【エッセイ】勝手に名付けられてばかりの僕ら
〇〇世代ってよく言われる。
ゆとりだとか、「Z」だとか。
その呼び方に良いとか悪いとかの捉え方をくっつける人もいれば、善し悪し関係なく「特徴」としてそういう呼び方をする人もいる。
いずれにせよ、名付けられる側としては不自由に感じてしまう。
そもそも「呼び名」って、誰が考えるんだろうね。
僕らは大抵、自分から名乗れる自由とは縁遠い気がする。
名前は親に付けてもらうし、〇〇世代は大抵上の世代の人たちが付けるし、あだ名や蔑称、愛称に関しても他人が付ける場合が多いと思う。
だからだろうか、僕は自分で自由に名前を決められるネットの世界から離れることができない。
自分が投稿した作品や、ちょっとしたつぶやきがいくらウケなくっても、だ。
ネットではどんなペンネームを名乗っても良いし、途中で変えたって構わない。
職業だって「作家」だとか「クリエイター」だとか、好きなように名乗っても迷惑をかけない限りは自由だろう。
だからいくらつまらなくたって、批判的でネガティブな意見を目にしたって、ネットの中の「自由で居られる可能性」にしがみついて離れることができない。
けれど最近は思うんだ。
ネットの中ですら、自分が何者かを好きなように名乗ることはできないんじゃないかな、って。
どうしてかというと、何かになるために一生懸命に頑張っているつもりでも、結局「自分」からは逃れられないから。
背伸びしようが、名前を変えようが、趣味や仕事を変えようが、本質的な「自分」という枠からは逃れることができない。
何になろうとも、大前提として「自分自身以外の何か」にはなることができないのだと、そう思う。
いくらウソを重ねようとも自分は自分自身で、その他の何者でもない。
取り繕って相手の望む姿を自分のガワに投影しようとも、必ずやボロが出る。
つまるところ、僕らは自分自身という枠に閉じ込められていて、本質的には不自由。
結局、不自由を受け入れて生きていくしかない。
だとすれば、自分という檻の定義はせめて、自分自身で決められたらいいな。
そんなことを考えている日曜の午後。
もう既に「平日」という檻の扉が、目の前に開かれているようである。