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「何か、嬉しいですね」
もう十年以上も前のこと。「証明の単元に入ったけど、難しくてよくわからない」と言う中学2年生たちに、120分の授業時間の全部を使って、「図形の数学のはじまり」の授業をしたことがある。
二〜三千年前の古代ギリシャの幾何学。
1. 同じものに等しいものは、互いに等しい。
2. 等しいものに等しいものを足すと、できあがったものは互いに等しい。
3. 等しいものから等しいものを引くと、残ったものは互いに等しい。
4. 一致する(ぴったり重なる)ものは互いに等しい。
5. 全体は部分よりも大きい。 (5つの公理)
1. 2点を通る直線は1本、たった1本だけ引くことができる。
2. 線分はいくらでものばすことができる。
3. 中心と半径がわかれば円をかくことができる。
4. すべての直角は互いに等しい。
5.平面上の一直線の外の一点を通って、その直線と交わらない直線が1本、ただ1本だけひける。(実際はもっと複雑な述べ方) (5つの公準)
これらの数少ない公理・公準から出発し、厳密に演繹を積み重ねながら「証明」をしていく数学。「平行線は1本だけひける」「対頂角は等しい」「錯覚は等しい」のように、「あたりまえ」のように「見える」図形の性質を一つ一つ、子どもたちと一緒に証明していった。
「お〜なるほど、『そう見える』じゃなくて『確かにそうだ』を積み重ねていくんですね〜」
子どもたちは授業をとても楽しんでくれて、最後には拍手までくれた。塾で授業をやって拍手をもらった数少ない時だ。
印象の残っている生徒の言葉がある。数学は決して得意とは言えないMちゃんの言葉だ。
「わたしたちが今やっていることって、大昔のギリシャの数学者たちがしていたことと同じだと思うと、何か、嬉しいですね」
数学者たちが紙に鉛筆で、いや大昔はそれこそ地面に棒で図を何度も何度もかきながら、かきなおしながら、問題を解くことに熱中する。「解きたいから、解く」というそれだけの理由で。
それは数学者たちの「遊び」みたいなもの。それをなぞること、経験することが「嬉しい」と言ってくれたMちゃんの言葉を、私は今も大切にしている。
「まずは問題文を読みながら図を大きく書いてごらん。記号づけをしながらね。証明したいことは赤で記号づけをしていく。あとは、図を見て、『次にわかること』を記号で書き込みながら、証明をしていくの。図の上で証明が完成したら、言葉にしていく」
「言葉にすることに慣れたら、あとは、図の上で証明するだけいいよ。図の上で証明ができていれば、いつでも言葉にできるから」
この過程を1〜2回、一緒にやってあげれば、あとは子どもたちは自分で問題に取り組めるようになる。ああでもない、こうでもないと、自分で図を「いじる」ことができるようになっていく。それができて初めて、この「遊び」の面白さを知ることができる、と私は思う。
「先生、証明って楽しいですよね。でも、そんなこと言うとクラスで変人扱いされるんです」
図を自分で描いて、自分の目で見て考える、ということを知った子どもたちは「証明は楽しい」と言う。考えた後でないと証明(言葉)は書けない。証明が書けない、楽しくないのは多くの場合、考える前に書こうとしているから。学校で渡されるワークによくある「穴埋め問題」はこの傾向に拍車をかけてしまっていると思う。
「古くからある学問で今も残っているもの、宗教学、哲学、数学(幾何学)、医学などは、人間が一番面白がってきたこと。人間が一番面白がってきたことなのだから、自分の専門の分野を学ぶと同時にこれらの学問も学ぶとよい」
大学院に在籍している時、「エミール」の授業の中で汐見稔幸先生が話してくれた言葉だ。学問は「役に立つ」ということ以上に、「面白い」からやるのだ。そして、「人間が一番面白がってきたことなのだから」それらの学問も学ぶとよい。先生の言葉を聞きながら、わたしは「何か、嬉しい」というMちゃんの言葉を思い出していた。いつだって、子どもたちは何が大事かをわかっている。
今も、中学二年生たちは「証明」の単元の真っ最中だ。
学校の進度に追いつくことや、自力で問題が解けるようになることに意識が向かいがちだけれど、「数学を面白がる」「楽しむ」ことに、自分自身の気持ちを戻さなければ。
きのう、「証明が苦手」と数学を受講することになったAくんのために「公理」「公準」のプリントを印刷しながら、思った。Aくんも、「証明が楽しい」と思えるようになるといいなあ。