芽吹きのエクリチュール chisato
芽吹かないわたしについて
ふたりは自分の中に芽吹いたものの話をしていたけれど、私はといえば最近とみに凪いでいる。
やりたいこととか特にないし、
隙があるなら寝ていたいし、
人の話も聞きたくないし、
余計なニュースも消しちゃいたい。
みたいな、、、
つかれてますね〜〜〜〜!!!!!
ってこんな話聞いたら相手に言うし、実際疲れてるんだろうと思う、でもなにになんだろう。
原因の特定ってやつにも一定労力を使うので、いまはそんなことする気分でもない。
そんな時は自分の中を探っていても、特に書きたいものはなにも出てこない。だからとにかく、ただ芽吹いてるものを見てみた。
関東は桜が終わりかけ、このあいだまで薄桃色だった木の枝に、真新しい緑が見える。新緑とはよく言ったもの、ほんとうに真新しいのがわかる。まわりの景色からちょっと浮きたって、ピカピカした色をしている。
葉っぱのフレディの絵本を小さい頃に読んだけれど、ほんとにあんな感じ。葉っぱひとつひとつに命があるのだと、わかるような感じがする。
そんなふうに見ていると、芽吹きというのは、命の輝きなのかもしれないとも思える。
この世に生まれてきた喜びみたいなもの、
排気ガスに汚されたり人に千切られたり動物に食べられたりするかもしれない、でもそれ以上に、ただここに生まれてきたことが尊いのだと思わせられる。
たぶん初めはみんなそう。
でも芽吹きの瑞々しい新緑のうえに、いろんな色の出来事や感情が、幾重にも塗られていくんだろう。そうするときっと、生まれたばかりのピカピカの色には戻れない。
この世に生きる命の一つである私は、そのこと自体を楽しんでいきたいと思っている。夏の深い緑も、紅葉の燃える赤も、冬を迎えるくすんだ黄色も、ピカピカではなくともどれもきっと美しい。
とは、わかっているものの…
いっかいピカピカに戻りたい、みたいな時があるんだよね。一気にいろんな色を塗りすぎたから?わからないけど。
たぶんいつだって戻れるのだ。ピカピカの色の自分に、戻ろうと思えばいつだって戻れる。いつからだって新しく始められる。
でもそうしないのは、これまで塗ってきた色の一つ一つが大切だからなんだろう。それもわかっている。
芽吹きにもたぶん、いろんな条件があるんだと思う。
芽吹かない時期があってもいいんだと思う。
次の芽吹きは、わたしにはきっともうちょっと先だ。
そのときは、あれもこれもと、いろんな気持ちが生まれたらいいな。そしてそれに踏み出せたらいいな。
春の訪れを感じるこの時期の所感にしては、なんとも薄暗い感じになってしまった。でも別に綺麗なまとめがなくてもいいのがnoteのいいところだと思う。
日の光を浴びながら木を見ていたら、いつのまにか前向きになるかもしれない。はたまた全くならないかもしれない。
そのどちらでもいいんだと思う。
いずれにせよ、あたりは春だ。