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「哲学と宗教全史」でショックを受けてしまった話。

本当は昨日書こうと思ってたことを書きます。

先日、友人と3人でおしゃべりしていた時。
「3人それぞれが、持ってる知識とか勉強したことを講義しあうの、面白そうだよね」
という話になった。

心から、ワクワクした。楽しそう。
自分が勝手に勉強していることを、「誰かに説明する」っていう目標ができたし、アウトプットの機会になるし、2人は確実に、興味を持って話を聞いてくれる。私は2人から、私が知らないことを教えてもらえる。

その話の流れで、私が講義するならキリスト教だよね、ってことになった。別に日程や方法を決めた訳ではないけど、めちゃめちゃやる気になった。


私はクリスチャンホームに生まれた。両親ともにクリスチャンで、毎週日曜日は教会に通う家。

私とキリスト教の話は、また改めて別の記事で詳しく書こう。ちなみにはてなブログの方には書いているので、よければぜひ。↓

(私のはてなブログで、一番誰かのためになった記事だと思う。)


超簡単に言うと。

・物心ついた時には既に教会、神様は当たり前の存在だった。
・小さい頃は、超信心深い子だった。
・中高は、キリスト教学校の一貫校に通った。
・中1で洗礼を受けて、クリスチャン(信者)になった。
・中3頃から、キリスト教に対して疑念が生じ始めた
・高校卒業&一人暮らしを機に、教会へ通うのをやめた。

って感じですかね。

疑念が生じ始めた理由は、たくさんあります。たくさんが積み重なって、決壊してしまったんでしょうね。(詳しくは↑のブログで。)

嫌いだわ!!ってなったんじゃなくて、「嗚呼、キリスト教も数ある宗教のうちのひとつなんだな」って思ってしまったんですね。それまで私は、「キリスト教こそが唯一で絶対である」と信じて育ってきた訳ですから、すごい、ショックでした。

で、そう思った理由を2つ言うと。

1つ目。それは、キリスト教学校ならではの授業、「聖書」の時間でした。キリスト教学校では、「聖書」を「道徳」の代わりにしていい、となってるんですね。それもどうかと思いますが。

聖書を勉強します。多分、牧師になるための神学部に行った人たちが学ぶような内容で、普通に教会で育っている子供であれば、聞くことはなさそうな内容です。いや、最初は、「主の祈り」を覚える、とか「十戒」を覚えるとか。簡単な内容で。教会で過ごした私に取っては超楽勝で。周りの子たちに対してアドバンテージを持っていることが嬉しくもありました。(キリスト教学校とはいえ、クリスチャンは学年でも学校でも私一人くらいでした。)

確か、中3の時だったと思いますが、聖書の成り立ちについて学びました。

先生は淡々と話します。

「創世記は、○○時代に○○民族によって」
「ノアの方舟は、○○時代に○○民族によって」

「作られました」

冷静に考えると、普通の話です。でも、当時の私にとっては衝撃でした。
教会に通う小さい子供は、旧約聖書も含めて、「聖書に書いてあることは実際に起こったことなんだ」としか思ってないんです。そう、思って生きてきて。流石に成長すると、おかしいな?と思うこともあります。でも、注目しないようにしてた。曖昧なままでいようと無意識にしてた。

だって教会では、誰も教えてくれなかったから。


でも、作られた。創作された。史実ではなくて。そう、授業で習ってしまった。
そのこと自体も、面と向かって伝えられて、ショックだったし、今までそのことを教会の誰も教えてくれなかった、ということもショックだった。

(※宗派や、信者によっては、「聖書に書いてあることは本当に起こったことである」としている場合もあります。)


これが1つ目。


2つ目は、私の大好きな世界史の授業。

当時はSound Horizonに出会って、ギリシア神話にハマっていたので、古代文明あたりはすごく楽しくて。出エジプトとかユダヤ教の成立あたりも、知ってる知ってる、と思いながら聞いていて。

そしたら、出てきたんですよ。ゾロアスター教が。

知ってますか。ゾロアスター教。普段はあまり取り上げられることはありませんが、本によっては最古の宗教だとも書かれています。自然崇拝とかではなくて、教義があるような宗教ということで。

世界史の教科書には、こう書いてあります。

ゾロアスター教(拝火教)は、この世を善(光明)の神アフラ=マズダと、悪(暗黒)の神アーリマンとのたえまない闘争と説き、人間の幸福は、光明神の恩恵をえて、最後の審判により楽園にはいることに当たるとした※1。

※1:この教えはユダヤ教やキリスト教にも影響をあたえたとされ、(後略)


簡単に言うと、ユダヤ教やキリスト教は、ゾロアスター教の影響を受けている、と。終末思想はゾロアスター教から取り入れたものである、と。

終末思想って、結構ユダヤ教とキリスト教において、最重要くらいのものじゃないですか。いつか世界が終わって、その時に審判が下されるから、、、って。

それが、他の宗教の影響なんだ、って。

私が今まで唯一で絶対だと思っていたものはそうではなくて。他の宗教の影響を受けてるんだ。なんで、誰も教えてくれなかったんだろう。


この2つの出来事が、必ずしもメインという訳じゃないけど、私が離れるに至った要因の中で大きな位置を占めているのは事実。


今では、キリスト教も宗教の一つ、と捉えつつも、やっぱりどこか懐かしいような親しみやすいような気がしてしまう、なんとなく距離が近いもの、という感じです。

世界史とか哲学を勉強すると、宗教ってやっぱり大事で関係性が強いもので。その前提知識としてキリスト教を知ってるのはいいことだな、と思うし。誰かに聞かれて答えられるのも嬉しい。


で、やっと昨日の話になるんですが。

友人に講義するために勉強しよう!と思って。考え始めたんですが、まず粒度の問題がある。何をどの程度詳しく話すべきなのか。いや、そもそも二人は何が知りたいのか。

ということで二人にヒアリング。ってか現状、何を知ってる?何を知りたい?と聞いてみました。

これとこれは知ってる、っていうのと、聖書について知りたい!と。

私は「キリスト教について教える」となると「歴史!!!」っていうイメージが強かったけど、そっか、聖書の内容も普通は知らないし、知りたいのか〜と目から鱗。これは単元が複数できそうだな、と思いつつ。

やっぱり、歴史としては大きな流れだろうな、と。細かい、教義についての公会議とかアタナシウス派とか、じゃなくて、これまでどんな流れをたどってきたのか、をできるだけ簡単にまとめたいな。それを聞いて、また二人が詳しく知りたいって思ったことを、私がさらに勉強して、また教えたらいいんじゃないかな、と。

で。簡単な大まかな流れを書いてみて。

「…そもそも、ユダヤ教の説明が必要では??」

となったんですよね。私も上手く答えられる自信がないし。簡単に調べて1ページくらいでまとめてみよう!と思い。

今家にある本やらノートを集めて、色々と見てみました。ちなみにユダヤ教についてはまだまとまってません。

で、最初に思ったのが、前回投稿した、「キリスト教って2000年の歴史なんだな」ってこと。

旧約聖書はあくまでユダヤ教の話であって。イエスが始めたのがキリスト教で。キリスト教は始まってからは2000年だな、っていうのがなんとなく新鮮な気持ち。私にとっては旧約聖書含めてキリスト教だったから。

で。
手元にある本で、これ読まないと語れないよな、っていう本があって。

これですよ。「哲学と宗教全史」。

全史っていうくらいだからもちろんキリスト教についてもユダヤ教についても載っているでしょう。と、開きました。

そうしたら。
「キリスト教語るなら、まずはユダヤ教からだよね!」というモードだった私に突きつけられる、「どっちもゾロアスター教の影響!!!」説。

正直、忘れてた。それがキリスト教から離れた要因の一つではあったけど、まじで忘れてた。キリスト教入門の本にも書いてなかったしね。。。


「世界最古の宗教ゾロアスター教がその後の宗教に残したこと」

っていう章題。なんとなく、読むのが怖い、と思っちゃった。なんでだろう。もう知ってるはずなのに。1回、ちゃんとショックを受けたはずなのに。

怖かったけど、読んだ。
終末思想や直線的な時間軸だけじゃなくて、洗礼、もゾロアスター教が始めたこと。そっか。洗礼もか。信仰告白もか。

ゾロアスター教が始めたことは、いろんな宗教に影響していて、今もその名残がある。


それから、私が知らなきゃな、と思っていた「旧約聖書の成立」についても書かれていて。

こういう経緯で、アイデンティティの為に、教義が必要だった、とか。ダヴィデもソロモンも実在しないというのが現在の通説だ、とか。旧約聖書の中でも創世記が最後に書かれた、とか。

色んなことが、淡々と、書いてあった。「淡々と」という印象を受けた。この人は、これが当たり前で、普通のことのように、感情もなく、淡々と語っている。


知ってた。
ゾロアスター教の影響を受けていることも、旧約聖書のどこかしらは創作された物語であることも、知ってた。

知ってたのに、また、あの時ほどではないけどショックを受けた。

知れてよかったし、勉強は楽しい。けど。
なんだろう。この人は本当に、宗教の中では生きていない人なんだな、と思った。

私は、今だから読める。まぁ、だから、私は今、この本に出会って、買って、読んだんだと思う。

けどこの本を、例えば何も知らずに熱心に通っていた頃の私が読んだら。今も同じように、何も教えられずに教会で育った人が読んだら。どう思うんだろう。

それはとても非情なことのように感じた。残酷だ。

私はショックを受けた当時、「教会は子供たちに何も教えない!!教えるべきだ!!」と若干憤っていたけど。なんだろう、この本はすごく、残酷だ、と感じた。

著者が嫌いとか、書き方が悪いとかでは全然なくて。むしろ難しすぎずわかりやすくまとめられていて、とても素敵な本だと思う。哲学と宗教を知りたい人にとっては。

でも、「この人は、キリスト教徒が読むかもしれない」ということは考えてないんだな、と思っちゃった。思っちゃった、っていうのは、意に反してというか、不本意にも、というか。本当は、別にいいでしょ、ってことだし、むしろ私としては「キリスト教徒は知るべきだ」というスタンスだったはずなのに。そういう感情も湧いてしまったと。

うん。少し、ごちゃごちゃした気持ちになった。

まぁでも冷静に考えて。実は教会の大人はこういうことも勉強してるのかな?と思ったり。私は高校生までしか通ってないから、大人の勉強会には参加したことなくて。私のイメージでは、聖書の箇所について感想を言い合ってるんだと思ってたけど、実は勉強もしてるのかも。ちょっと、実際に教材にしてるものを手に入れたいな、と思った。

私の教会にも、「本当は"キリスト"じゃなくて"クリスト"なんだ!」とか口うるさく言ってたおじさんいたし。聖書の成り立ちとか勉強してたのかな。

私が考えてるのは、

キリスト教って、何かで迷ったりした時に立ち返る原点は聖書なんだよね。そりゃそうでしょ。聖書から学んで、聖書に教えを乞うて、言葉をもらって。聖書が基本なはず。すごいルターみたいなこと言ってるわ。その、原点というか軸である聖書というものの正しさというか、絶対性、っていうのが、私の中で揺らいじゃったんよね。

そりゃ、数千年の歴史で、手書きで書き写してたから間違って伝わっちゃった、とか、翻訳がおかしかった、とか、そもそも最初は口伝だった、とかで変わっていっちゃうことはあっても、だから元はこうだったんじゃないか?の推測はあって、それは受け入れられたでしょ。でも、そもそも話が作り話だったら、それって、人間が作ったものであって。それなら別に仏典でもいいじゃない、ってなったんです。

うーん。話がまとまらない。


残酷だ、とは思った。この本を読んで。
でも、心から信じてる人は、この本をそもそも手に取らないかもしれないな、とも思った。

哲学とか宗教学に手が伸びるのは、疑念を持ち始めた人だ。

ここまで書いて私は、この記事も、その本と一緒で、残酷になってしまったんじゃないか、と1ミリくらい危惧した。

でも多分、本当に信じてる人は強いから、大丈夫でしょう。私がひどくショックを受けたのは、そもそも私に疑念があったから、潜在的に、「おかしいんじゃないか」って思うところがあったから、突きつけられたきっかけで決壊しただけ。

この話を聞いても、乗り越えられる人もいるし、そもそもこの話自体を信じない、今まで信じてきたことが真である、とする人もいるだろうな、と思う。

結局私は、このままで、変わらず勉強していこ。勉強は楽しいからね。

なんとなく。この記事が誰かに届いたらいいなと思います。



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