いつかの少年と、いつかの老人
梅雨も明けて夏本番、待望の屋外プールがついにオープンした。毎年この季節になると、休みの日は可能な限り屋外プールに通う。電車で数駅かかるが、緑深い公園の一角で、日頃の都会の喧騒を忘れるにはうってつけの場所だ。
開業は1930年、昭和5年というから、かなり歴史のあるプールだ。施設が古く、ロッカーがかなり小さめなのは難点だが、ルールが緩めで、何かと細かい規則が幅を利かせる近頃において、昭和の良い意味での適当さを感じることもできる。
受付のおじさんやおばさん、アルバイトであろう若者たちも、押し付けがましくない丁度よい明るさで迎えてくれて、とても心地が良い。
最寄り駅からそこそこ歩くため、火照った体を冷やす意味でもそれなりに泳ぎもするのだが、最大の目的は日光浴だ。
夏の強い日差しを、肌にジリジリと感じる、あの感覚がたまらなく好きなのだ。日照時間が少ない国ではうつ病になる人も多いらしいので、太陽の光を求める心身が歓喜しているのかもしれない。
プールサイドには階段状の休憩スペースが設けられており、そこからそれぞれの楽しみ方で夏を満喫する人々をぼんやり眺めるのも小さな楽しみだ。
家族連れやカップルで大きな浮き輪に乗って楽しむ人たち、ストイックにひたすら50mの距離を往復する若者、決して泳ぎが上手いとは言えないが、一つひとつの動作をじっくりと味わうようにゆったり泳ぐ老人。
タトゥーがある人はラッシュガードなどを着用してね、と一応注意書きがあるものの、一切構わず見事な彫り物を披露している人もいるし、周りも特に気にしていない。
外国人も多く、同性で愛を育んでいるであろう人たちもいる。まさに多様性天国、夏の太陽のもとでは皆平等なのだ。
開業以来100年近くの間、どれだけ多くの人がここで夏のひとときを過ごしたんだろうと、ふと物思いにふける。
ゆっくりフォームを確認しながら泳ぐあの老人も、昭和5年にはまだ生まれてもいないだろう。子供の頃から通い続けている、思い出の場所なのかもしれない。
思えば、これまで生きてきて常に老人を目にしてきたが、その老人はずっと老人だったわけではない。当たり前過ぎるほど当たり前のことだが、その老人も今の私と同じ年代だった時代があり、学生時代があり、子供の頃もあった。
恋に破れ涙した日もあっただろうし、理不尽な要求を突きつけられて怒りに震えたこともあったかもしれない。子どもが生まれて感動の涙で嗚咽したかもしれないし、人生の来し方行く末に思いを巡らせ、途方に暮れたかもしれない。
普段何気なく過ごしていると、街行く人はただの風景でしかないが、こうしてゆったりした時間の中で眺めていると、一人一人が生き生きとした人間に見えてくる。
それを感じることができる自分もまた、一人の人間としての形を取り戻せるような、そんな感じがする。
みな生まれた順番に、子どもから大人になり、年老いて死んでいく。
うっかりすると、自分はその流れの傍観者で、いつまでも今が続くように錯覚してしまうが、自分もしっかりと着実に、日々年老いてきている。人生の夕焼けチャイムも、そろそろ鳴り始める頃だろう。
少年だった私が今の私を見たら、どう感じるだろうか。思い描いていた人生とは違うけど、まぁ悪くはないと、言ってくれるだろうか。今の自分は、自信を持ってこれまでの人生を語ってあげられるだろうか。
老人になった私はどうだろう。今のままで良いのか、何かこのままではまずいのか。頼りなくさみしげな眼差しで見つめている気もするし、このまま歩いていけば間違いないと、力強く背中を押してくれる気もする。
まったりとした穏やかな頭の中とは裏腹に、プールサイドは夏の太陽を吸収し、火傷してしまいそうなほどだ。タオルを敷いているものの、お尻も足の裏もそろそろ悲鳴を上げ始めている。
バタフライは一向に上達の兆しが見えないが、Youtube先生から学んだコツを、とりあえず試してみよう。