易について
この一年、易を重点的に勉強してきました。東洋占いはとくに流派が多く、「その捉え方は違う」論争がすぐにはじまってしまいます。東洋占い関係各所からのクレームが殺到しそうなのであまり詳しく書けないのですが、けっこう勉強をしましたよ。
「易はタロットに似ているよね?」という話をしていた先生がいて、「あ~わたしもそう思う」って思ったんですよね。易タロットってあるけれど、もっとかわいい絵柄があればいいのに。もしくはもっとマニアックな絵柄があればいいのにって思うんですよね。(「武将タロット」の易タロット版が欲しい!)
易サイコロや算木ってかわいくないんだもの。もっとイメージ豊かなものがあったらいいのに。現在出ている易タロットには爻がないから、エクストラカードで6枚のカードつけたらいいかも。
なんだろう?「難解なのが正義」みたいになっているのが、残念だと思うんですよ。東洋思想は難しいけれど、分からない人は東洋占いをしてはいけないなんて言うのはおかしい気がします。それとも、東洋占い界は難しいほどありがたがられるような文化なんでしょうか?ちょっと、現代風に翻訳したいよな。聖書をドイツ語に翻訳したルターがした宗教改革的なこと……起きないかなあ?東洋占い界で。
で、『易経』角川ソフィア文庫~ビギナーズクラシックス~は素敵な本です。いろいろ読んでも、必ず戻ってくる一冊。勉強すればするほどこの本の良さに気づくのです。占例や語釈がすばらしい。
易を学ぶことは難しいのだろうな、タロットを学ぶことは難しいのだろうな。教えている先生方も難しいのだろうな。理論はいくらでも教えることはできるでしょう。でも、定型文を覚えたところで占うことはできない。占星術だってそうだけれど(占星術用語を覚えても、いきなり話すことはできない)、もっと難しい感じがします。人の数だけイメージがあって、人の数だけ気づく場所があるからです。
易の先生が「結局は自分の易をつくらなければいけない」とおっしゃっていたんですね。先の『易経』の解説に次のような文があって感銘をうけたので最後に引用しておきます。
※シチュエーションは占問の数だけあって、この場合はこう占断するのだととてもマニュアル化などできっこありません。逆に、できないところに易占のおもしろさと創造性があるのです。こればかりは過去の占例をよく吟味して学習し、何度も実占の経験を積み、自分なりの易を作り上げていくほかはありません。(「解説」より)
※当今我が国は「貧すれば鈍する」ではないでしょうが、ずいぶん薄っぺらな国に成り下がったように思います(昔は貧乏でしたが、人々の心は今より豊かで思いやりも教養もあったように思います)。これは古典を読まなくなったからそうなったのか、そうなったから古典を読まなくなったのか、その因果関係はむつかしい問題ですが、当節、古典が軽視されているのは紛れもない事実です。その事実と古典とは関係ないのだ、という考え方もあるでしょうが、私自身は古典がなおざりにされていることが大きく関わっているように思えてなりません。古典は単純に古い典籍なのではなく、時代ごとに絶えず新しい命を吹き込まれて再創造されていくのが古典というものでしょう。芭蕉の言う「不易流行ですね」逆に新しくて役に立つものはすぐに無用になってしまいます。(「はじめに」より)
『易経』角川ソフィア文庫・三浦國雄著