悪政に利用されないための議論〜『スポーツウォッシング』
◆西村章著『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』
出版社:集英社
発売時期:2023年11月
スポーツウォッシング。「為政者などに都合の悪い社会の歪みや矛盾を、スポーツを使うことで人々の気をそらせて覆い隠す行為」を指します。
なるほど2021年の東京五輪開催時には、そのような言葉こそ使われなかったものの、五輪の目眩まし的な性格を指摘する声は少なくありませんでした。国際的なスポーツイベントが悪政の隠蔽に利用されることは人々の実感としてもよく理解できることでしょう。
その場合、スポーツはシンプルに感動や興奮を提供してくれるコンテンツとして人々に愛好されます。その嗜好を支えるのはもっぱらメディアです。
本書では、前半でスポーツウォッシングの概要を説明した後、後半では識者へのインタビューをベースにして議論を展開していきます。
ラグビー元日本代表で現在はスポーツ教育学の教鞭をとる平尾剛は、現役選手たちに対して「アスリート・アクティビズム」を提唱します。社会の出来事に積極的に声をあげようというわけです。
スポーツジャーナリストの二宮清純は、スポーツウォッシングを「国家や企業によるスポーツの目的外使用」と独自に定義して、型通りの議論ながら五輪における国威発揚や商業主義化を厳しく糾弾しています。本間龍は例によって大広告会社とテレビ局との関係に言及し、後者の無力を明快に指摘します。
スポーツ社会学を研究する山本敦久は、スポーツに政治的零度を求める傾向こそが「偏った政治」であると喝破したうえで「『スポーツに政治を持ち込んではいけない』という主張は、スポーツがスポーツ自体をスポーツウォッシングしようとする動きの典型例」だと言い切ります。
柔道家で筑波大学教授の山口香はスポーツの世界で積極的に発言を続けてきた一人。とくに印象深いのは、日本学術会議への政府介入問題への言及です。政府の姿勢を支持した少なからぬ国民の存在を意識して同様の問題が生じたときにアスリートが独立の行動をとることの難しさを述べているのは傾聴に値するでしょう。
振り返れば古代ローマの時代から「パンとサーカス」というフレーズが使われてきました。スポーツウォッシングとは、言葉こそ新しいけれど中身はそんなに新しいものではないでしょう。束の間サーカスに日頃の憂鬱を忘れようとするのは、社会に支配者が出現して以来の人間的な心性というべきかもしれません。もちろんそれに抗う理性もまた人間のものなのだと付け加えておきたいと思います。