警察権力の影の歴史を抉る〜『チェンジリング』
急病の同僚に代わって休日出勤をすることになった母親が仕事を終え、急いで自宅に帰ってきた時、母を待っているはずの息子の姿はなかった。その時から息子を探し求める苦難の「闘い」が始まる──。
1928年のロサンゼルスで起きた子供の失踪事件。5カ月後に「発見」されて帰ってきた彼はまぎれもなく別人だったのですが、世間に事件の早期解決をアピールしたい警察は本人だと頑なに主張します。その後7年間にこのシングルマザーの身の上に起きた衝撃的な出来事の数々。米国史に埋もれていた実話を基にクリント・イーストウッドが撮った『チェンジリング』は、容易く「傑作」などと口走ることさえ憚られるようなシリアスな映画です。
主人公クリスティン・コリンズを演じたアンジェリーナ・ジョリーの存在感が作品の出来映えを決定づけているように思います。息子の行方がわからずうろたえる憂いに満ちた姿。警察に対してひたすら公正な捜査を願い続ける一途な姿。さらに事態がエスカレートして理不尽な仕打ちを受けることになる悲痛な姿。牧師や弁護士の支援を得て腐敗した警察と「闘う」ことを決意する強い女の姿。この映画を通して彼女が表現する女性像は、いかにもイーストウッドの映画にふさわしい強度を帯びたものです。
イーストウッドの演出は奇を衒うことのない端正なもの。自宅の寝室、警察の取調べ室、精神科病棟など室内の撮影はおおむねローキーを基調として作品全体の重苦しさを醸成しています。とりわけ、別人の息子とともに自宅に帰ってきて、眠りについた子供のベッドサイドで一人問わず語りに話しつづけるクリスティンの顔を捉えたショットが素晴らしい。左半分に弱い照明が当てられ右側半分が闇に溶け込んだその顔に、未だ本当の息子を取り戻すことが出来ない母親の満たされざる気持ち、あるいは束の間の喜びのあとに一転して訪れた失望が巧みに表現されるのです。
一人の母親の一念がはしなくもあぶり出すことになったのは、公権力の腐敗でした。汚職や暴力が日常化していたといわれる当時の警察権力や彼らと結託した精神科病院の冷徹な管理体制が容赦なく描出されていきます。
当初、孤立無援の状態にあったクリスティンには、やがて長老教会の牧師(ジョン・マルコヴィッチ)らが援助の手をさしのべ、電気ショック療法を受ける寸前に病棟から救出される場面でクリスティンも観客もようやく一息つくことになります。
しかし、その後ロス近郊にある牧場で凶悪な殺人事件のあったことが発覚します……。
……ボランティアの弁護士の助力のもと、息子を治療した歯科医師や担任教師らの証言を得て一連の裁判が終了した後にもクリスティンは気持ちに整理をつけることができません。
そして含蓄と余韻を残したエンディングへ──。
ラストシーン、クリスティンが事件の仕切り直しの捜査を担当した刑事に対して発する言葉こそは、彼女自身の胸の内に湧き出た偽らざる思いであると同時に、混迷する21世紀の人間社会に向けられたイーストウッドからの「贈る言葉」というべきでしょう。
『ダーティハリー』シリーズで刑事に扮し悪人たちを退治したアクション・ヒーローが30年の時を経て、今度は真正面から警察権力の影の歴史を抉り出す作品を撮ったという事実に、一映画ファンとして格別の感慨を覚えずにはいられません。
*『チェンジリング』
監督:クリント・イーストウッド
出演:アンジェリーナ・ジョリー、ジョン・マルコヴィッチ
映画公開:2008年5月(日本公開:2009年2月)
DVD販売元:ジェネオン・ユニバーサル