子ども中心主義とポピュリズムを乗り越える〜『学力幻想』
◆小玉重夫著『学力幻想』
出版社:筑摩書房
発売時期:2013年5月
私たちは「学力」なるものに対して過剰にとらわれている。「学力幻想」が教育論議を呪縛してきた──。そのような基本認識から本書は出発します。
「学力幻想」を生み出してきたものとして、子ども中心主義とポピュリズムという二つの罠を指摘し、その二点を深く考察することで教育問題への新しいアプローチを提示する。それが本書の趣旨です。著者の小玉重夫は教育哲学の研究者。
子ども中心主義の罠とは、学ぶ者の側のみから学力を考えることにより子どもへの関心が肥大化して、教育における権威が喪失し、公的世界が解体していく危惧が生じることをいいます。小玉はハンナ・アレントの議論を下敷きにして、そのことを論じています。学ぶ側に焦点を合わせることは大切なことではないかと私たちは考えがちですが、それが過剰になると問題が生じるのです。
その罠に陥らないためには、学びの論理に還元されない「教える」ということに固有の位相をとらえることが必要になるでしょう。
ポピュリズムの罠とは、「みんなやればできる」という幻想=ポピュリズムを煽ることで、格差を生み出すメカニズムである「社会的競争ルールや社会構造自体」を覆い隠し、ペアレントクラシー(親の影響力)を強化してしまうという罠です。
この罠に陥らないために、小玉は「ペダゴジー(教育方法)」なる概念を導入します。これは英国の社会学者バジル・バーンスティンの議論に基づくもので、学力格差が拡大していく事態を「見えないペダゴジー」の台頭によるものとして論じたことで知られています。
以上、二つの罠を考察することで浮かび上がってくるのは、教える存在である教師や教えるという行為が行われる場としての学校が重要な位置を占めているという点です。
そこで小玉は新しいアプローチとして「ラディカルな見えるペダゴジー」とそれに関連するパフォーマンスモデルの再評価などを提起します。パフォーマンスモデルは「見えるペダゴジー」に対応するモデルで、学習者の達成(パフォーマンス)に強調点をおき、達成の基準が明確化されています。
それらを実現するための条件として挙げられているのが「カリキュラムの市民化」。それはすぐに「カリキュラム・イノベーション」と言い換えられています。このイノベーションを支える三つの視点を示して、本書の結語的な提言としています。
一つ目。誰がカリキュラムを決めるのかという問題。カリキュラムを決める主体は、国とアカデミズムだけでなく、地域や学校、市民などにも広げるべきではないか。
二つ目。どのようにして教えるのかという問題。英数国の主要三教科の学習者は、あらかじめ自立的に存在することを前提としてきたが、自立的な学習者の育成自体を課題にする中で、従来の教科学習のカリキュラムの構造そのものを組み替えていくことが必要。
三つ目。何を教えるかという問題。従来の教科の中では十分入っていなかった領域、たとえば市民性(シティズンシップ)の学習、職業的なレリバンス、バリアフリーなどを教科課程の中にとり入れることが考えられる。
教育の問題については誰もが一家言もっていると言われます。教育(学)の専門家でなくとも、自分が通過してきた学校や教師との体験をもとに意見らしきものを披瀝することはさほど難しいことではありません。けれども個別の体験から一足飛びに話を一般化して説得力を欠いたものが多いのも事実。だからこそ教育学やそれに隣接する社会科学の知見に触れることが大切ではないでしょうか。
本書の内容は新書にしてはいささか専門的であり、聞き慣れない用語も頻出します。人によってはとっつきにくいという感想もありうるかもしれません。しかし上に記したように、研究者の議論の蓄積から学ぶことは教育問題に限らず読書全般の醍醐味の一つでしょう。十年前に刊行された本ですが、内容はけっして古びていないと思います。