海へ還る者
街を歩けば振り向かれるほど、その幼い子は美しかった。真っ白な肌に整った顔立ち、独特な色の長い髪がしなやかに、一際目を引いた。
脚が少し不自由でおぼつかない足取りをしていたものの、海が好きで一人で達者に泳ぐことが出来るのであった。
彼女がこの街に連れて来られてからいくつかの年月が過ぎている。よく覚えていなかったが、確か船に乗ってこの街に来たのだった。おじ様もおば様もとても優しく愛してくれているが、どこかで本当の父母を求める気持ちは止まなかった。
それでも何気ない日常があたたかくて何不自由なく裕福に育てられた。音楽が大好きで、ピアノは楽譜が無い方が良く弾けた。泳ぐことと同じくらい歌うことが大好きで、よく通る美しい歌声は家族や近所からも愛された。
彼女が7回目の誕生日を迎える頃には、不自由だった脚はやがて問題なく歩き走れるようになっていた。もはや過去に自分が上手く歩けなかったことなど覚えていない。おじ様とおば様を肉親と思い、昔船に乗ってここへ連れられてきたことなどすっかり記憶から消えてしまったようだ。
ただ、海はいつも懐かしかった。
ある夕暮れ前に、思い立っていつもの海岸へと向かい、沈んでゆくオレンジ色の光を眺めながら何かが恋しくなったような気持ちで、彼女は声に出さずに呟いた。
―ずっとここにいた筈なのに、
なぜだか妙に
あの遠い海が懐かしい。
だけどそこには行ってはいけない。
ここにいなきゃいけない。
とてもありがたくて愛されていることだけど、
同時になぜか、檻の中にいるように感じる―
何かを知っている
しかしそれを知ってはいけない
何かが封印されている
それを解いてはいけない
それを解いたらわたしは―
わたしで無くなってしまうから―
何かを守るための約束
謎の想いを秘めたまま、彼女はいい年頃になった。背も伸びて、おば様より少し高いくらいだ。世の中のことはあまり知らないけれど、泳ぐことも歌うこともピアノも達者になった。…逆にそれだけしか出来ないということにあまり気が付いていないが、彼女はそれで何も困ることが無かった。愛され守られた世間知らずの箱入りお嬢様だった。
そんな中、平和すぎて何も無かったその国に、とある支配者が出現したのであった。無名の権力者というものはある日突然現れるものである。その者が政治に干渉し新しい法律が定められると、多くの女性は魔女の疑いで囚われた。「魔女狩り」である。
彼女はもちろん正真正銘、魔女ではなかった。ただ自然と戯れたり動物に話しかけるだけで魔女だとされ、処刑に値するとのことだった。そのような謎の社会が築き上げ始められていた。
彼女は森の近くの処刑場にて張り付けにされた。そのまま火あぶりにされるところで、どこからともなく目の前に誰かが飛び込んできた。
「こんなとこで何してんだ?」
その誰かが聞いてきた。
それはこっちのセリフなのだけど、とてもそんなことは気にしている場合ではなかった。
「お願いします、助けて下さい」
と彼女はその人に懇願する。
処刑されている身なのだから無理なお願いである。しかしその人は何の躊躇いもなく
「いいけど」と言って貼り付けにされていた柱ごと彼女を持ちあげて、そのまま大きく跳ね上がり火あぶりの外へ出た。
意識が戻ると、どうやらしばらくその人の背中で眠ってしまっていたようだった。その人は何やら連れの少年にひどく叱られていた。
「あの…頼むから、もっと普通に行動してください」
やはりその人は普通の人ではなかったらしい。彼女はそっと寝たふりをしながら話を聞いた。どうやらその人は、罪や処刑の意味すらよく解っていないようで「助けて」と言われたまま助けてくれたようだった。
連れの少年と謎の喋る動物に呆れられているその人の背中で、ゆっくり顔を上げお礼を言った。
匿ってくれた民家の主曰く、どうやらこの国は、ひと癖もふた癖もある例の支配者に独裁されつつあるとのことであった。
それを聞いた瞬間、その人たちは静まり返った。何やら用件があるようだった。何となく、彼女は察した。この者たちに付いてゆけば、恐らく命に関わることの連続だろうけれど
この長年の違和感、見て見ぬふりをしてきた檻から抜け出せるような気がしていた。
脚は人並みに使えるようになってはいるが、やはり走ったり飛んだりすることに劣っている。
思考の中では全く覚悟も安心もできていなかったが、それとは全く関係なく、物事は起きてくるようであった。
いつか巡り合うべき元へ帰るように。