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小説『ハケンさん/下』

「今いい?」彼女はいつもと変わらぬ声のトーンでこちらを気遣う言葉から話し始めた。駅前に着いたバスを降りて交差点で電話を受けた私は当然快諾して聞き返した。
「どうしたの。体の具合でも悪いの?」侑大のこともあって、彼女の体調が気になったのだ。
「体は元気なんだけどさ、仕事切られたのよ」
「どうして?安西さん真面目で仕事も早いのに」
「あんたんとこの西野って子、知ってる?あの子がまた遅刻してきてさ」話によると、西野という女性は私と同じ派遣会社の所属で、私が入っていない日はその人が派遣されていたらしい。ところが彼女は度々遅刻を繰り返していたというのだ。
「それでなんで安西さんが切られるのよ」その遅刻の制裁に安西さんがどう関わるというのか、私には全く見当がつかなかった。
「工場長が間違えたのよ」私は、え?と思った。まったく耳を疑った。
「工場長が私と西野さんを間違えて派遣会社に契約打ち切りをしてきたんだって。いくらユニホームで顔が分からないからって滅茶苦茶じゃない?」安西さんの声は興奮していた。工場は有無も言わせず電話一本で派遣契約打ち切りを通告し、安西さんの派遣会社もそれに怒って二度と工場への派遣はしないと宣告したらしい。なんとも呆れた茶番劇だが、これに由って私は唯一工場で気を許せる相手を失った。
安西さんの抜けた穴に、新たに派遣されてやってきたのは二十代後半の女性だった。若い彼女は仕事をすぐに覚え、その気立ての良さもあってかパート女性陣から可愛がられた。彼女は次第に周りに溶け込みカヨちゃんと名前で呼ばれるようになったのだ。要領よく仕事を覚え、パートがするような大事な仕事も任されるようになった彼女はパートと同等の立場から私に指示し始めた。
ひとりぽつんと食事をする私の耳には子供の学校の話をするパート女性たちの会話が入ってくる。カヨちゃんも近々結婚するという話で周囲を盛り上げていた。確かにマスクを外した彼女の顔は肌艶もよく、頬は幸せでピンク色に張っている。挙式の話などをする黄色い声に私は居た堪れなくなり休憩室を後にした。
誰もいないロッカー室で、再びフードキャップとマスクを着けていると、自分の身体から心が腐っていくような臭いを感じた。夏ももう近い。

疲れた足を引きずってアパートに帰った私が見たものは、きらきらと広がる銀河のような煌めきだった。何かが床に散りばめられ、それが窓から差し込む月明かりに照らされて、まるで天の川のように薄暗い部屋の中に浮かび上がっている。それはこの眠らされた日常を乗せ、谷間の翳りに身を潜めた六畳間が、今まさに天界へと繋がれようとしているような、そんな息を呑むような美しい光景だった。
部屋の灯りが点くと、天の川は消えて写真立てが箪笥の上で倒れているのが目に入った。近づいてみると床に散乱するのは割れたガラスの破片や鱗粉であることが分かった。恐らく鼠の仕業であろう。箪笥から標本箱を落とした奴は、割れたガラスの中から蝶を引き摺り出し喰おうとしたのか、昆虫の本体は腹を割られていた。標本に薬品が使われていることを知った犯人は喰うことは断念したようだが、翅は無残にも引き千切られボロボロにされていた。私は割れたガラスに気を配りながら翅を拾い集めた。左掌の中で翅は千切れた破片を揺り動かしながら私を青く染め上げていった。私はそれに答えるように涙を落とした。



「ババアかよ」マドレーヌを焼く部署に配置された私を見るなり社員である班長が舌打ちをした。後で聞いた話によると、その日カヨちゃんを含め、ハケンは初めて単発で来た学生と私の三人だった。カヨちゃんはパートさん達に気に入られている包装部門と決まっている。残されたのは初心者とベテラン派遣の二人。その配置をどこにするかで部署の班長間でくじ引きを行ったらしい。それで私がこのオーブンが立ち並ぶ釜場に来たのだが、班長は機敏に動く若い可愛い派遣をご所望だったようだ。私もまだババアなどと呼ばれる年齢ではないと自負していたが、学生と比べられたらそんな自負も粉微塵だ。思わず「すみません」と口にしてしまっていた。
「モタモタするなよ、ハズレくじ」班長のキツイ冗談に、周囲からはクスクス笑いが漏れる。
私たちのような日雇い派遣はパートやバイトとは違って、毎回就く仕事場も作業内容も違う。業務の流れなどに着目する余裕もなく、その日その時指示されたことを淡々と行っていくしかない。生地を混ぜたり型を切ったりする機械の音に自分を落とし込ませて反復作業を行う。機械が行わない部分を私たちがフォローしているだけなのだ。当然機械と同じようなスピードとクオリティが要求されるが、極端な話、その要求に叶う手さえあれば誰でもいい。そんな部品のようなハケンならば、老朽化したものよりは新しいものの方が良いといったところか。機械のような結果を出すには私というハケンは疲弊していた。その日の作業を終えて私服に着替える時、私から出る臭いは更に腐敗が進んでいた。こんな臭いを発する錆色は、早く私の中から追い出さなければいけない。
次の日はまたカヨちゃんのいる包装の部署だった。私が安西さんとともに慣れ親しんだ部署だ。カヨちゃんが来てからは彼女が重宝され、それまで私がやっていた商品を袋に詰めるなどの重要な作業は私には任されなくなった。「ハケンさん、床掃除して」「ハケンさん、番重拭いといて」「ハケンさん、段ボール作ってて」無論、どれも業務には必要な仕事だ。ただ、彼女の周りにはいつもにこやかな社員やパートがいて、私には厳しい声色とハケンがちゃんと仕事をこなせているかの監視の目が配られている。彼女よりも長く一緒に仕事をしてきたのに初めて来た頃と仕事内容は変わらなくなった。交わす言葉は作業指示と「お疲れ様」の一言だけだ。私は箍が外れたのだろうか、欲しくなった。「ハケンさん」と呼びつけて私に指示を下した後、楽しげに作業を始めた彼女たちにこう言った。
「あの、私の名前、知ってますか?」私の中で何かが壊れそうになっていた。皆、何を言い出すんだという目をこちらに向けた。
「知ってるわよ。川村さんでしょ?川村幸江さん。だってリストに載ってるもん」パートの一人が答えた。その後に「なに、名前で呼んで欲しいの?」と誰かの声が続くと全員が笑い始めた。嫌な笑いだ。「サッチーって呼ぼうか」などと言っては笑う。その笑いはどれ一つとっても全てが相手を愚弄しており、私は瞬時にして嘲弄の的となってしまった。私はしまったと思った。こんな連中に何を期待したんだろう。こんな連中に私の名前を口にして欲しくはない。聞いただけで反吐が出そうだ。そんな名前は私の名前じゃない。私の名前を呼んでいいのは侑大のあの声だけだ。侑大のあの、私を可愛いと言ってくれた優しい侑大の優しい声だけだ。私は顔を真っ赤にして叫んだ。
「呼ばなくてもいいです」
そして手袋を脱ぎ捨て作業場を飛び出した。トイレで少し気持ちを落ち着かせた私は事務員に気分が悪いので早退すると告げて、逃げるように工場を後にした。溢れ出る涙が悔しさを倍増していく。私はバスの中でこの頭いっぱいに占拠した感情を忘れようと努力した。しかしその感情は私の中で鉄壁の被膜に覆われ、車窓の外を流れる川やイヤホンから注がれる音楽も、最早その中に入り込むことは敵わなかった。侑大の「今の俺は家から一歩出たら派遣Aなんだ」という酒に任せた呟きが胸を掴む。その時は「あんたが派遣Aなら、私はさしずめ派遣Bってとこだね」などと笑い合ってはいたが、彼もきっとこんな感情を持ち帰らざるを得なかった夜があったのだろう。それだからこそ私と繋がった。繋がってくれた。安西さんは電話の向こうで泣いていた。仕事が減ったら食べていけないと怯えていた。派遣だって食べないと生きていけないのにねと私は慰めた。みんな、同じ派遣同志で繋がることで自分の尊厳を保持していたのだ。ハケンは、生き方に不器用な者が流れつく吹き溜まりのようなものかも知れない。こんな仕事の仕方を子供の頃の自分は想像し得なかっただろう。傷を舐め合い身を寄せ合って繋がった細い横の管は有機的に鼓動して私たちに血液があることを自覚させた。お前は決して、電流やオイルで動いているのではないのだぞと教えてくれた。
いま、その管が、ゆく宛のない血液によって風船のように膨らみ、張りつめて、今にもはち切れそうになっている。



翌週、塩梅よく洋菓子工場への派遣仕事に有りついたハケンBは、休日を利用して買い求めた大量の粘着式のネズミ取りを部屋の床一面に敷き詰め、メモ用紙で作った小さな紙包みを大切にバッグに忍ばせると家を出た。初夏の朝陽はBの少し浮腫んだ瞼に痛い。店先に箒を掛ける商店主。バス停に並ぶサラリーマンや学生。優しすぎるぐらいに何の変哲もない朝だった。白い上下のユニホームは、白髪や耳や首まで覆う衛生帽も、刻まれ始めた豊齢線を隠す大きなマスクも、彼女が放つ臭いも周囲に気付かせることなく完璧なハケンにしてくれた。優しい朝に見守られながらBは働いた。機械たちが軽快なビートを刻む中、Bの指先もまた、関節を軋ませながら鉄板の上に確実で端整なマドレーヌ型の列を生み出していく。アルミ製のマドレーヌの型はギザギザと歯車のように肩を寄せ合い、コンベアー上に並べられた四角い鉄板上を埋め尽くし、それはまるで天の川を巡る星々の集団のようでもあるし、この世には見られない幻想的な花園のようでもあった。Bの手元はそれをリズミカルに創り出してゆき、昼休みを告げるチャイムが鳴るまで、それは淡々と続けられた。
誰とも口をきかず、昼食を早々に切り上げたBは、休憩室で賑やかにお喋りに興じるカヨちゃんやパートさん達を尻目に、一人ロッカー室に入っていった。自分の荷物の中から例の紙包みを取り出すと、三つ折りに折り上げたズボンの裾の中にそれを隠し持ち、そして急いで作業場へと降りていく。原料室のガラス戸越しに、中に誰もいないのを確認すると、素早く忍び込んだ。小麦粉の袋などが並ぶ棚の先に二つの丸い大きな攪拌機があり、そのうちの一つが静かな唸りを上げて生地を捏ね回している。Bはその前で紙包みを取り出すと、幾匹もの白蛇が絡み合うようなそのうねりに向けて、銀河色の粉を振り入れた。青く光るその魔法の粉は白蛇たちを染めるほどには多くはなく、すぐにそのうねりの中に呑み込まれていった。しかしBにとってはそれでよかった。それで充分なのだった。あの毒々しいまでに青く光る物体が、これから一体何を引き起こすのかは分からない。誰かを昇天させ救い上げるかもしれないし、または誰かの富を奪い去るのかも知れない。或いは何も起こさず、誰にも知られずに消えていくのも一興だ。そのどれもがヒトの有り様に似ているなと思う。
午後の仕事をBは楽しんだ。誰とも口を利かずとも、社員やパートの冷たいあしらいなどがあろうとも、どんな作業も指先が踊り出さんばかりに浮き足立っていた。白蛇色のマドレーヌ生地は思惑通り抽出機に移され、機械のノズルはBが設えた銀のアルミカップの花々に順繰りに舞い降りた。カヨちゃんたちがいる部署の一番旧式の包装用機械がサッチーと名付けられたのを知った。なんでも、しょっちゅう臍を曲げて動かなくなるからだそうだ。そんなこともBの今日の行いを正当化するには充分だった。
甘い匂いを漂わせ、もうすぐそのマドレーヌは焼き上がってくる。その銀河を孕んだマドレーヌを彼女たちが袋詰めをすれば全ての計画は成功したも同然なのだ。
Bは寒い地方に残してきた両親を想った。上京して以来長年勤めていた会社が潰れ、次に就いた職場では惨めな思いをして辞めた。運悪く世間は景気が低迷し、新たな仕事に就こうにもなかなか就職には至らなかった。貯金は底を突きかけ、仕方なく日雇いの仕事を始めた。仕事に行くにも交通費が時給を上回ることさえあった。仕事の少ない時期は早い者勝ちで、貯金はすっかり使い果たした。カビの中から売り物になりそうなオレンジを見つけ出し、磨いては袋詰めをした。指先を切っても商品を血で汚すなと罵倒されながら贈答用の酒瓶を化粧箱に並べた。重機に体を挟まれ半身不随になった仲間を記憶から消し去り、刹那刹那しか見ないように視野を狭め、働くことを生命維持装置のように生に直結させて、そうやってどうにかこうにか手に入れた一日僅か数千円の賃金から家賃や生活費を捻出する日々。振り返ると自分はそこから出られなくなっていた。畑仕事をしていた母の手に今の自分の手は似て来ているなと思う。ただ違うのは、自分は誇りを失くしたハケンという個体になってしまったことだ。ハケンはハケン同士で繋がっていないと自分自身を失う。錆びてくる自分に怯えながらも一心不乱に社会の底辺を回す歯車の一つになってゆく。そんな自分自身を失くしそうになっていた時に現れたのがハケンAだった。
BにはAが輝いて見えた。この谷底から救い上げてくれる救世主に思えた。ふたりは互いを生身の人間として受け入れた。あの日もサイレンの音を耳にするまでハケンBはAの亡骸の胸に顔を埋めていた。泣いていたのではない。壊れそうになっていた自分を窮地から救い出し、律してくれた人間の、その失われていく生身の人間のその匂いを貪るように吸い取ろうとしていたのだ。しかしAの胸元からはもうあの匂いはしなかった。温かい汗の匂いではなく、何と言えばいいのだろう、例えば生肉の匂い、そう、精肉工場のあの匂い。絞められ、皮を剥がれたばかりの豚の匂い。或いは産婦人科の処置室で嗅がされたあの匂い、羊水の中から掻き出されたあの子供の、いや、あれは子供などではない。あれは肉片だ。ボロボロになった肉片だ。口の中で噛みしだかれた肉片だ。あの肉片を浮かべていた羊水の…女の羊水の、あの匂い。愛のある匂い。愛から発せられた匂い。こんなバニラと砂糖と小麦粉と幾度となく焼き締められた鉄板や排水口の匂いなど遠く足元にも及ばない究極の愛の匂いだ。
 Bは救世主を失ったことを悲しむ自分を憎んだ。
 ふたりの愛の結果も手放さざるを得なかった自分を憎んだ。
 そして、Aに夢を捨てさせた愛を憎んだ。
繋がりを求め張り巡らされた毛細血管にBは独り取り残され、黙々と働いた。

マドレーヌは排熱室に運ばれた。
三十枚程の鉄板を乗せた鋼鉄製のラック棚ごとオーブンから出されたマドレーヌは、ここで風を当てて余熱を取った後、包装の部署に回される。Bはそれを今か今かと待ち焦がれていた。今日の仕事は楽しい。本当に楽しい。
カヨちゃんがやってきた。カヨちゃんはBの姿を見つけるなり目尻に勝ち誇ったような笑みを零れさせ、排熱室から鉄板を満載したラック棚を引っ張り出すと、意気揚々と釜場から去っていった。その、こまっしゃくれた姿が見えなくなった直後、包装作業場の方から激しい悲鳴と怒号と金属のぶつかり合う音とが響いてきた。何があったのか、Bは手を止めて現場の方へと駆け寄った。
そこには、倒れ込むラック棚とそれを受け止め唸りを上げる包装用機械のサッチー、そしてその隙間に頭を抱えてしゃがみ込むカヨちゃんの姿があった。他の作業グループがこぼしたザラメに足を取られたらしい。
傾いたラック棚からは次々と鉄板が滑り落ち、黄金色のマドレーヌを周囲に撒き散らかしながらコンクリートの床に叩き付けられていく。何枚もの鉄板が床に叩き付けられバウンドを繰り返すその様は、まさにドラムの狂乱そのものだ。夜の公園でAのギターから流れる出る曲のその背景を彩る音、音、音、音。どういうわけか包装機械からは包装フィルムのロールが外れて弾け飛び、まるで紙テープのように大きく弧を描きながらBの足元へと転がってきた。それはさながらラストコンサートの様だ。Bは見事にそれを再現してくれたカヨちゃんの無様を見て笑い出した。腹が捩れユニホームから腐れ切った臭いが漏れ出た。瞳からは涙が噴き出す。こんなに可笑しい茶番があったものか。ああ、侑大が死んで以来、初めてわたくしハケンBは笑っている。なんて愛しい笑いだ。それに引替え侑大は優し過ぎる。お人好しなぐらい優しい男だ。
そうだ、今頃部屋では私たちの朽ちかけた希望を腹に収めたあの間抜けな鼠が、錆た臭いを撒き散らしながら粘着罠の上で渾身のシャウトをキメていることだろう。

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