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まだ見ぬ朝日と黒い犬

 死角から車が飛び出してきて、考えるよりも先に右足がブレーキ・ペダルに伸びている。ダイハツのミラが「ぎゅっ」と何かを絞り出すような音を鳴らす。手は汗ばみ、鼓動は急速に早まっていた。

 わたしは大学3年の時、免許を取ってすぐに車を買った。わたしの住んでいた町の駅は小さくて、23時頃にもなるといそいそとシャッターが降ろされる。一番近くのマクドナルドは徒歩35分で、住んでいるのは高齢者と僅かな核家族、残りを学生が占めるような町だった。人口3万人。航空障害灯はなく、山や湖や渓流の上空を飛行機が気持ちよさそうに通過していた。
 だから日々の生活を快適にするために、学生たちには車が必要だった。車を持っている同級生は神のように崇められた。わたしも永遠に思えるような大学3回目の春休みに、崇める側から崇められる側へと変貌を遂げ、初心者マークも順当に日に焼けて色褪せていった。

 さっきの「一歩間違えたら死んでいたかもしれない瞬間」のことが、半歩遅れの実感を伴いわたしに襲い掛かってくる。ハンドルを握る手のひらはまだ少し湿っていた。車を運転しながら考えることがすきだった。
 わたしはさっき近所のJAの駐車場から反対の車線に合流しようとしていた。でも手前の車線が混んでいて反対車線の動きが見えず、車の流れが切れた瞬間に「行ける」と思って飛び出したら、シルバーのセダンとぶつかりそうになった。わたしはその車のことが、直前まで見えなかった。信号が青になり、方向指示器を点滅させて左折する。

 「見えなかった」って、なんだろう。

 相手の車は、わたしの世界に数秒前まで存在していなかった。でも見えるものとして実体を伴い、わたしの視界に突如として現れた。見えないものは見えるものになった。最初、その車は見えるまで「見えないもの」であり、この世界に「存在するもの」の可能性を持ちながら、当然として「存在しないもの」でもあった。でもミラの鼻先を掠めたことで、それは「見えるもの」に変わった。その対象の存在を把握することが「見えるもの」、つまり「存在するもの」なら、その車がやがてわたしの視界から消えても、実体を一度見たものは「見えるもの」としてわたしの認識下の中には在り続ける。

 「見えるもの」とは、知っているもののことだ。雲も星も川も月も、今この瞬間は見えていなくても、存在を知っているから「見えるもの」だ。初めて行くマクドナルドだとしても、駐車場の裏にはドライブスルーがあると知っていて、建物の裏で小さな窓を開けて注文を取る店員さんがわたしたちには「見えて」いる。曇りでも北極星の位置さえわかれば星座の予測がつく。それは物理的な意味の「見える」とは少し異なる。

 じゃあ「見えないもの」とは、わたしがまだ知らない事象の総称なのだろう。
 将来への茫洋とした不安は、自分の身に何が起こるかを「知らない」ところを起点とする。無知は恐怖をかたち取る。それが知識で補えるなら恐怖の対象について学び、知見を深めれば良い。でも未来のことはわからなくて学びようがない。見えないものはただただ怖い。それは死角にいるセダンのように。

 長時間運転すると退屈したり眠くなってしまうから、少し座る角度を変えてみる。ルーム・ミラーの角度を左手で調整する。死角に流れていた後方の看板や反対車線のブレーキ・ランプが、たしかな色彩を伴いわたしの視界に顕現する。

 見えるものと見えないものは、どっちが先に誕生したのだろう。見えるものがあるから、見えないものが定義できたのだろうか。見えて初めて、見えないものの存在に気づいたのだろうか。見えないものは何も起こっていない状態で、同時に何もかもが起こってしまった状態であるという、一見矛盾する要素を無理なく抱き合わせる。何かが起こってしまった状態を確認するためにはそれを「見る(これは「知る」に置き換えて良い)」必要がある。そう考えれば、世界は「見えないもの」を始点として始まったのかもしれない。見えないものとは、まだ見ぬ朝日のことだ。見えないものには無限の可能性といくつものパラレルな結末がある。

 「見えないもの」は外の世界だけでなく、内側の世界にもある。

 わたしはTwitterをやっている。Twitterが大すきで毎日ずっと見ていたい。運転中もずっと見ていたいけれど危ないから我慢する。そこでフォローしている人のプロフィールを何気なく見ていて、たまたま書かれていた一文が目に入った。はじめは数多のテキスト・メッセージの洪水に埋もれ、忘却したつもりでいたけれど、ふと一息ついたときに頭にこびりついて離れないことに気づいた。

 黒い犬(@kuroiinu_0)さんの 

「あなたの中の黒い犬を愛せますか」

という一文。
 なんの説明もなくただ一文、そう書かれてあった。
 そもそも、黒い犬って何だ、と考える。運転している時はひたすら、考える。「黙」という漢字は黒い犬と書いて「黙」だから、その犬はたぶん言葉を発さない。わたしの中にいる黒いものと言われれば、わたしは負の感情をイメージする。黒い犬は、その輪郭をなぞって生まれた空想の生き物なのではないか。いわばもう一人の自分。自分の中にある、ネガティブで嫌な感情を煮詰めた黒い犬。わたしはそれが嫌いだ。できればリードを外してどこか遠くへ逃がしてやりたいけれど、リードの外し方がわからなくて、だからその犬を両手で抱えて今までずっと生きている。尻尾を振ったり舌をだらしなく垂らしたりはしない。可愛げのない犬。

 そんな黒い犬をお前は愛せるのか、と問われている。わたしにはそれが見えないし、吼えたりしないから身体のどこいるのかわからない。その見えないものと、一生付き合う、愛する勇気が果たしてわたしにはあるのだろうか。無限の可能性を帯びた見えない犬を愛することなど、果たしてできるのだろうか。

 でも、とそこで気づく。ミラが止まる。今度はやさしくブレーキ・ペダルを踏みこむ。難しく考える必要もないのかもしれない。

 その犬を、わたしは知っている。たとえ見えなくても、その犬がわたしの中にいることは知っている。知っているということは、恐怖に打ち勝つ勇気を持っているということだ。

 それに、犬はかわいい。だからその犬がなに色だろうと、わたしは、わたしたちは、きっと愛しちゃうね。

  愛せちゃうよね。

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