そうだ。エッセイストになろう。
エッセイストになるための、一番手っ取り早い方法。
それは、
「私は、エッセイストです」
自らそう名乗ることだ。
というわけで、
元旦から私のnoteの肩書きは
エッセイスト ろっぺん
に変更した。
エッセイを書いてみたいけど・・・
そう口を尖らせている人がいたら、今日から一緒に名乗ってみませんか?
いきなりエッセイストって名乗るなんて、ムリでしょ!
梅干しだからできるんでしょ!
そう思う人もいるかもしれない。
だけど、私は「名乗ればなれる」というより
「名乗るからなれる」という確信がある。
「なる」と先に決めるから「なり方」が降りてくる
「詩人」と名乗った時も、「ライター」と名乗った時も、どうしたらそれになれるのかなんて、皆目検討もつかなかった。そのくらい、それまでの自分とは無縁の業界、仕事だったのだ。それでも、何か自分に「縁」がありそうだと感じた、その自分の「直感」を信じて突き進んできた。というより「直感」だけでここまできていると言っても過言ではない気もする。ありがたいことに、そんな直感頼みの私は、詩人を経てライターとなり、なんとかここまで生きながらえている(笑)
詩人を名乗らなければ、詩賞をいただいたり、雑誌に掲載されることはなかっただろう。
ライターを名乗らなかったら、ライターとして仕事させていただく今もなかったはずだ。
詩人?ライター?自分はどちらの道なのか?
そういう判断ができたのも「詩人」「ライター」この両方を名乗っていたからだ。肩書きなんて、別に1つに絞り込む必要はない。何十個も名乗るのはどうかと思うけれども、心が動くもの2つくらい並べるのは決して悪くないと思う。ここ数年の私は「現場」に寄り添いたい気持ちが強かった。だから、起業家や経営者さんの現場に寄り添う「ライター業」が、今の自分の活動の中心軸になっている。
「自信」をつけてから名乗りたいという人へ
当然、プロとしての確固たる「自信」をつけてから名乗りをあげたい人もいると思う。私だってどちらかといえばそのクチだ。だけど、冷静に考えてみてほしい。
どうしたらその「確固たる自信」はつくだろう?
結論を言ってしまえば、「書く」ことでしか自信をつけることはできない。しかも覚悟を決めて、プロと名乗って「書く」ことでしか、身につけることはできない。
たとえば「ライター見習いです」と名乗り「見習い価格」ではじめたとしよう。「見習い」を名乗る人に仕事を頼みたいと思う人がどのくらいいるかわからないが、安価だから、という理由でひょっとしたら頼んでくれる人もいるかもしれない。
でも「見習いです」という前提が置かれていれば、書く側も、依頼する側も「見習いだしね」という「妥協」や「甘え」みたいなものが見え隠れし続ける。結果、完成した文章が決して見習いレベルでなくても、いずれその文章は行き場を失ってしまうにちがいない。
そんな文章を書きたいだろうか。
本気で文章を、書くことを人生の相棒にしたい人なら、書きたくないはずだ。
エッセイストと名乗るならnoteだと思った理由
さて、まあまあ行き当たりばったりに「詩人」「ライター」と名乗ってきた私が今度はnoteで「エッセイスト」を名乗る(笑)
きっかけは去年であった松浦弥太郎さんの「エッセイストのように生きる」という著書だ。その記事はちょっとだけここに書いた。
これを読んで「エッセイストのように生きる人」「エッセイの書き手」を募りたいと思った。メルマガで声をかけたら、参加したいと言ってくれる人たちもいた。そんな風に思いつきで声をかけたにも関わらず、いくらかの反響があって嬉しかった。ただ、思いつきで声をかけたため(笑)私自身はその時点でどこでエッセイを書くかはっきりとは決めておらず、その後少し迷う時間があった。
一瞬、頭をよぎったのはメルマガだったのだけれど、お仕事の発信もしているメルマガで、思い切りエッセイに振り切るのは難しいと感じた。それからわざわざエッセイ専用メルマガをつくるのもわずらわしい(苦笑)
どうせなら、書き続けられる場所がいい。
そんな私が思い出したのが、noteだった。
noteなら思い切り「エッセイ」に没頭できるんじゃない?
昨年、さいちゃんに声をかけられて、数年振りにnoteを再開した。でも、正直なところメルマガで何を書くかは全然迷わないのに、noteに関しては、今ひとつ何を書きたいのか、自分でもよくわからなかった。
実際、2023年の投稿は、あっちゃこっちゃに飛んでいる。娘の話をしたり、そうかと思えば中途半端にお仕事ほのめかす投稿をしたり。自分でも気持ちが悪かった。
noteという場所で私は何を伝えたいのか、どんな場所にしたいのか?
そのコンセプトも目的もずっと宙ぶらりんなまま、再開してしまったために、投稿はわかりやすく止まっていた(笑)
去年、唯一書き切ったのは、ストーリー型のステップメールを加工したものだった。途中まで転記したから、書き切らないとキモチ悪かった、というのもあるけれど。だけど、この数年間で書いてきた、ステップメールやメルマガの過去記事はまあまあ膨大にある(笑)その中から、なぜこのステップメールをわざわざ取り上げたのだろう?
結局、私が「書きたいもの」は、「日常」「暮らし」にまつわるものだったのだ。当時はわけもわからず、乗り掛かった船だから「えいや!」と気合だけで書ききったものだったのだが、今、冷静に振り返るとそう感じる。
この当時、赤ん坊〜1歳児だった娘は今7歳である。昨年のGWで奮闘した娘のYouTubeやら、LINEスタンプ珍道中も、7歳の娘と母ちゃんの「暮らしの現場」に他ならない。
久々に足を運んだ本屋で偶然手に取った『エッセイストのように生きる』
ちなみに松浦さんは作中で「エッセイストになろう」とは一切呼びかけてはいない(笑)でも、案外、本音は「エッセイスト仲間を増やしたい」なのではないかと、勝手に思っている。
せっかく「エッセイストのように生きてみる」んだったら、そんな日常をエッセイに綴った方がお得じゃないか!というより、しあわせだと思ってしまった単純王の梅干しは今日から「エッセイスト」なのである(笑)
この本の出会いは偶然だったのだろうか?
実はエッセイを書いてみたかった、そんな自分の本音に気づかせてくれたのだから、この本との出会いは偶然ではなく「必然だった」という気もする。そう考えると、この世の何もかもが私たちに「気づかせる」ための出来事。この世界で起こることに「偶然」なんてものは本当は存在しないのかもしれない。
書きたいと思える「暮らし」をつくるために書く
私たちはなぜ書くのか?
誰かに伝えたい、自分を調えたい、さまざまな理由があると思うけれど、私が書き続けてこられたのは「書きたいと思える暮らしや日常をつくれる」からだ。
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