アンリ・カルティエ=ブレッソンと私
1. HCBとの出会い
アンリ・カルティエ=ブレッソン(以下HCBとする)との出会いは、私自身アマチュアとして写真を撮り始めた頃、技法を独学するため図書館にあった写真集を虱潰しに端から引っ張り出しては眺めていた時のことだった。彼の写真が連続する世界の動きの中で決定的瞬間を捉えていることが直感された。またそれは、今でも私の中である種写真の定義として位置づけられている。20世紀を代表する写真家として名を馳せたHCBは数々の著名人をカメラに収めたが当人は写真を撮られることを嫌い、あまり多くの写真は残されていない。私の中の写真の定義を根本から書き換えてしまった彼の素顔に迫りたいという気持ちが強くあった。
2. HCBのポートレイト
HCBは数多くの写真集を残している。しかし、彼の仕事の特性を最も顕著に示しているのは日本語の書物は「アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 ポートレイト 内なる静寂」(岩波書店)だろう。
《同意している犠牲者の内なる静寂をポートレイトでとらえようとしても、そのシャツと素肌の間にカメラをすべりこませるのは容易ではない。内なる静寂を秘めるのは書き手自身だ》このHCBの謎めいた言葉は写真集のタイトルのもとになっている。本書はHCBの厖大な仕事の中からポートレイトに照準を絞って編まれている。そこには彼が瞬間と呼ぶところの遊びに溢れた何気ない情景が写されている。しかし、写真をよく観察すると徐々に不思議な点が浮かび上がってくる。普通ポートレイト写真は、撮影者と被写体は相互の緊張関係のうちに存在している。そのことは日本を代表する写真家荒木経惟のヌード写真に顕著であるが、ある意味で写真の抱える一つの制約とも言える。すなわち、カメラを前にして人は身構える。身構えることで本来の静寂が失われる。表情というベールができてしまう。実際の人間はどうだろうか。疲れ切って頭を抱えて机に眼を落とすキング牧師(71頁)の視点は机の上のなにものをも見ていない。視点の消失、表情の消失。それはHCBが《蚊が刺すように》と評されるほどの早業で《犠牲者》を前にして存在の息を殺してライカを片手に切りとったリアルなのである。
3. 破壊装置としての写真
写真は人間の記憶に対して遥かに強い手段で過去を証しする。それは写真の持つ社会的な役割である。しかし、リアルという言葉に一歩立ち入って写真を見つめなおすと、問題は単純ではない。ポートレイトを掘り下げて扱う本書を読み、写真という行為における対話関係を強く意識するようになった。写真におけるテクストは対話という意味において本質的に優れて社会的なものなのではないだろうか。
私は時々写真を撮りながら、手に持った機械が記憶の破壊装置であるように感じる。自作だが、私は以前『古い写真』(抒情文芸182号掲載)という詩を書いたことがある。その冒頭を引く。
記憶の破壊装置のボタンを押すと
カシャッと音がして
時間が停止した
力は加速度に比例する量だから
停止した時間の中では
重力は消滅する
だからあらゆる存在は
無限に軽いのだ
写真には肉体の重さがない。生命の重さがない。写真の中には時間がない。そのうえ、写真は遺ってしまう。写真は生よりは死に属しているといってもいい。私は写真に憧憬と恐怖を抱いている。