小説 『小鳥屋のある風景/上』
小さな無人の駅舎を出ると、そこは薄紅色に染められた世界だった。
鄙びた匂いを漂わせる町角も、冬の間に踏み固める者もなかった地表も、先程迄車窓から見えていた晴天さえも、全てがその刹那的な薄紅色の向こう側に、ちらりちらりと垣間見えるだけだった。
彼は足元の花弁に恐縮しながら歩き出した。バス停は確か、この駅前広場を抜けた所にあるはずだった。
無数の花弁が豊潤な香りを漂わせながら男の肩に降り注ぐ。この匂い、あの菓子の匂いに似ているなと思う。春先になると妻がよく買って来た和菓子の香りだ。
塩漬けにされ、褐色になった薄い葉で包まれたピンク色の餅菓子。葉脈を噛みしだくと口いっぱいに広がる春の香り。子供が学校に上がった時も、自分の定年退職の日にも、その香りは漂っていた。その葉を餅から剥がして先に味わうのが彼の習わしだった。
「あなたまた変な食べ方をして」と妻が笑う。笑われようが、その食べ方が子供の頃から止められない。妻や子は餅と一緒に齧り付いているが、一説には葉を剥がし、香りの移った中の餅だけを食べるのが正しい食べ方なのだと言うのだから、自分の食べ方もあながち間違ってはいないのだと主張する。それでも妻子は葉を剥がすことなく餅ごと食し、男は山羊のように葉を食んだ。
「そうだ、桜餅も買って来れば良かった」薄紅色の広場を抜けて、バス停に至る迄の間を、彼は店などがないかキョロキョロとしながら歩いた。振り返ると、今度は駅舎が桜に隠れて見えなくなっていた。その見事な迄の薄紅色の空間は、たった二本の老木が枝を寄せ合い絡め合いしながら作り上げたものだということに、男はようやく気が付いた。
「夫婦桜かぁ…」誰に聞かせるともなくそう呟いた。それと同時に、手ずから提げて来た花束が、何ともしけた感じに思えてしまってしょうがない。バスが来る時間迄の間、男は駅周辺を彷徨い歩いた。しかし、見つけたものと言えば、営業しているのかどうかも分からない寂れた蕎麦屋が一件と、民家の一部を改造して造ったような、お情け程度に洋風な店構えのスナックが一件のみだった。こんな所に誰が呑みに来るのか。ペンキの剥がれ落ちた扉の傍らに設えた漆喰の花壇の土には造花が無造作に差し込まれ、厚い砂埃を被って色褪せている。かつての女店主と呑んべぇ達との熱い駆け引きが、今や終息の一途を辿っていることがこんな所からも窺える。
他に見えるものと言ったら、竹林と杉林と、やたらと長い生垣ばかりだ。恐らくこの生垣の切れた所に国道が走っているのだろうが、そこまで歩く気力も時間もない。男は諦めてバス停に戻った。今迄何処にいたのか、バスは既に停留所に停まっている。足早に戻って来た男を待ち侘びていたかのように、浅葱とクリーム色に塗り分けられたバスは男を迎え入れると早々に走り出した。バスの乗客には年寄りが三人、それぞれが離れた座席に座り、車窓の風景を見るでもなく、車体の揺れに合わせてうつらうつらと舟を漕いでいる。男はバスの揺れに足を取られぬように踏ん張り踏ん張り、空いている席にどうにか腰を下ろした。
生垣を曲がったバスは国道に出て速度を上げ始めた。国道と言ってもなだらかな道ばかりではなく、乗客達は揃ってしゃっくりをするかのように尻を跳ねあげさせ、遊戯をするかのように体を揺らす。そんなバスは延々と続いていた切り通しを駆け抜けると、片側一車線だけの苔むした隧道に滑り込んで行った。バスのエンジン音が耳障りな程大きくなる。薄暗い隧道の中でも、男は桜餅のことを考えていた。あの見事な桜達の洗礼を受けてしまったかのように、口の中は桜餅の味を求め続けているのだ。東京に戻ったら絶対にあいつを買って帰ろう。心にそう決めていた。
フロントガラスの向こうに見えていたドーム型の光がやがてくっきりとした景色に変わる。男は思わず「おおっ」と感嘆の声を上げるや忽ち罰が悪くなり、周りの乗客を見回した。幸い、三人共が相変わらずの微睡みの様子で、一人として彼に関心を寄せる者などはいない。彼はほっと胸を撫で下ろし、窓に目をやった。崖側の車窓の向こうには、青く緩やかに弧を描く水平線が広がっているのだった。視界を独占する色彩は青と蒼と碧しかない。その海原には、陽の光を浴びた子兎達がきらきらと飛び跳ね、これからやって来る暖かな季節を予感させる。なるほど、妻がどうしてもと言うのがよく理解出来た。理解は出来たが、大丈夫なのだろうかという気持ちも心の隅にはあった。
やがてバス内にチャイムが鳴り、彼の目的地とするバス停到着を知らせるアナウンスが流れた。案外、駅からはそう遠くない気がする。
彼は海を臨む高台の停留所でバスを降りた。他の三人の客を乗せたバスは白い煙を尻から吐き出しながら走り去って行った。
バス停の前には小さな古びた万屋が立っている。間口一間半程の店先には、トイレットペーパーや花紙、飲料水の冷蔵ケースなどが置かれ、建物の脇には赤いベンチが設けてあるが、ところどころペンキが剥がれて錆も酷く、間違って座ろうものなら飛んでもない目に合いそうな代物だった。
男にふと、直感が働く。もしやと思い、店の中を覗くことにした。薄暗い店内には人影はなく、埃を被った洗剤等の日用品が所狭しと並んでいた。その色褪せた店内の一角に、違和感なく食料品の棚があり、缶詰や調味料と共にパンや菓子などがお情け程度に陳列されている。その中に探し求めている物はあった。桜餅だ。透明なプラパックに入った大手食品会社の桜餅だった。まさかとは思ったが、こんな所で出会えるとは。
男は喜び勇んで手に取ると同時に店の主人を呼ぼうとして、はたと気が付いた。賞味期限が三日も過ぎている。一気に奈落に突き落とされたような落胆ぶりに目眩がしそうだった。
男はそれをそっと棚に戻すと、店主を呼ぶこともせ ずに肩を落として店を出た。気を取り直して歩き出す。天気も良くて暖かなせいか、小鳥達の囀りが賑やかだ。確か以前来た時には、この万屋の横の道を入って、坂道を登って行った筈だ。男は記憶を頼りに脇道へ入った。そして丁度万屋の裏手に差し掛かった時、あるものが目に飛び込んで来たのだ。道端に並べられた幾つもの鳥籠。なるほど、鳥の声がやけに賑やかだと思ったら、こんな所に鳥を飼っていたのか。鳥籠は一段では飽き足らず、二段三段と積み重ねられていて、宛ら小鳥の集合住宅といったところか。男は足を止めてそれらを眺めた。それにしても随分と沢山の鳥を飼っているものだ。呆れ半分、もっと近寄って見たくなった。どれどれ、どんな鳥がいるのだ。籠は建物の入り口の両脇と、路地を隔てた向かいの家の塀の前にも積み上げられ、その数はなんと両手に余る程だ。その上、近づいて見ると小鳥の種類も様々で、青いのもいれば赤いのもいる。見たことある鳥、知らない鳥、外国から来たであろう鮮やかな色彩の鳥迄もがいる。男は鳥にはあまり詳しくはない。十四松や文鳥は分かるが、青や緑の外国産となると皆目検討がつかない。鳥達は同じ種類が複数入れられていたり、番で入れられていたりするのだが、男に眺められていてもお構い無しに、餌を食ったり隣の奴にちょっかいを出したりして、気ままに日光浴を楽しんでいる。男は端から順繰りに籠を覗き込んでいった。なに、これからやることを考えれば、時間など気にしなくてもいい。用事を済ませ、帰りのバスや電車に乗れさえすればいいのだ。長年務めあげてきた銀行で定年を迎えて此方、毎日をそんな感じ過ごしている。会社員時代はこれといった趣味も持たずに毎日仕事に明け暮れた。子供が小さかった頃は家族サービスと称して遊園地や動物園ぐらいは連れて行っただろうか。そんな紋切り型の父親像を演じてはみたが、自分のこととなると どうにも如何ともし難い。休日は只ゴロゴロとするだけで女房子供に煙たがられた。銀行を退職して最初の内は、周りに勧められる儘旅行や庭いじりなどを嗜んではいたが、近頃はそういう気分にもなれないでいる。家族から見ても、自分はつまらない男として映っていることだろう。独立して行った子供達も時折連絡こそすれ、実家に足を運ぶことは滅多になくなってしまった。銀行に務めていたからと言って、別に自分の事を堅物の頑固者だとは思ってはいない。あの桜餅の食べ方を例に取っても少々拘りが強い所があるというだけなのだ。一途と言ってもいいだろう。
そんな事を考えていたらまたあの味が口中に蘇って来そうだ。いや、男はある籠の前で既にその味を蘇らせていた。「さくら…もち?」思わず声にして、ハッと我に返る。鳥籠の中に桜餅があろう筈がない。目を擦り、棚に置かれたその鳥籠をあらためて凝視した。
そこには丸々とした桜餅…もとい、小鳥が一羽、ちょこんと止まり木に止まってこちらを見ている。顔は桃色、体は草色という、正に桜餅色をした鳥だった。
「それは小桜インコという奴ですね」
屋内の暗がりから突然声がして、男は飛び上がらんばかりに驚いた。誰もいないと鷹を括っていた分、本当に心臓が飛び出るかと思う位だった。
声のした方に目をやると、小柄な男が一人、丁度椅子から立ち上がってこちらに向かって来ようとしているところだった。
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