(Opaque) と呼ばれています。
オペークとは「朦朧とした」というような意味なのですが、1660年ごろから1670代にかけて流行しました。微細なモチーフでびっしり埋め尽くしたようなデザインの不思議なレースです。
【 オペーク 】のレースはフランドルや連邦共和国などを中心に流行しましたが、残されているものが少ないのです。しかしそれに比例して資料的な価値が高いために、博物館・美術館やコレクターの蒐集の対象となっているので日本ではあまり見かけないレースのひとつとなっています。
華やかさもなく、一見すると地味なので知識が無ければ販売のための仕入れは難しいですよね。それもあってか、日本のディーラーが買い付けに二の足を踏むレースのひとつでもあると思います。
非常にマニアックですが、実はすごく価値をもったレースなんです。そして、私は個人的にとても好きなレースなんですけどね。
ー 【 Dutch Lace 】ダッチレース
この不思議な楕円の塊のようなモチーフのボビンレースは、一般的に【 ダッチ・レース 】と呼ばれています。
グラウンドには、現代の私たちが「ポワン・ド・パリ」や「キャット・ステッチ」と呼んでいる六芒星を繋ぎ合わせたようなステッチが使われるのが特徴です。このステッチは当時「フォン・ド・パリ」「フォン・シャン」「フォン・ドゥーブル」と呼ばれていました。
(※ フォン「fond」とは、フランス語で背景やグラウンドを意味します)
一般的には、このデザインのレースは【 カリフラワー 】との愛称で呼ばれていますが、このモチーフはカリフラワーではなく【 牡丹 】だといわれています。17世紀に東アジア貿易が盛んとなったネーデルラントでは、中国から牡丹の文様を染め付けた青花磁器などが輸入されました。このデザインは、青花磁器に描かれた牡丹文様から着想を得たと考えられているんです。
江戸時代、鎖国政策をとっていた日本が唯一海外に開いた窓として長崎の出島がありました。出島での商取引が幕府から許されたのは、ヨーロッパではネーデルラント連邦共和国が唯一でした。
17世紀の日本では「菊」「桐」「葵」「牡丹」の紋は、無闇に使用することが厳しく制限されていました。皆さんもご存じの通り菊と桐は天皇の紋であり、葵は将軍家とその連枝のみが使用を許されていたからです。「牡丹」は堂上家(とうしょう家:公家のうちで極官が、昇殿を聴される三位もしくは参議以上の家格の家柄)の最上位に位置する五摂家の、なかでも筆頭格の「近衛家」とその分家の「鷹司家」のみが使用した家紋だからでした。
着任の挨拶言上などで出島の商館長は将軍への御目見のために江戸へ下向する人物で学者を伴う者も少なくなく、当時の日本の文化や風俗などがつぶさに本国へ報告されていました。そのような背景があるので「牡丹」は日本や中国で富貴の象徴として、また高貴な「百花の王」として珍重されていることがヨーロッパへ伝わりました。
一方で、当時のネーデルラント共和国では「牡丹」は「中国で何世紀も前から栽培されてきた、棘のないバラ」だと考えられてもいました。このことから「牡丹」は聖母マリアに捧げられたそうで、稀に【 ダッチ・レース 】では天使や王冠を捧げる天使が「牡丹」と一緒に描かれるのはそのためです。
ー 牡丹に魅せられた商人たち
「牡丹」をモチーフにしたレースは、このネーデルラント連邦共和国の商人に向けた特別なレースでした。
また「牡丹唐草」のデザインも【 ダッチ・レース 】の特徴のひとつです。
17世紀から18世紀にかけて、東アジアから貿易により流入した絹織物を利用した「 バニヤン 」と呼ばれるゆったりしたガウンのような室内着が男性に好まれました。繻子地の【 牡丹唐草文様 】織物を使った当時の衣服が、各地に資料として残されているのを今でも私たちは発見できます。
【 ダッチ・レース 】からは日本をはじめとする、東洋的なデザインが当時の人々の感性を刺激して、レースのデザインにも影響を与えたことを知ることができるんですね。
18世紀に近づくにつれて、「牡丹」のレースはグラウンドの空間を活かしたデザインへと変化していきました。
このバロック的な美意識が反映され、様式化された「牡丹」のレースは、オランダ語やフラマン語で【 トロルカント 】(カントはオランダ語でレースのこと)とも呼ばれています。
ピエール・フェルヘーヘンは、これを西フラマン語で「太い糸」を意味する【 ドロール 】から派生したと考えました。しかし近年、あるレース・ディーラーがこの名称はブリュッセルやフランドル地方の方言でレース職人が使ったグラウンドを指す「トロリーズ」(trolies、英語のステッチの意味)が語源ではないかとの新たな説を提唱しています。
ー ダッチ・レースとは
【 ダッチ・レース 】は、意味の上では「オランダのレース」で、レースに冠される地理的な形容表現は主に原産地を指すと考えられがちですよね。
多くのレースにおいて地名をつけられたレースの名称は多いのですが、しかしこれは必ずしもその地域で作られたレースを指すのではないということが長年調査をしてきたなかでわかってきました。
あくまでも慣例的にそのように呼び習わしているだけなのですが、なぜか一般的には「レース名は製作地を表している。」との言説が流布しています。
この【 ダッチ・レース 】もネーデルラント連邦共和国の裕福な商人に向けて、アントウェルペン周辺で製作されていたものでした。
時代の変遷はあるにしても基本的なモチーフの構成は17世紀に確立されたデザインのまま、これらのレースをオランダでは民族衣装に取り入れて20世紀まで使用し続けました。
南ネーデルラントやベルギーで作られ、オランダで長年愛され続けたレース。それを【 ダッチ・レース 】と呼んでいるのです。
おわり
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