小説『小鳥屋のある風景/中』
逃げようか?
一瞬そう思って打ち消した。待て待て、俺は何もしていないぞ?ただ鳥を見せて貰っていただけだ。悪いことは何もしていない。第一、不意を突かれたからと言って何を慌てている。ここは一つ、大人の対応をするべきだ。男は平静を装って、鳥達の飼い主と思しき中年男性に頷いて見せた。
「ほぉー」と関心を寄せるフリをしながらも、内心は穏やかではなかった。さっきの自分の独り言を聞かれたのではないだろうか。鳥の種類が小桜だなんて、話が出来すぎている。サクラという単語を聞き付けて、この男がでっち上げた名前なのではないか?俺はからかわれているのかも知れない。
「随分沢山の鳥を飼ってらっしゃるんですね」と、男は話を逸した。すると、何故だか相手は少し驚いた顔をするなり笑いだした。
「飼ってるって、ご主人、これは売り物ですよ」
「え?」
「売ってるんですよ。うちは小鳥屋ですから」
店主は笑いながらそう答えた。男は面食らった顔で相手を見た。
これは赤面ものの誤ちだ。自分はすっかり趣味人の娯楽だと思い込んでいた。何故ならこんな小さな集落で、小鳥などを飼う者がどれだけいようか。絶対に商売にはなっていないだろうな、と現役時代の勘が教えてくれる。
「いや、こんな所で小鳥屋とは珍しい。この辺では鳥を飼う習慣でもあるんですか?」
そう振ってみた。売れないでしょう、などと言っては相手が気を悪くする。
「いや、そんなものありゃしませんよ」と、小鳥屋は手のひらを顔の前でひらひらさせて答えた。
「じゃあ、生き物扱いの商売だと大変でしょう」男はやんわりと疑問に切り込んでみる。
「好きだから続けていられる感じですかね」
「うちは…」と店主は話を続けた。店主が言うには、此処は元々は先代から続く種苗店で、園芸用品なども置いていた。その中に鳥の餌があり、自分が鳥好きだったことも手伝って、数羽の小鳥を置いてみたところ、年寄り子供に受けて完売してしまった。町民の退屈しのぎには良かったのだろうと店主は笑う。
「何しろ周りには娯楽施設などなんにもない所ですからねぇ」今では時折近所の子供が冷やかしに来る程度だと言うが、目新しい鳥を見付けると仕入れずにはいられない。それでこんなに数だけは増えてしまったらしい。
「なるほど」男は少し合点がいったようだ。
「今でも、たまぁに売れていくんですよ」
ほぅ、こんな所の鳥を買って行く酔狂が、まだこの辺にはいるということか。それでも明らかに商売としては成り立たってはおらなそうだし、ここで鳥など売りつけられて、酔狂の一人に加えられては面倒だ。店主には今日色々と話を聞かせて貰ったせめてもの礼に、あの万屋の桜餅だけは買うなとでも教えて、とっとと目的地に急ごう。
そんな男の様子を察したのか、店主が僅かに口調を変えて言って来た。
「ご主人、こいつなんて飼えば退屈しませんよ」
小桜インコの籠に手を乗せて、自信ありげに男に語りかけた。
やれやれ、お出でなすったか。店主の顔はすっかり商売人の顔になっている。此処はさっさと断って立ち去ろう。
「いやいや申し訳ない。私は生き物などは飼ったことがありませんで、たまたま通りがかりにね、見さして貰ってただけなんですよ」
慌てた様子の男に店主は構わず続けた。
「こいつはまだ一歳ほどですが、よく喋りますよ。歌いもします」ほぅ、喋るのか……と一瞬興味が惹かれたが、そんな言葉に踊らされてはいけない。生き物を飼うにはそれなりの責任というものが必要だ。衝動買いなどは以ての外。男は毅然として誘惑を振り払った。
「いや、私は遠くから来ているので持ち帰るのも大変だ。お勧め頂くのは嬉しいが、やめておくよ」それを聞いて、店主はそうですかと身を引いた。男はほっと胸を撫で下ろし、急いでいるので、と言って店を離れた。立ち去る前にちらりと籠を見やると、鳥は泰然自若とばかりに羽繕いをしている最中だった。
えっさ、ほいさと男は坂道を登っていた。こうして実際に声にしないと足が前に出ないような急勾配に男は差し掛かっていた。小鳥屋を出た頃はまだ舗装もされた緩やかな坂道だったのが農道に変わり、それを右に曲がるとこの未舗装の急勾配だ。車一台がやっと通れるような路面には轍を避けて草が茂る。
左には切通しに笹や雑草が生い茂り、上を見上げると植林された杉に混じって樗や椚が根を張り、右を向けば笹に覆われた崖になっている。これはもう、坂道というより山道と言った方がいいだろう。
「言わんこっちゃない。だから、俺は、反対したんだ」男は息を切らせながら独り言をボヤいて登っていた。
目的地まではそう遠くはなかった筈だ。小鳥屋から逃げるように登っては来たが、日はすっかり頭の上に位置していた。木漏れ日の差す道端にちらほら落ちていた山桜の白い花弁の中に、薄く紅を差した花弁が混じって来た頃、男の目の前に小さな木製の看板が現れた。その看板を過ぎると、視界が急に開けた。
「やれやれ、やっと着いたか」立ち止まり、溜め息混じりに安堵すると、男は強ばった腰に両手を当てて、ぐんと伸ばした。腰だけでなく、腿にも膝にも疲れが溜まっているが、こんなところで体操などをして、誰かに見られたら恥ずかしい。此処は腰を伸ばすだけに留めて男は看板の指し示す敷地内に入った。
最初に現れたのは、土の剥き出しになった空き地だった。地面がロープで幾つかに仕切られているところを見ると、どうやら数台の車が停められる駐車場のようだ。しかし、今は停まっている車は一台もなく、区間の中も外も見境なく春紫苑や母子草が蔓延っていた。
今度来る時には息子に車を出させよう。そんなことを思いながら駐車場を通り抜けると、左右に今や満開の染井吉野が対峙し、それを潜って整備された公園の様な敷地に出た。足元には煉瓦を埋め込んだ細い歩道が縦横に走り、歩道に仕切られた升目は芝生が植えてあったり、まだ手付かずだったりと様々だ。男は鞄から手帳を出すと、頁を繰った。
「えーと、イの七か…」手帳をしまい歩き出すと、イの七番は探すまでもなく直ぐに見つかった。
「おい、来たぞ」男は一基のまだ新しい墓石の前で立ち止まった。墓石の脇には男の妻の名前と没年月日が彫られている。用具置き場で借りてきた手桶と箒で薄ら積もった砂埃を浄め、持って来た花を生けた。
続いてゴソゴソと鞄の中から線香の束を取り出す。
「まったく、こんな辺鄙な所に入りおって」などとブツブツ言いながら火を点けると、墓前に手向けて手を合わせた。
「今日は結婚記念日だから俺は来てやったが、こんな遠くちゃ子供らだってそうそう来てはくれないぞ」男は墓に向かって不満を垂れた。
男が不満に思うのも無理はない。東京から電車やバスを乗り継いで来たこの町に、自分達夫婦は縁もゆかりも無いのだ。ただ、妻は自分の余命を知るや霊園のパンフレットを集めだし、夫の承諾も得ずにこの墓地を契約して来てしまった。男は怒ったが、時既に遅しと妻はさっさとこの墓に入ってしまった。
葬儀の時には業者の手配したマイクロバスで埋葬に来ていたので、こんな辺鄙な場所だとは気付かなかった。きっと妻は今頃肩を竦めて舌を出していることだろう。
男は立ち上る煙を見つめて溜め息をついた。
「やれやれ、俺は頻繁に子供らに参って欲しかったのにな」そう思うとちょっと心が虚しくなった。
妻は何を思ってこんな縁もゆかりも無い土地を自らの、いや俺達夫婦の奥津城と決めたのか…。普段から、差程思慮深くはなかった妻のことだから、きっと業者の口車に乗せられたのだろう。ふと、自分が妻に語ったプロポーズの言葉を思い出しては後悔したりした。今となっては笑い話にしかならない。
桜の花弁が、男の顔色を窺う様に墓石に降りてきた。それを見つめているうちに、男の口元に歌が流れた。
「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして…」
妻が好きだった歌だ。台所で新香を刻む時も、無図がる子らを寝かせる時も、いつも控え目で囁く様な歌声で歌っていた。
「千代の松が枝 わけいでし…」
ひとり、寂しく口ずさむ男の頬を、掠めるように桜の花弁が通り過ぎて行った、と思うや、木々のざわめく音と共に、突如背後から一陣の風が吹き付け、無数の花弁が男を追い越してゆく。思わずそれを目で追い、立ち上がった男は、あっと声を上げた。幾千もの薄紅色の花弁が眼下の水平線に向かって舞い散る。それは恰も、無邪気に踊り駆け回る小さな童達のように、それぞれが身を翻らせ、空を滑り、上がったかと思えばまた下がりを幾度も繰り返しながら遠ざかって行った。
花弁達は、呆然と立ち尽くす男から、その胸に抱いていた蟠り迄もを乗せて水平線の彼方へと消えていったのかも知れない。
「あぁ、そうか」男は呟いた。そして、ふふっと笑うと、足元の墓石に一礼をした。
「君の気持ちはよくわかったよ。今日は結婚記念日なのに済まなかった」と、愛おしそうに墓石を見つめて撫でた。
『私ね、同じ景色を見て、それがどんな情景であれ、肩を寄せ合えるような、そんな人と一緒になりたいの』結婚前の妻が言っていたことだ。当時は世帯を持つことが自分の目標で、余り深くは考えずに頷くだけで聞き流していた。その為に結婚後の自分は妻の望みの真逆を行ってしまっていたのかも知れない。
結婚して以来、自身のことは扨置いて、家族のことを第一に考えて来た妻の、これは女としての一世一代の我儘だったのではないか。
墓石の向こうに広がる海原には、傾きかけた太陽が金色に輝く光の道を作っている。桜の花弁はその光の道にチラチラと降り注いでは消えていった。
胸に熱いものが去来する。
男はそっと目頭を押さえた。暫し無言の後、再び墓石に向き合うと、にっこりと笑って見せた。
「また来るよ。今度はちゃんと桜餅位は持って来るからな」そう語り掛けると、よいしょと立ち上がって、ゆっくりとその場を離れた。振り向き振り向き歩むうちに、不思議と心が清々しくなって来るのを覚える。
駐車場を出る頃には、男の足取りは来た時よりも軽くなっていた。早く帰って息子達に今の心境を話してやろうと気が急いていた。
「まぁ、あいつらのことだ、きっといい顔はしないだろうがな」
息子達は父親が死んだ際にこの墓を引き払って、もっと自分達の都合の良い場所に建て直せばいいと言っていた。
それというのも、父親である男がこの墓の場所を宜しく思ってないというのが手伝ってのことだろう。今の自分は心変わりしたのだ。たとえ墓参りに来る者がいなくなっても、妻が選んだこの墓で、妻と一緒に眠りたい。その意志を伝えたかった。
陽もだいぶ偏って、男は小鳥屋のある角迄降りて来ていた。
横目でちらりと見遣ると、小鳥屋の主人は路上に並べた籠を屋内に片付けているようだ。
だいぶ寒くなって来たからな、と男がそこを通り過ぎようとした時、突如として小鳥屋の方から歌が聴こえて来た。
「はるこぉろーの……はなのえん……」
その声に驚いた男は振り返り、止めた足をつつと引き戻した。
歌声に引き寄せられるように小鳥屋の前迄やって来た男は声の主を探した。子供の様に甲高く拙い歌声は「はるこぉ…ろぉーの…」と、同じ節を何度も繰り返し歌っている。男は端から鳥籠を覗いていったが、どの鳥もひよひよと囀るか、眠そうに羽根を膨らませているばかりだ。男は店主の言葉を思い出した。
「あぁ、まさか」男は例の小桜インコの籠を探し出した。そいつはさっきと同じ棚の上で、忙しなく体を動かしていた。右に左に止まり木を移動したり、首を傾げたりしながら「はるこぉろぉのグシュ…はなのぉえーヒューィ」と、自ら変な合いの手を入れながら歌っているのが、正にあの小桜インコだった。
男は暫しその鳥を見ていた。鳥は男の視線にも構わず、歌い続けている。
「はーるーこぉろぉのブジュブジュ…はーなーのぉえーんホホホホ」
「なんて歌い方だ」男は鳥の歌声を苦々しく思った。まるで自分の大切なものを茶化された様な心持ちだ。
「ご店主」男は紅雀の籠を抱えて来た店主を呼び止めた。
「あぁ、いらっしゃいませ」小鳥屋の主人は積み重ねた籠の格子越しに男に挨拶するや、ちょっとお待ち下さいと言って奥へと入って行った。暗闇でガタガタと籠を片し、手拭いで両手を拭き拭き出て来た店主は腰を低くして男に会釈した。
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