印刷がもたらした「科学革命」

アイザック・ニュートン『プリンキピア』(1687年)

回っているのは地球か、太陽か

 印刷技術がなければ、「科学革命」も違った姿になっていたことでしょう。これは17世紀のヨーロッパで生じた科学知識の急速な発展のことです。中でも天動説から地動説への転換は、最も劇的な進歩でした。

 ヨーロッパでは、長らく天動説――宇宙の中心に地球があり、他の天体がその周囲を回っている――という宇宙モデルが信じられていました。これは紀元前400年ごろにプラトンが考案したモデルに基づいています[11]。紀元前3世紀にはアリスタルコスが地動説――太陽が宇宙の中心にあり、その周りを地球やその他の惑星が回っている――というモデルを提唱していたものの、これはあまりにも当時の常識からかけ離れていました。

 もしも地球が移動しているのなら、なぜ風が吹きつけてこないのか?
 上空の雲が吹き飛ばされないのか?
 また、当時はまだ慣性の法則が知られていない時代でした。もしも地球が移動しているのなら、ボールを空中に投げ上げれば(地球は移動するが、ボールはその場に留まるので)ボールは遠くに吹き飛ぶはずではないか――?

 結局のところ、古代世界では常識が勝利を収めました。プラトンのアイディアを発展させて、紀元後2世紀ごろにプトレマイオスが『アルマゲスト』を執筆。ここに書かれたモデルは当時としては精度が高く、他のどんなモデルよりも正確に天体の運行を予測できました。プトレマイオスよりも正確な天体の運行予定表が登場するまでに、それから15世紀ほどの時間を要したのです。

コペルニクス的転換

 最初の一歩を踏み出したのは、1473年生まれのポーランド人でした。ニコラウス・コペルニクスはポーランドの教会領の閑職を終生務めた人物です。しかし、若い頃には諸外国に遊学していた時期があり、おそらくは世紀の変わり目ごろに、イタリア・パドヴァ大学の図書室で、アリスタルコスの発想に触れました[12]。
 地球は動いているという発想を暖め続けた彼は、1543年の死没直前に『天体の回転について』を出版しました。ここには地動説に基づく天体の運動モデルが記されており、教会の教えには真っ向から反するものでした。興味深いのは、冒頭部分で、ここに書かれたことは仮説にすぎないと強調していることです。計算を便利にするために考え付いたモデルであって宇宙の真の姿を表現したものではない、と予防線を幾重にも張っているのです。
 この冒頭部分の断り書きはコペルニクス本人のものではなく、本書の校正を担当したアンドレアス・オジアンダーという人物の加筆だと考えられています[13]。ルター派の牧師だったオジアンダーは原稿を一読して、それがどれほど危険な内容であるかを察知したのです。コペルニクスはおそらくこの加筆のことを知ることなく、穏やかな気持ちで眠りについたことでしょう。(※ 本人が死んだその日に校正刷りが届いたという説もある。)

 それでも、賽は投げられました。
 1世紀半ほど続く天動説VS地動説の論戦の口火が切られたのです。

金属の鼻を持つ男

 コペルニクスの死から3年後の1546年、その仮説と戦うことになる1人の男が生まれました。ティコ・ブラーエはデンマークの貴族で、10代半ばから天体観測に熱中しました。まだ望遠鏡が発明される前の時代、四分儀や六分儀を用いて、裸眼で夜空を観察したのです。血気溢れる性格だったようで、若い頃のケンカで鼻の一部を欠損しました。それを隠すために金属製の鼻カバーを身に着けて暮らしていたそうです。
 ブラーエはヨーロッパの名だたる大学を遊学し、天文学や占星術の素養を身に着けていきました(当時、これらは密接に関わっている学問でした)。さらにデンマーク帰国後の1572年には、夜空に突如として現れた光り輝く星――「新星」を発見。30歳を迎える1576年には、デンマーク王フレゼリク2世から、ヴェン島の領地と、屋敷・研究施設を作るための年金を与えられました[14]。優秀な天文学者として認められたブラーエは、やがてデンマーク王室の年間収入の1%にあたる金額を受け取るようになります。これは現在のNASAがアメリカ政府から受け取っている金額よりも大きな割合です[15]。
 優れた天体観測の技術ゆえに、彼は激しい葛藤を抱いたはずです。ブラーエは天動説を固く信じていました。しかし調べれば調べるほど、地動説のほうが上手く天体の運動を説明できるという結果が得られてしまったはずです。
 ブラーエは1588年に出版した論文の中で、天動説と地動説の折衷案とでも呼ぶべき宇宙モデルを提案しました。地球は宇宙の中心にあって不動であり、その周りを太陽が回っている――。ここまでは既存の天動説と同様です。しかし、他の惑星は、その太陽の周りを回っていると考えたのです。

ブラーエの宇宙モデル(画像出典:Wikipedia)

  ティコ・ブラーエが科学研究に果たした貢献は、この(現代人の目には苦悩の結果のようにも見える)宇宙モデルではなく、正確無比な観測結果にありました。彼は肉眼で天体観測を行っていたにもかかわらず、わずか15分の1度という驚くべき精度で星の位置を測定できたのです。

 ブラーエが独創的な宇宙モデルを公表したのと同じく1588年、後援者であるフレゼリク2世が世を去りました。1597年にデンマークを離れたブラーエは、新たな支援者を探し、やがてプラハで神聖ローマ皇帝ルドルフ2世と謁見します[16]。皇帝に気に入られた彼は、プラハ郊外での天体観測を許されました。さらにブラーエは、かねてより文通していた若き天才数学者を、アシスタントとしてプラハに招きました。
 そのアシスタントこそ、ヨハネス・ケプラーでした。

天体観測のできない天文学者

 ケプラーは1571年生まれ。ティコ・ブラーエよりも25歳ほど年下です。彼の招きに応じて1600年にプラハに到着したとき、ケプラーは28歳でした。2人はあまりそりが合わず、ケプラーはごく短期間でプラハを去りました。が、1601年にブラーエが突然死没すると、再び皇帝ルドルフ2世に呼び寄せられました[17]。ブラーエの後任として指名されたのです。
 科学の歴史上、これは大事件でした。
 ケプラーは文句なしの数学の天才でした。ところが眼を痛めていたため、自分自身ではほとんど天体観測ができなかったのです。そんな彼が、ティコ・ブラーエの研究を引き継ぎ、その膨大かつ偏執的なまでに正確な観測データを自由に使えるようになったのです。
 彼の著作では1609年に刊行された『新天文学』が有名です。ここには天動説は影も形もなく、地動説に基づいた宇宙モデルが提案されています。それどころかケプラーは本書の序文で、天動説の支持者すべてにケンカを売っています。コペルニクスの地動説によって信仰心が揺らぐような愚者は、天文学には口を出さずに田舎に引っ込んでいろ……のような内容が書かれているのです[18]。
『新天文学』には、いわゆる「ケプラーの法則」のうち2つが収められています。それまでの天文学では、惑星の軌道は真円だと考えられていました。円こそが完璧な図形であるという古代ギリシャの発想に引きずられていたのです。実際には、惑星の軌道は楕円形に歪んでいます。この楕円軌道の発見はケプラーの偉大な仕事(の1つ)と見做されています。

 ところが発刊当時は『新天文学』は注目を集めず、ほとんど読まれなかったようです。むしろ、ケプラーの仕事として評価されたのは1627年の『ルドルフ表』でした。資金提供者かつ庇護者である皇帝ルドルフ2世の名を冠したこの書籍は、ブラーエの観測結果をケプラーがまとめた惑星の運動にかんする一覧表でした。
 ブラーエの根気強い観測とケプラーの数学的才能が合わさった結果でしょう、『ルドルフ表』は正確性で抜きんでており、プトレマイオスの『アルマゲスト』を過去のものにしました。3年後の1630年にケプラーが没したときには、本書が彼の一番の功績だと見做されていました。

 結局のところ、ケプラーはケンカをするようなタマではなかったのでしょう。
 天動説論者に論戦を吹っ掛け、地動説の支持者を増やすためには、もっと不遜かつショーマンシップに満ち、広い人脈に恵まれた科学者でなければならなかったのです。

科学の父

 その条件に当てはまるのが、ガリレオ・ガリレイでした。
 ガリレオは1564年のピサで、さほど裕福ではない貴族の一家に生まれました。ケプラーよりも5歳ほど年上です。フィレンツェの修道院で教育を受け、17歳ごろにピサ大学に医学生として入学しました。しかし医学よりも数学に興味を抱いた彼は、フィレンツェで数学を教えるようになりました。ピサ大学で数学教授の地位を得たのは25歳のころでした。
 1592年、28歳ごろにヴェネチア共和国に移り、当時ヨーロッパで随一の大学だったパドヴァ大学の数学教授の職を得ました。1世紀近く前にコペルニクスがアリスタルコスの文献を目にしたであろう大学です。当時のガリレオは、商用および軍事用の計算尺の改良・販売で副収入も得ていたようです。
 彼が1597年にケプラー宛てにしたためた手紙によれば、この時代にはすでに地動説の支持者になっていたようです。しかし、まだそれを公言していませんでした。

 ガリレオの人生は40代半ばに、望遠鏡と出会ったことで転機を迎えます。

 望遠鏡は世紀の変わり目ごろに、オランダで生まれたようです(※ 日本では関ケ原の合戦が行われたころ、または英蘭でそれぞれ東インド会社が設立されたころ)。その数百年前から、凸レンズや凹レンズで視力を矯正できることが知られていました。宗主国スペインとの独立戦争を戦っていたオランダ人は、これらレンズを組み合わせれば遠方の景色を拡大できることに気づいたのです。1609年(※ケプラーが『新天文学』を著した年。)に結ばれた休戦協定により、オランダは事実上の独立を勝ち取りました。その講和会議の場で、望遠鏡がヨーロッパ世界に紹介されたのです(※ オランダの独立が国際的に承認されるのは、以前の記事で書いた通り1648年のウェストファリア条約まで待たなければならなかった)。
 望遠鏡はオランダではすでにありふれた技術だったようで、特許を申請した人々が「この発明はすでに世に広く知られている」という理由で却下された記録が残っています。当時、オランダ製の望遠鏡の倍率は約3倍でした。

 1609年、望遠鏡の噂を耳にしたガリレオは、自分でも作れるのではないかと考えました。そしてわずか24時間後には、倍率8倍の望遠鏡を組み立ててしまったのです。これを元老院議員たちに献上したことで、ガリレオは政界のリーダーたち、とくにヴェネチア共和国の総督から気に入られました。海洋国家であるヴェネチア共和国は、当時、オスマン帝国の脅威にさらされていました。望遠鏡があれば海上で敵艦をいち早く発見できることは、誰の目にも明らかでした。
 ガリレオはその後も望遠鏡の改良を続け、その年の終わりまでに倍率20倍を達成しました。

 そして彼は、それを夜空に向けました。
 そこには驚くべき世界が広がっていました。

 普通の科学者であれば、人生でたった1つでも大発見をできればいいほうでしょう。ところがガリレオは、この後わずか数年で天文学を根底からひっくり返す大発見を6つも重ねました。
 そのうち、最初の4つは1610年の『星界の報告』という書籍にまとめられています。

①月の表面がデコボコであり、地球のような山や平原があること。
 それまでの宇宙観では、地球は特別であり似たような天体は他に存在せず、また、真球こそが完全な立体だと見做されていました。月もつるりとした綺麗な球だと考えられていたのです。しかし望遠鏡はそれを否定しました。

②夜空には肉眼では確認できないほど暗い星々があること。
 とくに天の川が小さな星々の集まりであることをガリレオは発見しました。赤ん坊時代のヘラクレスが女神ヘラの母乳を与えられ、あまりにも強く吸ったから飛び散った母乳が天の川だ――。そんな神話の時代には、もはや戻れなくなりました。

③恒星は惑星よりも遥か遠方にあること。
 ガリレオの望遠鏡では、惑星の形はいずれも月と同様の球形に見えました。しかし恒星は、どんなに目を凝らしても形状がよく分からなかったのです。この観測結果からガリレオは、恒星が惑星よりもはるかに遠い場所にあると結論付けました。

④木星に衛星があること。
 ガリレオの発見した木星の4つの衛星――イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト――は、今でも「ガリレオ衛星」と呼ばれています。現在でこそギリシャ神話にちなんだ名前のこれらの衛星ですが、当時は違いました。ガリレオは『星界の報告』を当時のトスカーナ大公だったメディチ家のコジモ2世に捧げ、これら4つの天体にはメディチ家の兄弟の名前をつけたのです。この作戦は功を奏し、彼はメディチ家の宮廷付き数学者兼哲学者に任命されました。
 それまで宇宙観では、地球は唯一無二の天体であるはずでした。しかし地球に月があるように、木星にも衛星があることをガリレオは証明したのです。

 さらに、ガリレオは⑤金星に満ち欠けがあることにも気づきました。月が満ち欠けするように、金星も時期によって満ち欠けすることを発見したのです。これこそ、天動説が間違いであることの最初の直接的な証拠でした。プトレマイオスの説では、金星の満ち欠けを上手く説明できなかったのです。
 加えて、ガリレオは⑥太陽に黒点があることを発見しました。望遠鏡でとらえた太陽の像をスクリーンに投影するという独創的な方法を編み出して、黒点の観測に成功したのです。この研究は1613年に『黒点に関する書簡』として発表されました。本書の中で、ガリレオは地動説への支持を明白に表明しました。

ガリレオ裁判

 当初、ローマ教皇庁はガリレオの発見を好意的に捉えていたようです。これらは客観的な観測結果でしかなく、それが意味することまでは考慮されなかったのです。しかし彼が地動説への支持を明かしたことで事態は変わります。1616年に教皇庁はコペルニクス説を異端と宣言し、ガリレオにも今後それを研究したり擁護したりしないようにと警告しました。
 ガリレオは警告をほぼ無視しました。水よりも氷のほうが密度が高いというアリストテレスの説(※実際には逆。水よりも氷のほうが密度が低いからこそ、氷は水に浮く)を否定する研究に手を出して、イエスズ会とアリストテレス派の双方を敵に回し、また1623年の『贋金鑑定士』では、自然界は「数学という言葉で書かれている」という見解を表明しました。トスカーナ大公の王妃に宛てた手紙の中では、「『聖書』の文言という権威から始めるのではなく、実際の知覚体験および実証から始めるべき」だと述べています[19]。
 そして1632年、『二大世界体系――プトレマイオス体系およびコペルニクス体系――に関する対話』を出版しました。日本では『天文対話』という邦題が有名です。
 本書は3人の登場人物の対話形式で進みます。ガリレオ本人をモデルにした地動説の擁護者と、教会関係者をモデルにした天動説の支持者、そして2人の議論を横で聞いている審査役の3名が登場します。当然ながら、地動説派が天動説派を完膚なきまでに論破するという内容でした。
『天文対話』の中で、天動説派の人物は「単純バカ」のような意味合いを孕む「シンプリチオ」と名付けられていました。また、シンプリチオのセリフには教皇ウルバヌス8世が枢機卿時代に述べた言葉が引用されていました。さらに悪いことに、本書はラテン語ではなくイタリア語で書かれていました。ラテン語の素養があるエリートだけでなく、イタリア語の読める人なら誰でも読める書籍だったのです。
『天文対話』は、よく売れたようです。一方、ガリレオは1633年についに裁判で有罪の判決を受けました。以後、死ぬまで軟禁状態で過ごしました。(※ この裁判の際に「それでも地球は回っている」と呟いたという逸話が有名だが、これは後世の創作であるらしい)
 1642年、ガリレオは77歳でこの世を去りました。

ガリレオ・チャンス

 科学とは、絶対的な真実の体系ではありません。現時点で一番もっともらしい仮説の体系です。観察・観測に基づいて仮説を立て、その仮説を実験で確かめ、もしも仮説に反するような新たな観測結果が得られたら、仮説を練り直す――。これを永遠に繰り返すことが科学という営みです。
 ガリレオは聖書や古代ギリシャ人の言葉よりも、自らの観察結果と数学を信じるという姿勢を貫きました。これは当時のイタリアでは、自分の研究は神の啓示に等しいと述べているようなものであり、危険な発想でした。
 しかし、この姿勢を貫いたからこそ、彼は偉大な発見をいくつも残すことができたのです。天文学だけではありません。物体の落下速度が物体の重さによらず一定であること。振り子の等時性。さらに物体の密度と温度、浮力の基本的な関係――。これらの発見は、後世の人々が振り子時計や「ガリレオ温度計」を発明することに繫がりました。
 ガリレオは「科学の父」と呼ばれますが、それは決して過大評価ではないのです。

 ガリレオと望遠鏡の逸話は、示唆に富んでいると私は感じます。
 もしもお手元に倍率3倍ほどのオペラグラスがあれば、それで夜空を見ていただきたい。低倍率のオペラグラスでも、肉眼では見えないたくさんの星が姿を現します。目のいい人なら月面の凹凸まで見えるかもしれません。望遠鏡が発明されてからガリレオの手に渡るまでに10年ほどのタイムラグがありました。この期間にも、たくさんの人が望遠鏡を手に取り、ガリレオに匹敵する大発見をするチャンスがあったはずなのです。

 しかし、誰も夜空に望遠鏡を向けませんでした。
 向けたとしても、目にしたものを上手く理解できませんでした。

 望遠鏡を夜空に向けるだけで良かったのに、目にしたものをそのまま受け入れるだけで良かったのに。その「だけ」が、とても難しかったようです。中には、自らの宇宙観を守りたいがために、望遠鏡を覗くことを拒否する大学教授すらいました。
 一方、あえて単純化した言い方をすれば、ガリレオは夜空を望遠鏡で見ただけで、世界を一変させてしまったのです。

 新たなイノベーションが目の前に現れたときは、チャンスです。
 ごく単純なアイディアだけで、歴史に名を残す仕事ができるかもしれません。
 これを私は「ガリレオ・チャンス」と呼んでいます。
 どんな分野でも、先駆者になることには価値があるし、見返りとして大きな果実を得られることも珍しくないのです。

そしてニュートンがバトンを受け取った

 教皇庁は禁書処分にしましたが、『天文対話』はヨーロッパじゅうで広く読まれました。そしてガリレオの死後20~30年後には、教育を受けた人間で天動説を信じる人はほとんどいなくなりました。
 それでも、なぜ地球は太陽の周りを回っているのかを説明できる人はいませんでした。観測結果は地動説が正しいことを示していますが、その背後にあるメカニズムを誰も理論化できなかったのです。

 その偉業を成し遂げたのが、アイザック・ニュートンでした。

 ニュートンは、ガリレオが没した翌年の1643年にイングランドのリンカンシャー州ウールスソープで生まれました。当時のイングランドは清教徒革命の時代であり、ブリテン島の各地で武力衝突が発生している時期でした。彼はあまり恵まれた出自ではありません。父親は農園主でしたが(最底辺ではないものの)社会的地位は低く、ニュートンの生誕直前に死んでいました。母親はニュートンが3歳のときに再婚し、息子の育児を祖母に委ねました。
 ニュートンが6歳になる1649年には、〝護国卿〟クロムウェルの率いる議会派が勝利をおさめ、国王チャールズ1世が処刑されました。わずか10年少々で終わるイングランドの共和制時代の始まりです。一方、ニュートンは11歳で地元を離れ、下宿しながら基礎教育を受けました。17歳のときに農業を継ぐために実家に呼び戻されますが、まったく農作業向きの性格ではなかったようです。王政復古の翌年の1661年、彼はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに送られました。水を得た魚のごとく、彼は哲学的・数学的な問題に没頭しました。

 1665年、ケンブリッジ大学をペストが襲いました。

 大学は閉鎖され、ニュートンも故郷のウールスソープに疎開せざるをえませんでした。彼の業績の中でもとくに重要なものはすべて、この2年間の疎開期間に成し遂げられたとされています。おそらく、暇だったのでしょう。思索にふける時間を有り余るほど得られたからこそ、彼は数学・光学・力学の世界を変えることができたのでしょう。
 数学の分野では、ニュートンは微分積分法を発明しました。これはドイツの哲学者ライプニッツとほぼ同時期であり、どちらが先だったのかが議論になりがちです。現在では2人は別々に同じような発想に至ったのだとされています。私たちが学校で教わる微積分の記号は、ライプニッツが考案したものです。一方、ニュートンはそれを自然科学に応用したことが画期的でした。
 光学の分野ではプリズムの研究が有名です。古くから、太陽光をガラスのプリズムに通せば虹色に染まることが知られていました。ニュートンはここから、白色光はたくさんの色の光が混ざったものであることを実証したのです。
 ニュートンが真っ先に評価されたのは、この光学に関する研究でした。ペストが収まった1667年にケンブリッジ大学に戻ったニュートンは、1669年ごろには反射望遠鏡を発明していました。凹面鏡を使えば、ガラスのレンズよりもはるかに高倍率の望遠鏡を作れるのです。凹面鏡を使うというアイディア自体には先例がありましたが、実物を完成させたのはニュートンが最初でした。

 年代は少し前後しますが、この時代のイングランドの重要な出来事として、コーヒーハウスのブームが挙げられます。文字通り、酒の代わりにコーヒーを飲ませる居酒屋のような店です。現代の喫茶店のように一休みする場所ではなく、集まった男たちが会話や討論を楽しみ、仕事をする場所でした。人気のマンガ『マスターキートン』に登場する実在の保険会社ロイズも、もともとはコーヒーハウスに集まった貿易商たちが始めた一種の賭け事が発祥です。
 ロンドンで最初のコーヒーハウスは、1652年に開店しました。当時のロンドンは木造家屋がひしめく街だったのですが、1666年(※ ニュートンが疎開していたころ)の「ロンドン大火」でその大半が焼失しました。結果、ロンドンは現代のようなレンガ造りの家屋が並ぶ街へと変貌を遂げました。大火からの再建後、コーヒーハウスの数は倍に増えて、1688~1689年の名誉革命の頃には500軒(一説には2000軒)を数えたと伝えられています[20]。

 名誉革命の4年前の1684年、とあるコーヒーハウスに3人の男たちが集まり、ある賭けに興じました。
 ロンドンの再開発事業を手掛ける建築家クリストファー・レン、ロンドン王立協会(※現在まで続くイギリスの科学学会)の実験部門責任者ロバート・フック、そして、のちに彗星の名前で有名になるエドモント・ハレー の3名です。
 彼らの賭けの内容は、惑星を動かす力は「逆2乗の法則」に従うことを証明できるか? というものでした。
 当時、惑星の公転運動にはどんな力が働いているのかは分かっておらず、磁力が有力候補だと見做されていました。その力の正体が何であれ、逆2乗の法則に従うかどうか――太陽からの距離の2乗に反比例して弱まっていくのかどうかが議論されていたのです。これを数学的に証明するのは難題でした。
 もしも「逆2乗の法則」を証明できたら2ポンド(コーヒー250杯ぶん)を支払うことを彼らは約束し合いました。

 その年の終わり、ハレーはケンブリッジ大学を訪れ、ニュートンと面会しました。
 そしてニュートンに、もしも距離の2乗に反比例する力が惑星の運行に影響しているとしたら、惑星の軌道はどのような形になるだろうかと尋ねたのです。
 するとニュートンは「楕円だ」と即答しました。
 20年も前に、それを証明済みだというのです。
 感銘を受けたハレーは、ぜひその証明を書籍にまとめるべきだとニュートンを説得しました。おり悪く王立協会は資金難だったため、ハレーが出版のための費用すら工面しました。
 こうして1687年、自然科学の金字塔的書籍である『自然哲学の数学的諸原理』――通称『プリンキピア』が世に出たのです。
 ここには有名なニュートンの「運動3法則」がまとめられ、さらに万有引力の概念を導入することで、地上のリンゴや砲弾から天空の惑星まで、すべて同じ法則で説明できることが示されました。

 とはいえ、一般大衆に影響を与えた印刷物という点では、ハレーによる1715年のビラのほうが上かもしれません。
 この年の4月22日、ロンドンは皆既日食を経験し、町は暗闇に包まれました。しかし数百年ぶりの皆既日食を神の怒りの前触れとして恐れる人はほとんどおらず、イングランドの人々は感嘆の息を漏らしながら空を見上げました。その2週間前から、エドモント・ハレーと仲間たちは、日食の経路図を載せた「A description of the passage of the shadow of the moon over England」というビラをばら撒いていたからです[21]。

 観察と数学に裏打ちされた科学は、教会よりも正確な「予言」をもたらすことができる――。
 ハレーのビラは、そのことを知らしめたのです。


(次回、「人権革命」編に続く)
(本記事はシリーズ『AIは敵か?』の第8回です)

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※※※参考文献※※※
[11] マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ『科学は歴史をどう変えてきたか その力・証拠・情熱』(東京書籍、2011年)P.21
[12] モーズリー、リンチ(2011年)P.26
[13] スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』(文藝春秋、2016年)P.209-210
[14] ワインバーグ(2016年)P.213
[15] モーズリー、リンチ(2011年)P.26
[16] モーズリー、リンチ(2011年)P.25
[17] ワインバーグ(2016年)P.220-221
[18] ワインバーグ(2016年)P.226 
[19] モーズリー、リンチ(2011年)P.40
[20] 岩切正介『男たちの仕事場 近代ロンドンのコーヒーハウス』(法政大学出版局、2009年)P.14
[21] ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』(日経ビジネス人文庫、2015年)上巻P.212-216



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