公衆衛生学も大切だけど比較認知発達科学の声も聴こう〜『マスク社会が危ない』
◆明和政子著『マスク社会が危ない 子どもの発達に「毎日マスク」はどう影響するか?』
出版社:宝島社
発行時期:2022年11月
本書の著者・明和政子は、ヒトとヒト以外の霊長類を比較し、ヒト特有の脳と心の発達とその生物学的基盤を明らかにする「比較認知発達科学」という分野を開拓した研究者です。その観点からコロナ禍における「新しい生活様式」の問題点に論及しています。
乳幼児期の子どもに常時マスク着用した大人が接した場合、子どもの発達に悪影響を与える懸念がまず第一。乳幼児期は相手の心を理解する能力や言語を獲得していくきわめて重要な時期です。それは視覚野と聴覚野の適切な働きによって行われます。具体的には、大人が乳児に話しかけたとき、彼らは相手の口元を長く見る。乳児期にはそのような経験をとおして、相手の心や言葉を一つひとつ学んでいくのです。
ところがマスクをしていると、口元の表情を見ることができません。結果、保育園や幼稚園の現場からは「子どもたちに笑顔を向けても反応が薄い」「子どもたちに思いが伝わっていないように感じる」という声が聞こえてくるようになりました。マスクをしていると、子どもたちにとっては大人が想像する以上に相手の表情を読み取ることが難しいようです。
2022年に英国教育水準監査局が公表した報告書によると、コロナ禍の二年で「相当数の子どもたちに、言語の獲得の遅れや表情の乏しさ、不安傾向」といった悪影響が出ているといいます。
さらに第二の問題として、明和は乳幼児期における「身体接触」経験の重要性を指摘しています。哺乳類は養育個体と身体を接触させる経験を通して「愛着(アタッチメント)」を形成することが生存のために不可欠とされています。英国の精神医学者ジョン・ボウルビィは、ヒトを含む動物の子どもは親にしっかりとくっつく(アタッチする)ことで身体生理に起こる変動を安定化させ、生存確率を高める、と主張しています。子どもが未知の危機に遭遇すると、怖れ・不安などの情動の変化や、鼓動が高まる、瞳孔が開くといった身体変化が起こります。未成熟な子どもは、その変化を自力で制御することはできません。養育個体の身体にくっつくことで、それを安定化させようとするのです。「フィジカル・ディスタンス」がそのような身体接触の機会を減じていることは言うまでもありません。
誤解なきよう付け加えれば、明和はあくまでも比較認知発達科学の立場から「新しい生活様式」の問題点を指摘しているのであって、米国のリバタリアンのように「マスクしない自由」を主張しているわけではありません。
日本では「感染を防ぐ対策ばかりが強調され」てきましたが、そのような対策が子どもたちの発達に対してはらむリスクについては「ほとんど目が向けられてこなかった」。だからこそ本書が世に送り出されたのです。
議論が一色に塗りつぶされるような状況に、全体主義の兆しを見出すのはけっして大仰なことだと私は思いません。その意味では、巻末に収録されているジャーナリスト鳥集徹との特別対談で、鳥集がナチスの例を引き「公衆衛生は全体主義と親和性が非常に高い」ことを指摘しているのも傾聴に値します。