本当にしんどいと言えない人の行き場は?
信じてひたすら待っていたら強くしなやかに伸びていく命もあれば、
そうならない命もある。
しんどい時は、他人事の励ましが辛かったり
人に混ざるなんてとても出来ないから、溝が出来て、
孤独に苛まれ、生きる価値を見出せないときもある。
何でも話してみて!なんて気軽に言われてもつらい。
家から出られない、深く傷を負い動けない、
食べることさえやっとの時もある。
そんな人達を本気で支える仕組みや方法は、30年前からあまり変わらないと感じてます。
私の妹は小一から不登校で、今は36歳。
親は努力してきたし、転校したり、居場所行ったり、福祉支援を使ったりしてますが、まだなお社会に自分から出たがることはありません。
(不安を煽るつもりはないですが私の背景として書きます。家にいれば家族と穏やかに生活していますし、一般的な社会?に出ることだけが素晴らしいとも思っていません)
姉としてずっと分かり得ない辛さがありました。
相談先の人たちも、全て分かる必要はないけれど、
言葉の節々から「お手上げ」「付き合いきれない」を感じてしまうと、困っている当事者や当事者家族は、結局術が見出せません。(もちろん、そこに付き合い続けることが負担で自分を守るために離れることも必要です。私は当時離れました。)
そのまま最後は、死んでゆくしかないのかもしれません。
今の穏やかさがあることが幸せかもしれないけど、本人の生き抜く実感や幸せの度数はわかりません。
ただ、
そこは自分で決めることでしょ。自分で頑張れよ!と言える人は、そのやり方で何となかったのだろうけど
それがワンパターンな押し付け、決めつけとは気づけない。
マイナスの人と、少しでもプラスの人とでは、
自立の意味が違ってくると思う。
手を引いてはいけない?
手をさしのべてはいけない?
そこに埋もれた命が見えているのに???
きっと、私は妹を想う時間と子ども達とを重ねて
そのパターンや方法や加減を、数年前から実験&観察しているのだと思います。
妹が学校を飛び出したあの30年前から、疑問と絶望と希望を持ち続けているのだと思います。
依存かもしれないし、執着かもしれない。
でも覚悟や責任なんて言葉はよく分からないうちに、身体が反応します。
学校では、立場やルールを言い訳にされやすいけど…
くだらなく感じて、どうでもよくなります(笑)
いわゆる「弱い人」は、昔なら特に
死に値するような扱いを受けてきた。
けれども、もともと生きる力のある人さえ虐げられてそうなってしまうのが今の日本の状態でもある。
もしかしたら植物や動物のように、
生態系では理にかなっているのかもしれない。
牽制し合うことで自分を守り、
自分に生きる意味を感じられない人は、排除される仕組みなのかもしれない。
でも私たち人間は、そこに感情をもつ。
切なさ、悲しみ、悔しさ、儚さ、
人の命に、とにかく沢山の感情がうごく。
何故?
人としての可能性を感じてしまう限り、
私は考え続けるのだろうと思います。
冷静に、そして感情的に。
不登校のご相談、私のような無資格の人間にもたびたびくるのは当事者だからなのもあるかもしれないけど。。
ほんとは有能な有資格の方に出会ってほしい!←支援がしたくて学んでる人達は沢山いるはずと思ってます。
(もちろん不登校に限らず、どんな人でも苦しさをひとりで抱えないでほしいと思います)
9歳の長男が作ってくれました。
私、あまり褒めませんが、ありがとう、美味しいと伝えます。たまに働いた分のお小遣いをせがまれます。(笑)
大根の味噌汁がまた優しい味♡