防災的自立が出来ていない事に気付く。
前書き
ようやく更新した2本目だが、相変わらず文章を書くのが苦手だ。
理路整然としていない構成で違和感を感じるかもしれないが、読んで頂けると嬉しい。
以下本文
学生の頃、避難訓練というものが定期的に実施されていた。
私の通っていた学校では以下の手順で実施されていた。
1. 学校中に災害が起きた事がアナウンス(地震が発生した・火災が発生したなど)される。
2. その場で身の安全を確保する(机の下に入る・出入口を開けるなど)。
3. 体育館やグラウンドに集合し、点呼を取る。
4. 先生が全体に向けて総括を話す。
多くは地震や火事が発生した際、迅速に避難行動が取れるようにする為の訓練であり、
これは地震が多い日本ではマストで必要な行事と言える。
しかし私は昔から避難訓練が好きではなかった。
なぜなら
1. 事前告知による緊張感の無さ。
2. 状況が同じの為、新しい発見が少ない。
3. 避難にかかった時間が早いか遅いかを伝えるのみの為、次回以降に繋がらない。
といった理由である。
要するに同じことを繰り返すのみで、2回目以降の必要性を感じていなかったのだ。
もっと言えば、それに対して何も感じずに淡々とこなす周囲の人間を見下してすらいた。
そんな考えを持ちながら高校を卒業した私だが、それとは別でこんな事があった。
一年ほど前に東京23区に台風が直撃した事があったのだが、
その時に好きだった子がちょうど23区住みだったこともあり、
その子に『台風大丈夫だった?何か困った事あったら力になるから何でも言ってね!』
という内容のメッセージを送る妄想をしていた。
しかしその時、相手から『気持ちはうれしいんだけど、貴方に何が出来るの?私は貴方の自己満足に付き合わされているだけじゃない?違うなら具体的に何が出来るか教えてよ』
という返事が妄想で来てしまった。(あくまで妄想で実際には言われていない)
そのメッセージに対して何も返す言葉が出ず、結果的にその子にメッセージを送ることは無かった。
妄想といえど、何も出来なかった自分に対して無力感を感じ、強めのショックを感じた。
冷静に考えた時に、避難訓練で学ぶことが無いと高を括っていた癖に
少し条件が変わると全く応用の効かない実力の無さに気づき、余計にショックを感じたのかもしれない。
学生というのは子供から大人への過渡期であり、学生生活を通じて
自立が出来るようにしなければいけない。
避難訓練における自立というのは、『なぜこういった方法で避難をするのか』と『別のシチュエーションでどう行動する』考えられる実力を付けることだと思う。
(ここでは防災的自立と名付ける)
つまり自分は防災的自立を目指すべきであり、学生時代の避難訓練の裏テーマがそれだと8年越しに気が付いた。
しかしそれだけだと、前述の好きな子からの返信は出来ないので
自主避難訓練の成果や防災に関する情報を広めていく活動も必要になると思う。
そんな活動を通じて大切な人が生き残る可能性が上がり、大切な人の大切な人が生き残る可能性も上がる。
そんな防災的自立が少しでも加速すれば嬉しい。
まずは自分の避難経路やハザードマップの確認をせねば。