ポップな文体で綴る女性アナキストの評伝〜『村に火をつけ、白痴になれ』
◆栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』
出版社:岩波書店
発売時期:2016年3月
大正時代のアナキストであり、ウーマンリブの元祖ともいわれている思想家、伊藤野枝。結婚制度や古臭い社会道徳を排撃し、大杉栄との「不倫」関係で世間を騒がせもしました。そして関東大震災のどさくさに紛れて、大杉と甥っ子の橘宗一とともに憲兵隊の手によって惨殺されました。
平塚らいてうの「原始、女性は実に太陽であつた」は今なおよく引用されますが、野枝の「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」というフレーズも忘れがたいものです。
本書は、アナキズムを専門とする政治学者・栗原康による伊藤野枝の評伝です。冒頭で「生きることすべてに、わがままであった」と述べていますが、栗原はそのわがままぶりに熱い共感を寄せながら、彼女の人生の軌跡をおっています。読み始めてまず気づくのは今風のポップな文体。
……東京にいきたい、東京にいきたい。とうぜんながら、実家にも自分にもそんなカネの余裕はない。どうしたらいいか。伊藤家家訓。貧乏に徹し、わがままに生きろ。カネがなければ、もらえばいい。遠慮しないで、おもいきりやれ。いつも遊んで、食べてねるだけ。いくぜ、東京。(p15)
こんな調子で、野枝の波乱万丈の生涯が綴られていきます。上京して勉学に励み、上野高等女学校に入学したこと。親の決めた結婚相手のもとからすぐに逃げ出したこと。在学中に思いを寄せていた辻潤との結婚生活のこと。平塚らいてうの青踏社に加わったこと。大杉栄と運命的に出会ったこと……。
青踏社時代に野枝が関係した三つの論争があります。貞操論争。堕胎論争。廃娼論争。それらはいずれもその後のフェミニズムや女性学につながっていくテーマでもありました。栗原は野枝に肩入れしながらその論争のあらましを総括しています。
貞操論争に関してのみ触れておくと、野枝の意見は、貞操という発想そのものが男たちの願望をかなえるために捏造された不自然な道徳にすぎないというものでした。これは正論ではないかと思います。
伊藤野枝の思想とは、端的いえば女性の生き方は女性自身が決めればよい、好きなだけ本を読み、好きなだけうまいものを食って、好きなだけセックスをして生きればよい、というもの。国家のようなものに依存していはいけない、相互扶助でいこう、結局のところ「無政府は事実」だというのです。
アナキズムの理想は、どこかとおい未来にあるんじゃない。ありふれた生の無償性。ひとがひとを支配したりせずに、たすけあって生きていくこと。それはいまここで、どこでもやっていることだ。(p150)
無論、彼女の考え方を全面的に受け入れるわけにはいかないでしょう。端的に「わがまま」だと思われる挿話はいくつも紹介されてもいます。そしてそれが国家の逆鱗に触れ、彼女の生涯は無念極まりない幕切れを迎えねばならなかった。
しかし同時に自由であること、自己決定することの大切さを教えてくれているようにも感じられます。「過労死」が一般化した現代社会では、なおさら野枝の考え方生き方は示唆的といえるでしょう。
「野枝さんはぶっ殺されてしまいましたが、その思想を生きるということは、わたしたちにもふつうにできることなんだとおもいます」──軽佻浮薄といって悪ければ自由な栗原の文体は、アナキスト伊藤野枝を語るにふさわしいものだと思いました。