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特集:メディア この味がいいね!と後輩君が言ったから……

2012年5月6日発行 ロウドウジンVol.4 所収


大きな刑事事件は、世論の動きに左右されます。メディアが社会に対して、私を悪者とレッテルを貼り、極薄非道な過熱報道をすれば、その情報の受け売りが、国民の意見になってしまうのです。メディアのマインドコントロールの強大さには、寒心に堪えません。メディアによって先入観を植え付ければ、世論は簡単に動かされうることを知りました。
――木嶋佳苗の手記より

この世の中には数多のメディア論がありメディア論者がいるが、そもそもメディアとはいったいなんのことだろうか。英語の辞書的な意味としては「メディア=媒体/媒介」である。ではメディアは何と何を媒介=結びつけるのだろうか。メディアによって結び付けれる「もの」と「もの」、その関係性は時代とともに大きく変化を遂げ、いまもなおとどまることを知らない。本特集「メディア」ではその流れに竿を立て、現在/過去のメディアを取り巻く状況を振り返り、反社会人サークルの考える未来のメディアを提示する。

はじめに

 脳科学系の学者である苫米地英人の近著に『洗脳広告代理店 電通』(サイゾー)というものがある。本書の内容はインターネットの巨大掲示板を中心にまことしやかに囁かれている陰謀論とも都市伝説ともつかない噂話の集合体にすぎないといってしまっても良い。重要なのはタイトルだ。すなわち「広告」とはなにか、という問いである。本書では「広告=(国家が/企業が)国民を洗脳するためのツール」と解釈されている。

 洗脳、すなわち他人を意のままに操るというのは、なるほど広告の一側面と言えるだろう。そこに巨大な広告代理店が関わっていれば、ある種の意図したステレオタイプや固定観念を他者に(しかも気付かれないように)植え付けることも可能かもしれない。しかし、ここではその手の陰謀論には荷担しない。建設的な議論に向けて、反社会人として生きていくためのツールとして、広告の有効活用を考えていきたい。

 ポイントは「広告とは、メディアを利用してひとつのイメージを届きうる隅々まで浸透させるもの」ということである。すなわち、広告を活用するということはメディアを活用するということと同義だ。反社会人サークルひいては反社会人としてメディアをどのように利用していくか、本特集で考えていきたい。

居酒屋のトイレ

 本論に入る前に、まずは現状の反社会人サークルの立場をご理解いただくためにも、卑近な話題からお送りしよう。いつからかわからないが、大衆に「癒し」を与えるコンテンツが生活の中に巧妙に入り込んできているのにお気付きだろうか。それは大衆自身が望んでいるという側面もあるが、半強制的にコンテンツを受容せざるをえない場面においては暴力的とすら言える。たとえば「居酒屋のトイレの壁」がある。家庭のトイレの壁といえばカレンダが常套だが、居酒屋のそれは相田みつをめいた訓戒が目立つ。いつから日本はそのような「気持ち悪い」国になってしまったのだろうか。ここにメディアの神髄がある。

 居酒屋のトイレの壁もひとつのメディアである。そこで伝達されるメッセージはひとのこころに浸透し易い。なぜか。それは排泄中の人間は無防備だからだ。つまりメディアによる洗脳は、受容者の立場や環境によって大きく左右される。メディアとはそのような受容環境を含めて設計される。これを拡大解釈すると、マーケティングの場がいわゆるマスメディアからソーシャルメディアに移り変わりつつあるのがご理解いただけるだろう。つまり、ひとびとを効率よく「架空のトイレ」に閉じこめて排泄させること、それが現在のメディアの方向性なのだ(おそらく)。綺麗な言い方をすれば、みんなのための大きな物語から個人のための多種多様な小さな物語に、メディアの有り様は移り変わってきている。

 メディアはメッセージである――メディア論の祖マクルーハンのこの言葉は、メディアの伝えるメッセージは内容(コンテンツ)ではなく、そのメディアの形式自体が重要であることを示唆している。この主張の解釈はいまだに多くの議論を呼んでいるが、われわれ反社会人サークルはそのことを前提に物語を進めていきたい。

 ちなみに余談になるが、トイレの壁のメディア力(公衆便所の落書きを思い出していただきたい)はいまだに強力だ。2012年4月にはパチンコ店やゲームセンタのトイレ約2600箇所にアダルトサイトのURLを落書きし、アフィリエイト収入を得ていた事件があった。これもまた示唆に富んだ事件といえよう。

メディアの変遷 ~マスメディアからソーシャルメディアへ

 まずは一般的な流れを押さえておこう。はじめに冒頭の問いに答えておくが、メディアはコミュニケーションを媒介するものである。だから一般的に「メディア」と言った場合、不特定多数に情報を垂れ流す「マスメディア」を指している。かつてはコミュニケーションを媒介するためには莫大なコストが必要だった。それは特権的にテレビ、ラジオ、新聞、雑誌といった、いわゆるマスコミに与えられていた。だからメディア=マスメディアといった等式が成立するのだ。逆にいうと、かつてはそのようなメディアの在りようしか想像できなかった。

 しかしコミュニケーションの形態は時代の流れにつれ、大きく変化してきている。最大の立役者は高度情報化社会の到来である。それは個の履歴をはじめとするありとあらゆる情報が数値化され、ネットワークに放出され、観測可能なものになったことを意味する。そこで誕生したのがソーシャルメディアだ。たとえばFacebookのようなSNS(ソーシャルネットワークサービス)は莫大な個人情報をデータとして保管している。しかも単純な個人のプロフィールに加え、SNSというメディアの特性上、利用者自身が自発的に登録した過去の経歴や所属や趣味や人間関係であったり、現在進行形で更新され続けるのウェブ閲覧履歴やら居場所のGPS情報やら自己顕示欲にまみれた写真やらが垂れ流されている。これらを有機的に連携させ分析することで、特定の個に対する動的なマーケティグが可能となる。いわゆる、ビッグデータ革命の一側面だ。

 マーケティング手法およびビッグデータについては専門家にお任せしよう。重要なのは、すでにわれわれは意識的/無意識的にありとあらゆる個人情報をデータとして提供してしまっているという点にある。基本的にそれらは複数のサービス/業者に分散しているが、FacebookやGoogleのような一部の強力なSNSにはその手の情報が集まり続けている。しかも、それらは匿名ではなく顕名(実名とは限らない)で行われているため、個と個の関係性を含めて組織化される。

 個に対するマーケティング、などというと国家が国民を背番号で徹底管理するディストピアSF的な印象を持ちそうになるが、軽度なものであればすでに我々の生活の中にありふれている。うまくやれば消費者本人ですら気づいていなかった欲望を発現させ、万人にとって有用なものになるだろう。たとえばGoogleの広告枠は(おそらく)検索結果やクリック履歴から個の嗜好を抽出し、その個に向けた最適のバナー広告を動的に表示している。実際、今回の特集「メディア」の調査の所為で、筆者はどのサイトを見ても某社畜産業者の広告が表示され、最近のマイブームが某社畜産業者のバナー集めになってしまったくらいだ。

 本特集では、次にマスメディアが有効だった時代の社畜像をテレビCMを通じて迫っていく。その延長線上に現代の「ソーシャル社会」における社畜像がみえてくるはずだ。われわれ反社会人サークルはそれを反面教師に、新たな社会人スタイルとメディアの活用方法を模索していく。


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