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社畜CM批評

2012年5月6日発行 ロウドウジンVol.4 所収

世界が求める社畜像はメディアによって再起的に強化されていくーー。

テレビCMはその時代の世相を反映している。つまり過去のCMを紐解くことで、その時代時代に要請されてきた/ねつ造されてきた社畜像を露わにすることができるだろう。社畜アイテムと言えば栄養ドリンクや栄養補助食品がある。それらのテレビCMに着目することで、社畜像の変遷を白日の下に晒していきたい。


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1989年 第一三共ヘルスケア/リゲイン

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衝撃的なキャッチフレーズ「24時間、働けますか」で社畜の鎮魂に寄与し続けているリゲイン。1988年の発売当初から使用されているCMソング『勇気のしるし』の歌詞は秀逸で、バブル絶頂期のイケイケドンドンな社畜のアドレナリン具合が余すところなく表現されている。「黄色と黒は勇気のしるし」というが、黄色と黒の組み合わせは一般的に警戒色と呼ばれ、鉄道の踏切や工事現場などで用いられていることの意味を考え直すと感慨深い。ちなみに2012年5月現在、公式サイトでボーカロイドを使用した替え歌の作成ができるキャンペーン「Regein Rejapan」が行われている。

1989年 中外製薬/グロンサン強力内服液

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1989年の新語・流行語大賞にもなった「5時から男」でおなじみのグロンサン。Mr適当こと高田純次が演じるサラリーマンは、仕事よりも遊びを重視する「5時から男」として描かれる。バブリーな夜遊びが当然のように可能だった背景には、定時というオン/オフがはっきりしていた時代性がある。一方では同時期にリゲイン「24時間、働けますか」もあるわけで、その二極化している社会人像は、本当に社会人が二極化していたのか、はたまた国家やマスコミの要請する社会人像と世相からのフィードバックとしての社会人像の乖離によるものなのか、想像の余地が残されている。

コラム 新世代型「5時から男」とは?

 グロンサン(中外製薬)の提唱した概念として「5時から男/5時まで男」がある。「5時から男」とは仕事中はそんなにではないものの、定時を迎えると元気溌剌と夜の街に繰り出していく、仕事よりも遊びを重視する社会人像だ。一方「5時まで男」の存在は、あまり注目されてはないが、オン/オフの区分がしっかりした理想の社会人像といえるだろう。

 ここで注意していただきたいのだが、「5時から男/5時まで男」の「5時」とは、正確には「17時」のことである(社会人は誤解を避けるために24時間表記を使うことが推奨されている)。これは当時の定時が8時~17時だったことに由来している。

 しかし新世代型社畜の中には、「リアル5時から男」が出現しはじめているという。どういうことか。下のモデル図をみていただきたい。かつてはひとつの存在だった社畜はバブルとともに「5時から男」と「5時まで男」に分岐した。しかし雇用制度が定型勤務からフレックスタイム制や裁量労働制に移行し、定時である「5時」の基準は曖昧なものになっていった。「5時まで男」はバブルの崩壊ともに「6時まで男」「7時まで男」……「終電まで男」と進化を遂げていった。しかしそれ以上遅くまで働くと帰宅できなくなってしまうし、タクシーの使用許可も年々難しくなってきている。仕方がないから朝の出勤時間を早くしていくしかない。「8時から男」は「7時から男」 「6時から男」……と進化し、ついには始発に合わせて出社する「リアル5時から男」が誕生した。

 一方「5時から男」にも定時崩壊の影響は大きい。5時から遊び始めても終電で帰らなければいけない世界に絶望した男たちは、意図的に終電を逃すようになる。つまりタクシー系男子の出現だ。タクシーがあるなら、何時まで遊んでも大丈夫。そう考えた彼らは「1時まで男」「2時まで男」……と進化を遂げていく。そして経済感覚に優れた不況の申し子たる彼らが落ち着いたのが、始発に合わせて帰宅する「リアル5時まで男」である。

 まとめよう。「5時から男」は「リアル5時まで男」になり、「5時まで男」は「リアル5時から男」になった。定時という雇用者のルールに支配されていたパラダイムは、いまや始発終電という鉄道事業者の作り上げたルールに支配されるようになったのだった。

 ちなみに反社会人サークルとしては意識的リアル5時から男を推奨している(『ロウドウジン』第1号「たったひとりの反社会人サークル」参照)。ただし、その前提として終業時刻が変動しないことが重要になる。

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1999年第一三共ヘルスケア/リゲインEB錠

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坂本龍一が奏でる『energy flow』のピアノに乗せて、スローモーションで流れる雑踏の光景……。同曲はインストゥルメンタルのシングルとして初めてオリコンチャートで週間1位を獲得した。バブル崩壊後の低迷する日本社会に「癒し(系)」の概念を持ち込んだのが「24時間、働けますか」のリゲインだというのだから興味深い。当時の社畜には発破をかけるよりも、優しく手を差し伸ばさなくてはいけないという「弱い社畜像」がみてとれる。メンヘラアイドル南条あやが自殺した年でもある1999年は、社会全体が病理とも呼べる世紀末の興奮状態にあったとも言えよう。


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2004年 中外製薬/グロンサン

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「幸せになりたいけど、がんばりたくない」秋葉原・万世橋をギターをかき鳴らしながら渡る忌野清志郎の放つメッセージは強烈だ。曲名はCMのキャッチフレーズでもある『ラクに行こうぜ』。いまだに先の見えない平成不況の中で開き直りともいえる社畜の心情を吐露したかのような歌詞からは、一種の諦観すら感じ取れる。同時期には燃焼系アミノ式の「こんな運動しなくても(これ一本!)」といった他責系の商品CMが流行しており、社畜たちが本音では外部に責任転嫁しながらも、実際には諦めとともに社畜を続けざるを得ない不均衡さがフィードバックされている。


 バブルをひとつの転換点と捉え、その前後における二つの会社(中外製薬、第一三共ヘルスケア)のテレビCMを紹介してきた。そこで描かれている社畜像を再確認しよう。

 バブル絶頂の1989年のCMからは、相反する二つの社畜像が読み取れる。「24時間、働けますか」という1970年代の高度経済成長期から続くモーレツ社員的社畜像を「新人類」とも呼ばれる若い世代に要請(*)する「旧リゲイン的社畜像」と、その新人類や次のステップに踏み出した元社畜が辿り着いた「五時から男」のような「旧グロンサン的社畜像」だ。

(*)リゲインはそれまで「おじさん」のためのものであった栄養ドリンクを若者向けにアレンジしたのが特徴的だった。

 しかし、バブル崩壊後、失われた十年とも呼ばれる平成不況の中では、両者はほとんど一体のものになっている。描かれる「癒し=新リゲイン的社畜像」と「諦観=新グロンサン的社畜像」の共通点は、「頑張れない/頑張りたくない」だ。

 では最新の社畜像はどのようになっているのだろうか。われわれはその手がかりとして2010年の大塚製薬/カロリーメイトのCMに着目した。そこには未来の社畜像の検討に際するアイディアが山のように詰まっている。


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2010年 大塚製薬/カロリーメイト

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健やかなる君へ(夏)篇1

会議に必要な荷物を運ぶ田中
上司A「新人君、これもね」
田中「はい」

会議室の準備をする田中
上司B「会議の部屋、変わったからね」
田中「はい」

弁当のお茶を準備する田中
上司C「弁当、全然足んないよ。大丈夫?」

買った弁当を持って会社に走る田中
信号待ちで足止めを食らう

《小さな仕事だなんて、クサるなよ!》

♪健やかなる君よ~~

《小さな仕事が できないヤツに 大きな仕事は、頼まないもんだゼ!》

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健やかなる君へ(夏)篇2

田中「こないだのお話と、ぜんぜん……」
取引先「あれ? そうだっけ?」

田中「こないだ言われた資料です」
上司A「あれ、もういいわ」

上司B「もっと自分で考えて動けよ」

上司C「言われた通りにしてくれる?」

上司D「部長判断で、Aプランで!」
全員「Aプラン……Aプラン……」

上司D「専務のご決断で、Bプランで!」
全員「Bプラン……Bプラン……」

暗くなったオフィスで残業する田中
田中「はぁ」

《話がちがうからって、クサるなよ!》

♪健やかなる君よ~~

《意外な展開が 仕事をドラマにする、かもだゼ!》

荒川良々演じる黄色いトラックスーツ(『死亡遊戯』のブルース・リー!)に身を包んだイエローマンが田中圭演じる若手ビジネスマンを応援する「健やかなる君へ(夏)篇」。上司の判断に振り回され、矛盾した指示を受けながら雑事や残業に追われる社会人の不条理さが描かれている。そこに「話がちがうからって、クサるなよ!/意外な展開が仕事をドラマにする、かもだゼ!」「小さな仕事だなんて、クサるなよ!/小さな仕事ができないヤツに大きな仕事は、頼まないもんだゼ!」と親指を立てる(=いいね!)イエローマン。モチベーションコントロールを外部(=イエローマン)に委任しなくてはいけないほどの内的な「つらさ」は、社畜教育が機能不全を起こしている証左である。本来であれば社畜教育の支配下から脱し、自らの頭で思考することで障壁を突破するのが反社会人的には正であるのだが、ゆとり教育の悪影響もありうまくいっていないことが推定できる。大企業で一生安定といったバブル以前の未来像が困難になった現代において、社畜はイエローマンなしには生存できなくなりつつある。しかしイエローマンの応援は気休め以上の何ものでもないのが皮肉的だ。すなわち、社会は社畜に自己啓発を要請しているのだ。


 イエローマンとは、いったい何のメタファーなのだろうか。黄色い箱でおなじみのカロリーメイトを擬人化したものであるのは当然として、疲れきったテン年代の社畜の心の隙間をお埋めする、さながら喪黒福造的なキャラクタである。このCMを見て田中圭に共感を覚える社畜も少なくないことだろう。その特徴は「禍が外部から一方的にやってくる」点だ。すなわち、現代社畜は「新グロンサン的社畜像」と同様に、不条理を認識しながらもその解決を放棄し、ただ抱え込み自縛しているといえる。これのどこが「健やかなる君」なのだろうか。外部が変わらないのなら、消去法的に自分が変わるしかない。その思考がいわゆる社畜化と呼ばれるものであるのに、賢明なる読者諸氏はすでにお気づきのことと思う。しかし、何も考えずに心を麻痺させてやりすごすことは、反社会人サークル的見地から言えば、やはり誤っていると言わざるを得ない。真正面にではない、斜め上からの解決があるはずだ。

 次の記事では、イエローマンに代表される体制側の刺客のひとつである人材派遣業が放つ最新の社畜プロモーション事例をご紹介しよう。


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