無頓着が生む後悔と自己肯定
人は関心の無いものに対する判断は、適当になりがちである。
興味あるものには時間を割いてでも最善の道を選択したがるが、興味が無いものには一転してしまう。
しかし、その判断が時を経て後悔に変わることが
人生にはつきものである。
小学6年生頃から私は急激に視力が落ちた。
一つ年上の兄は私より先に視力が落ちていた。
母は我々兄弟の視力が悪化することを心配し、視力矯正のための機器を購入し、クリニックにも通わせたが、治療も空しく視力は落ちる一方だった。
中学生になり、更に視力が落ちた私はメガネをかけることになった。
現在まで続くメガネライフの始まりである。
ところで、今ではオシャレなデザインの子供用メガネが当たり前のように販売されているが、当時子ども用の眼鏡など私の知る限り存在していなかったように思う。
ましてや眼鏡をかけるのは、私にとって「オシャレ」という感覚ではなく、ただの視力矯正アイテムに過ぎなかった。
だが、その無頓着さが後々まで大きな後悔として押し寄せてくることを、その時私は知る由も無かった。
初めてメガネを買うために、私は母と一緒に地元の商店街にある眼鏡店を訪れた。
「眼鏡のタケマツ(仮名)」
昔ながらの眼鏡店だ。
店に入るなり、店員のおじさんがやってきた。
子供がかけるメガネを母が所望したところ、店員さんは素早くおススメのメガネを提案してくれた。
私は、そのメガネを試しに装着してこう言った。
「これでいいよ」
決まった。
決まってしまった。
いや、ここはもう少し他のメガネも試すところだろう。もっといい物があるかもしれないぞ。
だが、当時の私はメガネに無頓着なので面倒くささが先に来ていたのだ。店員さんに勧められるがままに決めてしまった。
母の
「あんた本当にそれでいいんね?」
という念押しに、
私はキッパリと
「いいよ」
と答え、購入が決定した。
そのメガネがこちらだ。
おっさんのメガネじゃねえか。
おい、それでいいと判断した理由は何だ。
レンズ滅茶苦茶デカいぞ。
無頓着にも程がある。
まあしかし、何かの間違いかもしれない。
念のためもう一度見てみよう。
やっぱりおっさんのメガネじゃねぇか。
この時、髪型丸刈りだぞ。
なんなら色白だぞ。
このメガネに丸刈り、色白は
あってはならない組み合わせだ。
万が一ということもあるので、
違った角度から見てみよう。
大変申し訳ございません。
おっさんのメガネでした。
3年間。
これで中学生生活を何とも思わず過ごした
自分が恐ろしい。
先に述べたように、当時はメガネのデザイン自体が少なかったのはあるだろう。
そんな時代でもあったのかもしれない。
しかし、そのメガネをかけていた自分の歴史を
消すことは決してできない。無頓着が生んだ
「おっさんメガネと丸刈りと色白」。
私はそれを生涯背負って生きていくだろう。
社会全体を無関心が覆う現代社会においてもまた
人々は大きなしっぺ返しを味わうことになるかもしれない。
ただ今は、この古きメガネを大事に保管していた
私をそっと褒めてあげたい。