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ロゴスと音楽と映像が地中海で混淆する〜『ゴダール・ソシアリスム』
ジャン=リュック・ゴダールの映画は、ただひたすら体感するしかない。ゴダールは難解だとよく言われるけれど、それは読み解こうとするから。読みもせず解こうともしなければ、あとはただ体感する以外に何ができるでしょう。
とはいうもののゴダールの画面を全身でもって体感しようとすれば下手をするとくたびれます。くたびれて集中力を緩めると眠気に誘われることもないとはいえません。むろんそれもまた一興。ゴダール映画の音声を聴きながら座席に身を沈めてウトウトするのも素敵な体験ではないでしょうか。
『ゴダール・ソシアリスム』は、睡魔に誘われることをあらかじめ禁止するかのような強い気配を漂わせながら始まります。お金は公共財産だ、というオフの音声、そして勢いよく揺れる海面を捉えたいささか不気味な、しかし文字どおりみずみずしい画面。
始まります。ゴダールのぶっきらぼうで不思議で人を食ったようなモンタージュの世界が。
『ゴダール・ソシアリスム』は三つの「楽章」にわかれています。
〈第1楽章・こんな事ども〉は、地中海を航行する豪華客船が舞台。スペイン内乱時に共和政府はスペイン銀行の黄金をコミンテルンに託して退避させようとしました。だが、オデッサで3分の1がなくなり、モスクワでさらに3分の1を喪失。その事件の謎を握っているらしいゴルトベルク老(ジャン=マルク・ステーレ)やその孫娘のアリッサ(アガタ・クーチュール)、事件を解決するべく客船に乗り込んだフランスの捜査官(モーリス・サルファイ)やらロシアの女性将校(オルガ・リャザーノワ)やらの動きが一つの軸にはなるものの、ゴダールはむろんその犯人捜しや謎解きのストーリーテリングに熱中するはずもありません。
〈第2楽章・どこへ行く、ヨーロッパ〉はフランスの片田舎でガソリン・スタンドを経営している一家のお話。両親(クリスチャン・シニジェ、カトリーヌ・タンヴィエ)のどちらかが地方議会の選挙に立候補したので、テレビ・クルーが取材にやってきた。長女フロリーヌ(マリーヌ・バタジア)と弟リュシアン(ギュリヴェール・エック)は「子どもが選挙に立候補しても良いはずだ」と主張します。
〈第3楽章・われら人類〉では、カメラはふふたび豪華客船にもどって、ツアーの地──エジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリ、バルセロナ──をめぐっていく。人類の歴史を築いたとされる6つの場所です。
地中海は世界史を通じてあらゆる人々や文化が混淆する場所として存在してきました。その海を行く客船でもまた様々な言語が飛び交い、様々な人間と情報が交錯します。そこではポリフォニックな世界が実現され、シンフォニックに音が鳴り響く。
この映画においてはヨーロッパの歴史が映画史と重ねられ、ヨーロッパに発生した様々なイズム──民主主義、社会主義、全体主義──が音楽や美術史とともに言及されることになります。
引用の人・ゴダールには、まさに地中海がふさわしい。
登場人物によって発せられる台詞やオフの音声の印象深い〈ロゴス〉の大半は、アーレントやサルトルやフッサールなどなど既成のテクストからの引用です。むろん〈ロゴス〉だけではない。映像も音楽もまたしかり。ゴダールはずいぶん前にオリジナルの「映画音楽」を作曲家に発注することは放棄したといいます。
この映画の冒頭で、引用されたロゴスや映画、音楽に関するクレジット・タイトルが仰々しくも掲げられるのは、いつにもましてゴダールの引用好きが発揮されていることを強く印象づけもするでしょう。
エイゼンシュテインの《戦艦ポチュムキン》や《十月》、ロッセリーニの《イタリア旅行》やらチャップリンの《ライムライト》やらが、ここぞというコンテクストで挿入されるかと思うと、唐突に画面に割り込んできたりするわけです。
子どもたちが民主主義を説いている場面に、ベートーヴェンの《田園》が鳴り響き、ピアノソナタ《悲愴》が厳かに聴こえてくる。突然あらわれる空中ブランコ乗りの映像には、ジョーン・バエズの《花はどこへ行った》が被せられるという具合。
それにしても、ゴダールの意表をついたベートーヴェンの使い方には驚かされました。《カルメンという名の女》でも、晩年の弦楽四重奏曲が印象的に使われていたのを思いだします。
哲学者アラン・バディウは本人のままで登場し、誰もいない講堂で幾何学について語ります。起源とはつねに人がそこに戻っていくところのものだとして、私たちは数十年前から、とりわけ数学において、幾何学の回帰に立ち合っています。……
歌手パティ・スミスが船室で歌うかと思えば、よくは知らないがパレスチナの歴史学者、エリアス・サンバールも写真家ダゲールについて何やら喋っている……。
いつもながらに、ゴダールのお笑い精神も健在です。
ビュッフェ・レストランの窓の外を行くアリッサが、何故かふらついていて何度も窓ガラスにぶつかるシーンはコントさながら。ガソリンスタンドでロバとリャマ(ラクダの一種)が繋がれているショットのちょっぴり哀しげだけれどトボケたような雰囲気には、泣き笑いしそうになってしまいました。
あらゆるノイズを取り込んだゴダールの多元的にしてソシアリスム的(?)な姿勢も注目に値するでしょう。客船の上を吹きすさぶ強い風の音は、この映画のノイジーな作りを象徴する音として何度も聴こえてきます。また携帯端末で撮られたような画像やウェブサイトにアップされていると思しき画像、客船の巨大画面に映し出される映像など、解像度の低い映像が次々にあらわれもします。
ゴダールは一体何をやっているのか。私たちは一体何を観ているのか。体感することに徹しきれない私の脳がそう呟かずにはおられません。
映画とは何か? ──Nothing.
映画は何を望むことができるか? ──Everything.
映画に何ができるか? ──Something.
かつてゴダールはそのように答えました。
ゴダールは、やはり理解するには面白すぎる。Somethingを体感すること。人それぞれのSomethingを。
*『ゴダール・ソシアリスム』
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:パティ・スミス、アラン・バディウ
映画公開:2010年5月(日本公開:2010年12月)
DVD販売元:紀伊國屋書店