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大江戸探訪録~新吉原~

ずらりと並ぶ赤提灯、華やかな花魁道中、 落語や歌舞伎にも登場し、今なお人々を魅せる『吉原遊郭』。339年続いたそれも、今は高級ソープ街となり、地名や看板に名が残るばかり……。

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かつて隆盛を誇った『吉原遊郭』とはどのような場所だったのでしょうか。今回は、そんな『吉原遊郭』の跡地、現在の台東区千束エリアを歩きます。

1.吉原遊郭について

1603年、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開くと、政治の中枢としての江戸城下の整備が急務となり、作業に従事する人を関東中から集めるようになります。職を求めた浪人達もまた江戸に集まるようになり、江戸の人口の大半は独身男性で占められたといいます。独身男性が増えれば、それを狙った商売も増えるというもの……江戸市中にはだんだんと遊女屋が増えていきました。

「男と生まれた以上、ご婦人が嫌いだなんて人はまずございませんで、皆女好きでございます。」───古今亭志ん朝『明烏』マクラ

しかし、江戸城下の整備が進んでいく中で、庶民は住居の移転を強制されることも多く、それは遊女屋も例外ではありませんでした。せっかくお客がついても移転続きでは商売あがったり……困り果てた遊女屋達は結託し、幕府に陳情するようになります。幕府の公認とする見返りに上納金を得られること、さらに市中の遊女屋をまとめて管理することで風紀を取り締まりたい幕府側と、市場を独占して利益を得たい遊女屋側の利害の一致もあり、1617年に江戸初の遊郭『葭原遊郭』が現在の日本橋人形町あたりに開かれました。

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しかし江戸の町が栄え拡大していく中で、『葭原遊郭』の周りにも大名屋敷が隣接するようになり、これを良しとしない幕府により1656年に移転を命じられます。その場所は浅草千束村、現在の台東区千束でした。元々湿地だった場所を埋め立て、高い塀で囲み、周囲には『おはぐろどぶ』と呼ばれる堀をめぐらせ、夜も明かりが絶えない……その様はまさに〝不夜城〟というべきものでした。移転前の遊郭を『元吉原』、移転後の遊郭を『新吉原』といいます。

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2.吉原遊郭跡を歩く

では通人になった気分で吉原を歩いてみましょう。

・大門

「帰れるものなら帰ってごらんなさい、大門で止められますよ。」───落語『明烏』

落語の廓噺にも登場する『大門』、いわずと知れた吉原遊郭唯一の玄関口です。門の右側には公儀(幕府)のお役人が常駐しておたずね者の出入りを見張り、左側の四郎兵衛会所では遊女が外に出ないかを見張っていたそう。遊郭という場所もあってか女人の出入りは特に厳しく、女人が吉原に入る時は事前に切手を貰い、出る時に提示する必要があったのだとか……。

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大門をくぐってメインストリートの仲之町通りを進んでいきます。両脇にはずらりと並ぶ赤提灯……いや、ずらりと並ぶ高級ソープのキャッチ(?)

通りの両側から、なじみの女郎が吸付け煙草を差し出してきます。それはさながら

「煙管の雨が降るようだ。」──歌舞伎『助六所縁江戸桜』

……なんてわけもなく、煙管の雨ならぬ高級ソープのキャッチの雨が降るようで(?)


・吉原神社

仲之町通りを真っ直ぐ進んで行くと、右手に神社が見えてきます。その名も『吉原神社』。かつて、吉原遊郭内に廓の鎮守として存在した玄徳稲荷社と榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社の五つの稲荷神社を、明治維新後の1872年に合祀して創建されたものです。

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江戸時代の祭礼では花魁道中や即興劇などで大変賑わったといい、遊郭らしく縁結びや商売繁盛のご利益で信仰を集め、その様子は多くの物語で語られています。

「浅草の観音様の裏手の方に、大変に霊験あらたかなお稲荷様があるんだそうで……」──── 落語『明烏』

まぁ、この〝お稲荷様〟が遊郭の暗喩であるということを、時次郎はまだ知らない……(?)


・新吉原花園池(弁天池)跡

吉原神社を後にしてさらに仲之町通りを進むと、今度は左手に林が見えてきます。ここにはかつて『花園池』という池があり、弁財天の祠があった事から『弁天池』とも呼ばれ、信仰を集めていました。

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池は、1959年に現在のNTT東日本吉原ビルの建設に伴い埋立てられ、わずかにその名残を留めるのみとなっていますが、弁財天の祠は残されて吉原神社の奥宮『吉原弁財天』となっています。

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実は、この花園池には悲しい歴史があります。関東大震災……この未曾有の大災害によって、『大東京』とよばれた華の帝都は壊滅的なダメージを受けます。吉原遊郭も例外ではなく、二次災害による大火に見舞われました。遊女達は火災から逃れようとしますが、廓の中では逃げ場がなく、あるものは焼死し、あるものは圧死し、またあるものは花園池に飛び込み溺死したといいます。溺死した人だけでも490人にのぼると伝わり、被害の凄惨さを物語ります。そんな遊女達を弔うために建立されたのが、『吉原弁財天』の手前にある『吉原観音』です。

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岩の上に立つ観世音菩薩像の元には、今日も線香の煙が絶えません。


3.まとめ

339年の長きに渡り人々を魅了し続けた『吉原遊郭』も、今や高級ソープ街となり、その面影も今はありません。しかしこうして歩いてみると、その名残は随所にあり、確かにここに江戸の〝不夜城〟は存在したのだと実感します。かつてこの街を闊歩した通人達のように、粋な着こなしで吉原を歩いてみるのもいいかもしれませんね。

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