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「主体的学び」とは何か?
はじめに
このことを明確にして始めます。本論で考える「主体的学び」は、米国で始まり、周回遅れで日本にも導入されたアクティブラーニングとは別のものです。すなわち、学校教育を中心とした枠での、その学習方法を中心とした改革のことではなく、人間が生きるうえで「主体的学び」はなぜ必要なのか、何を私たちにもたらすのかについて考えるものです。米国のアクティブラーニングには日本の文科省が定義した「教授・学習法」だけでない社会改革へ向けた取り組みの思考があるのですが、このことについても省察していきます。
なぜ、今このテーマを取り上げるのか。資本主義の変容、民主主義の衰退が問われる中で、私たち個々人に課せられた責任は日々重くなっています。受け身で居続ければ地球はやがて元の姿に戻れなくなってしまいます。この危機感を共有し、私たちが自らの責任を果たして、地球の未来を存続させるために、「主体的学び」について考えることはとても重要です。
米国で始まった社会を変える学校教育改革
米国では、社会を変えるための学校教育改革としてのアクティブラーニングや学習パラダイムの転換が20世紀の末に起きました。
アクティブラーニング
アクティブラーニングは米のSoTL(Scholarship of Teaching and Learning)の間で議論され、Dr. James Eisonが提唱した広義のTaxonomyです。ジム・アイソン博士の共著『アクティブラーニング~教室の興奮を創る』(原題:Active learning: Creating excitement in the classroom 1991年)
アイソン博士は、土持ゲーリー法一博士のSoTL仲間であり、2013年南フロリダ大学を訪問してインタビューをしました。
アイソン博士が定義したのは、<Creating Excitement in the Classroom>のために、define as anything that involves students in doing things and thinking about the things they are doingを行うこととしている。 lectures will not help students achieve fundamental liberal arts goals such as learning to communicate skillfully in written and oral forms, engaging in critical and creative thinking, making informed value-decisions, and behaving in ethical ways. In addition, over the past decade, an increasing number of campuses have begun significant initiatives to involve students in such things as collaborative, cooperative, or team learning projects, learning communities, service learning, or internship experiences.
“Student Engagement”こそが、アイソン博士の提唱した概念です。学びの再定義です。具体的には学ぶ個人がそれぞれの意味を創りだすことであり、学修者が深い学びのアプローチを実践できる環境をつくりだすことです。
日本の教育の方法はいつも周回遅れで米国など海外から入ってきます。アクティブラーニングも同じです。しかも、その本質を理解せずに導入しました。
2012年、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」という米国のアクティブラーニングを取り入れたものによって、文科省は次のように、定義します。教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。
私たちは、土持ゲーリー先生を講師として、文科省の若手職員に向けた研修授業を行いました。「あー、そういうことなのか」と文科省の職員も実感できたと思います。アクティブラーニングというスタイルの授業方法があるのではないということです。また単なる授業改革ではありません。文科省は「アクティブ・ラーニング」(アクティブとラーニングの間に・を入れてはならない、という土持ゲーリー先生の鋭い指摘です)という記述法によって、アクティブラーニングスタイルの授業があるような誤解を与えてしまいました。さらに深刻なのは、なぜ米国でアクティブラーニングを必要としたのか、そのことを理解しませんでした。繰り返し行政に提言しますが、行政は自らの間違いを変えることになりませんでした。その結果が今日の姿です。
ティーチングからラーニングへのパラダイム転換
「米国ではアクティブラーニングが大きな注目を浴びたが普及せず、逆に、学校現場からは「教える内容が多すぎ、教える時間は少なすぎる」と批判された。ところが1995年、米国で「学習パラダイム」が起こった。それが意味するものは、教員中心の教育から、学習者中心の学習への転換である。それまで聖域とされた学校にもメスが入り、大学と教員は学習者の学習成果について説明を求められるようになった。学習パラダイムの提唱者であるジョン・タグ教授らが強調したのは、知識の伝達ではなく、「学習を生み出すこと」である。」(土持ゲーリー法一「教育新聞」)
学習(ラーニング)パラダイムについては、土持ゲーリー先生の著書に詳しい。
米国でこのパラダイムシフトを提唱したロバート・B・バー博士&ジョン・タグ博士の「教育から学習への転換 学士課程教育の新しいパラダイム」は、「主体的学び」ジャーナルに書き下ろしで翻訳されました。
10年間の主体的学び研究所活動と省察
私たちは、主体的学び研究所を創り、土持ゲーリー先生を中心にして、主体的学びについてのあらゆる視座からの課題を拾い出して、意見交換する機会を提供することにします。10年間の活動は教育分野での議論を広げたことで成果は大きかったと考えます。一方で、学校教育、とりわけ高校や高等教育に偏っこともあります。高校・大学と社会のつながりを重視したためですが、その限界もありました。本来は幼児・子ども、社会人など全ての人の学びを対象にして、人が生きる上で「なぜ」主体的な学びが必要なのかを考えていく必要があります。
本論に入る前に、10年間の主たる活動を3つに分けてレビューし、省察します。
定期ジャーナル「主体的学び」発行
第一に「主体的学び」ジャーナルを定期的に発行して、旬のテーマを取り上げ、教育関係者らの意見交換の場とすることです。文科省、全国教育委員会、教員、学習者、一般の人に配布しました。ジャーナルは私たちの活動の意義を理解してもらうために役に立ちました。
「主体的学び」ジャーナルのディスクールは多岐にわたっています。例えば、幼児教育では、ラカン、メルロポンティ、ピアジュなど発達段階での「主体的な学び」のこと、あるいは、分子生物学や心理学的アプローチとして、脳のニューロンの働きと「主体的学び」の関連性、また、子供の貧困や格差社会などとの関連を考える社会的アプローチ、音楽家や画家などのパフォーマンス性の高い分野、さらには組織の中の個人としての働き方の問題、どのようにして主体的学びは創発されるのか、主体的学びを疎外するものは何か、「主体的学び」とアクティブラーニングは同じものか、「主体的な学び」は人の生き方を変えることができるか、「主体的学びは評価できるものか、「主体的学び」を培う環境の問題、主体的学びを促す学習空間のあり方、なぜ受け身ではいけないのか、など色々な視点で考えてきました。(「主体的学び」ジャーナル1〜6号、特集(東信堂出版))
「パラダイム転換 教育から学習へ ICT活用へ」創刊号
「反転授業がすべてを解決するのか」2号
「アクティブラーニングとポートフォリオ」3号
「アクティブラーニングはこれでいいのか」4号
「アクティブラーニングを大学から社会へ」5号
「特集 今なぜ教養教育が必要なのかを問う」6号
「教えることをやめられますか」7号
主体的学びを促すカナダのICEモデルの啓蒙
第二に、主体的学びを促すカナダのICEアプローチ(モデルと翻訳では訳す)を日本で啓蒙することです。ICEアプローチは、学校教育だでなく、民間の人材教育や家庭教育でも注目を浴びています。ICEは主体的な学びを行うための自己省察を徹底的に促す考え方です。学習者の成長を促すフレームワークと提唱者のSue先生は考えます。自らの学習のあり方を発見し、学びの本質に迫ることができる。人としての生き方を考え実践するための重要なことを示唆します。他者による評価の無意味さを知ることになります。
教育の課題を語る国内外専門家の「映像対談」
第三のコアは、土持ゲーリー先生と国内外の教育関係者との「映像対談」を行うことでした。対談者はそれぞれ国内外の教育専門家として活躍されている人ですので、貴重なアーカイブとして今でも多くの視聴があります。
特に米国のジョン・タグとディ・フィンクとの鼎談は貴重な映像で字幕翻訳もしています。元POD会長のフィンクが「Student Engagement」という学習者中心の学びへの転換を主張していますが、タグは同じ文脈を教育のパラダイムシフトとしています。
『ジョン・タグ教授とディ・フィンク教授による「世紀の対談」―
「教育パラダイム」と「学習パラダイム」における教育と学習を語る』
Talking about teaching and learning in the “teaching paradigm” and the “learning paradigm”
学びが社会や生き方を変えられなければ意味はない
フィンク先生は、学びは何よりも“Learning how to learn”(学び方を学ぶこと)が大切であると言います。学生はこれから自分が生きるための学びをしなければならないからです。「意義ある学習のタクソノミー」(Significant learning)を提唱するが、それは学生が何かを学んで、生き方を変えるというものです。学びが人の生き方を変えられないならば意味はない。大学で学ぶのは人生で何を学ぶ必要があるのかを考え実践することです。タグ先生は”It is the most challenging problem.” と同意する。
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「主体的学び」がなぜ必要なのか
これまでの活動の概要を述べてきましたが、ここからは、「主体的学び」が人間が生きていく上で、なぜ必要なのか。さらには、どういう思考と結びついていくのか、なぜ受け身ではいけないのか、という横への広がりも考えていきます。
「主体的学び」の定義を改めて考える
加藤周一や鶴見俊輔の定義があります。「一人ひとりが、これが問題だというものを持っていて、ただ教師が教えてくれるものやそこにあるものを学ぶのではなく、個人が自分自身で問題を考えて学ぶのが本当の主体的な学びであろう。」「「地球規模の問題がわかって、そこから見て話すことができるようになる」ということではないか。」
何をトラバーユするか
主体的な学びは、確かに、学ぶ動機や対象を自らの内に見出している時におとずれるものです。私は、これに加えて、自らの存在を自覚したとき、他者に対する眼差しを豊かにして自らに「労作(トラバーユ)」を課すことがなければ主体的学びの実質化は果たされないと考えます。この「トラバーユ」は、より具体的なものでなければなりません。しかもトラバーユは想像力によってまず作られるものです。
想像力の世界は現実の歪められた世界よりもずっと重要です。人間の、そして社会の真実の姿を表しています。だから鍛えられた想像力を持つことが既に主体的なものの本質が存在することになるのです。そこには、自分に全ての責任があるという無自覚の倫理や思考が内在的に存在しています。何を「トラバーユ」するかがなければ「主体的な学び」は存在しません。
受け身ではなぜいけないのか?と問います。受け身で学ぶものに責任は生じないからです。
能動的人間にしかモラリティも育たないからです。受け身では結局どこかに歪みが生まれます。欧米は日本よりも、自己教育が基本であることが根づいています。大学などでは他者と一緒に学びますが最後は自分でやるしかありません。
「受け身からは構想は持ち得ない。あれは終わったことだと目を背けるところからは、イノベーションは起こせない。戦後の初めにあたり、能動的に構想された新しい日本の全体性、それが四半世紀、ことごとく否定されてきた。それは能動的に行われてこなかった。常に受け身でやってきた。だから全体構想はなかった。日本人は今を大切にすると言われるが、そうではなく過去をよく見つめないからすぐに忘れてしまうことになる。敗戦を国家としても、個人としても総括しなかったことは、すなわち主体性を持ちえず、同時に他者性も放棄した。」(大江健三郎)
「日本は豊かさへの道を踏みちがえた。画一物差しで優劣を決めて負けたものを排除する社会にしてしまった。ベルリン自由大学で、日本とは別の資本主義を見てショックを受けた。日本人は自分のことを大切にしていない。自分らしく生きることを考えていない。他者のことにも無関心になっている。」(暉峻淑子)
主体的に学ぶ「方向」が重要であると、デリダ(脱構築)は主張します。学びは、一旦既存の価値を壊してしまうことで、善か悪か、正しいか正しくないかという二項対立的な学び(浅い学び)を超越することができる。アップル創業者スティーブジョブが学んだ考え方でもある。デリダは、想像的かつ創造的な学び、つまりゼロから積み上げる学びは主体的な学びにしかできないと主張しました。
また、主体的な学び=想像力がある学びであるとノースロップフライは言います。“Knowledge of literature can’t grow without the knowledge of allegory, allusion, simile, metaphor. ” 従って、学びのスタートは聖書や神話を徹底して学習するのが西欧の子供たちである。ブレイク、ダンテ、エリオット、ジョイス、イエーツなどを読むことから主体的な想像力が生まれる。この想像力の世界は現実の歪められた世界よりもずっと重要であり、人間の、そして社会の真実の姿を表している。これは学校教育よりも、むしろ家庭教育の中で育まれるものです。学びの環境そのものが主体的でなければ起こり得ません。
「主体的学び」の方向
主体性というのはどう主体的であるかという主体的の方向が重要ではないでしょうか。(羽仁五郎)
1. 批判的精神に立脚した主体性:主体的学びは単に情報や知識を受け入れるだけでなく、批判的に考え、疑問を持ち、自分なりの意見を形成することを意味します。自らの思考や判断を磨くことで、知識を深めることができます。そもそもなぜ学ぶのかという疑問を常に持ち続けないと学ぶ対象を自明のものとできません。
2. 異質な他者をリスペクトすること:主体的学びは他者との異なる視点や経験を尊重し、他者とのコミュニケーションを通じて自らを相対化する能力を鍛えることです。他者を深く知ることで新たな考え方や自らのアイデンティティを生み出します。
3. 長い人生経験を苦労して積み重ねる意思と覚悟:主体的学びは人生のさまざまな経験から学び取ることも含まれます。そのため、困難や挫折に直面しても諦めずに学び続ける意欲と覚悟が必要です。
「主体性」とは何か
「主体性」という言葉を身をもって示したサルトル、柳田國男、森有正の三人を上げます。
「人はまず実在する。本質はそのあとで、自分でつくるもの。人は自らつくるところのもの以外の何ものでもない。」そこからみずから主体的に生きる、という「主体性」の概念が出てきます。みずからつくるとは、言い換えると、未来に向けて自分を投げ出すこと。これを「投企」することと名づけます。主体性+投企から選択する自由が生まれる。さらには自己の責任、不安、孤独が生まれる。サルトルのヒューマニズムは「人間は人間自身の中に閉ざされていると考えるのではなく、「投企」と言う乗り越えと人間的な主体性を結合させたものである。」自由とは何か?自由はいかに自己を実現していくか。「投企」行動の中に希望が生まれます。
「人が生存し続けるものとすれば、それは単に生まれてきたからという理由からそうなるのではなく、その生命を存続せしめる決意を立てるがゆえに存続し得られる。」(サルトル、渡辺一夫訳)
だからこそ、主体的ということは他者の存在を優先的に考えることなのです。柳田國男は、集団的想像力について繰り返し証拠を提出し続ける所のおそらくは我々の時代のもっとも巨大な語り部であった。「一番惜しいのは、日本人の長く味わってきた興奮ですね。きれいな興奮。それに伴うイマジネーション、これらが皆なくなってしまった。普段にあまり興奮が多いものだから。」集団的想像力を発揮する場としての「祝祭」が全国に存在していたが、それが消滅して、個々のエネルギーの行きどころがなくなってしまう。「パリ・コンミューン」以降、なぜ若者があのようにパリという都市で熱狂的なデモを繰り返すのか?
生きることは考えることであると放浪のパリで思う。そこで感覚の目覚めという経験に出会う(「バビロンの流れのほとりにて」)。経験とは他の人とはとりかえることのできないものではないか。つまり経験したということは、そこにその個人が存在しているということであり、他者にはわからない内的なものである。それをどのようにして他者に伝えるのか。そこに、「ことば」が必要になる。経験することの重要なことは、全てが受動であるということで、人が勝手に作り出してはいけない。偶然ということ。人が他者には変わり得ないものが経験なので、自分の経験を自覚した時に人は本質的に孤独であることに気づく。孤独とは経験そのものである。主体性というのはだから意識したことの継続ではなく、意識した日常の中で偶然に現れるものとも言える。(森有正)
他者性について
もう一つ、主体的な生き方の定義として欠かせないものがあります。他者性ということです。他者のことを考えるということです。他者性を、主体的学びのスタートと考えた言説があります。
「人は自分が大切なので自分の思いを主張すると知らない間に他者を傷つける。私とは異なる他者を尊重することで自分も尊重される。自分と非対称の他者がいるから成り立つ。」(レヴィナス)
「自分の主張の前に相手の主張を正しく聞くことから言語ゲームは始まる。他者を学ぶことで自分は成長する。学びのスタートは他者を認識すること。」(ヴィトゲンシュタイン)
「私たち人間が、共感=sympathyという概念を中心に人間が人間らしく生きていくのは、他者の喜び、悲しみという人間的な感情を表現して、お互いに分かち合い、理解しあうことができることで、力を合わせていろいろな問題を解決していくからです。」(宇沢弘文)
学びは、主体的に学習者に受け入れられ、内的葛藤を経て、新たな価値創出へ繋がっていくか、また自分の経験や思いにコネクトしていくのか。(ミハイル・バフチン「小説の言葉」)
他者のことばの伝達と描写、の章からの引用です。
「他者の発話、他者の言葉の伝達とそれについての論議は、人間のことばにおける最も普遍的で本質的なテーマの一つである。他者の言葉の理解と解釈の仕方が我々に対して持つ重要性(生活解釈学)である。それを習得しつつ伝達する二つの基本的な学習方法-<その言葉通りに>と<自分の言葉で>-がある。後者は、他者の言葉を二声的に語ることである。内的説得力のある言葉は、それが肯定的に摂取される過程において、<自己の言葉>と緊密に絡みあう。」ここに開かれた自分と他者とのコネクトが生じます。「権威的な言葉(宗教、政治、道徳上の言葉、父親や大人や教師の言葉)は意識にとっては内的説得力を失っている」
自分らしく生きるために
土持ゲーリ先生の近著があります。「なぜ「主体的学び*」が必要なのか:自分らしく生きるために」(土持ゲーリー法一)
「自分らしく生きるために」であると明確です。読者は自分らしく生きるとはどういう生き方かを考えます。
私はまず日本の大学生はいつから勉強しなくなったのだろうか?と考えました。潮目が大きく変わるのは、1960年代はじめの安保闘争であろう。大学での想像力、言語、討論の根本的な課題の一つが「全体とは何か」全体を見る眼とはどういう眼であるのか?という問いかけがあった。その代表は、高橋和巳です、大学闘争の全面的な敗北、日本の青春の全体の解体が行なわれてしまった。もう一度世界全体を捉えることを可能にする根本の思想を提出したいというのが当時のパッションであったが、70年の全共闘大学紛争の時はすでに60年安保の持つエネルギーの質が異なっていました。
オクタビオ・パスが大江健三郎に投げかけます。「日本は今さら周縁にどのようにして戻れるのか」すなわち、1968年の世界同時学生運動が起きたとき、すでに日本の学生運動には主体的な思考が存在しませんでした。イデオロギーさえ曖昧でした。メキシコや韓国は民主化闘争だったのに対して。したがって、70年代より大学が就職へのステップと拍車をかけて、大学に入ることが目的になっていくのは当然の帰結でした。
今日の大学の縮図とも言える発言が東大藤井輝夫総長の危機感です。
<最近の東大生は試験に受かるスキルを小学校からやってきた富裕層の学生の集まりであり、国籍も日本ばかりで学生の均一化はかなり深刻である。世界の大学でこれほど異質なモチベーションが存在しない大学はないが、これが日本の社会の実体を反映している。そこで、東大に新しい学校「カレッジ・オブ・デザイン」を検討する。>
「もともと、日本の「学び」の根源は、「まねる」から由来していることから、学校では教師の教えることをまねる習慣が根強い。このような受動的な学習形態は、長く培ってきた伝統的な教育方針にもとづくものである。」(著者)
著者の指摘で次の言説は重要であり、この一つひとつについて私たちは思考を深める必要があります。
・「両者(「学士力」と「社会人基礎力」)に共通する教育力とは、リベラルな考えにもとづく、「主体的学び」ではないかと考える。」
・「「主体的学び」とは、他者と共有することから育まれる。」
・「「主体的学び」とは、「メタ学習者」を育てることである。
・「主体的学び」とは他者に迎合するのではなく、自らの学びを極め、「画一」性を嫌うことである。
究極の問いは、「主体的学びとは「あなたはだれ?」と問うこと」である。著者が自分らしく生きる、ということは、人間全体としての生き方を問うていると考える。
政府は「学修者本位の大学教育の実現」(文科省中教審2023年5月)の中で、「高等教育は、人類の普遍の価値を生み出し、世界が直面する課題を解決するために「主体的に」実行していくのが使命である。」と記述した。果たしてこの「主体的に」は、世界的課題である、民族浄化、強制追放、戦争、経済格差など弱者視点への学修の方向づけはあるのだろうかと考えると、なんとも暗い闇しか見えてこない。
「自分がどのような学習者であるかを追求することが「学び方を学ぶ」原点になる。そのためには、一定の距離をおいて自らを見つめなおすことが重要で、これをメタ認知と呼んでいる。フィンク博士は、それを実践する人を「メタ学習者」と呼んでいる。」」(同)「メタ学修者」になるということは、想像力を鍛えて自分の「構想力」を持つことではないだろうか。これが今の日本人全体にも欠けているのだから。
「主体的学び」とリベラルアーツ
戦後、米国教育使節団は、民主主義教育と六・三制教育を指導して、南原繁ほか日本の教育リーダーたちは、これを自らのものとして受け入れました。その一つにリベラルアーツを育てる教養教育の仕組みがあります。
前述の「主体的学び」がなぜ必要かについて考察してきたことは全てリベラルアーツの精神に共通しています。すなわち、リベラルアーツを学ぶためには、「主体的な学び」が欠かせないということになります。
しかし、日本の教育は、リベラルアーツの本質を理解できないために、新制大学では専門教育偏重して一般教育は見捨てられます。せっかく与えられた機会を無駄にします。1991年の大学の大綱化で、さらに悪化して、リベラルアーつは消滅します。米国では、専門の医学、法律、科学テクノロジー、経済、政治、芸術などを学んでも、それぞれの職業のリベラルアーツが身についていなければ、その専門的知識を活用することはできないという考えに基づいています。
アメリカのリベラルアーツカレッジで学生が授業で質問をするのは、事前学習により疑問を持って授業に臨んでいることと、受講生がいろいろな専門分野から来ていることがあります。「そもそも教育が人間を幸福にするというのは大きな間違いではないか。これは教育の本質的な目的ではない。」(松井範惇)
そこで、アマルティア・センの「可能力」について考える。日本の偏差値「学力」は完全に間違っている。人間の基本的な能力とは選択肢を増やす「可能力」であると考える。
「人々が自由に、自分のしたいことができ、なりたいものになれ、行きたいところに行ける。----恥じることなく外を歩ける。自分の関わるコミュニティで議論に加わってその決定に参加できる。そして他の人の生の豊さにも貢献し、そういった活動から自尊心を得る。」
「「可能力」を育てるのがリベラルアーツである。それは、「いかに」学ぶかを知り、「問い」を持つことであり、問題を発見する力(問題を解決する力ではない、PBLの課題でもある)、「学び方」と「学ぶ意欲」を学ぶということである。アメリカのリベラルアーツカレッジは、このことを大学全体が理解して、組織的に取り組むのである。」(同)
日本では「リベラル」という言葉が十分には理解されていない。単なる教養ではない。「広さと深さ」の両方を学ぶことであり、それは人間を学ぶことである。
日本でも個人がリベラルアーツを身につけるにはどうしたらよいのだろうか?と言う質問に対して、個人一人ひとりの「可能力」を、広さと深さを持って考える社会に変えていくことではないかと指摘する。私たちはもっと自信を持ってコミュニティに参加していかなければならないのだろう。そこで大学にとっても、学生においてはより、地域コミュニティに深く根差した環境が必要となるが、多くの大学経営者はこのことに気がついていない。
冒頭、東大の危機を書いたが、都市型の大学はますます画一化されて存在感をなくしていく。
「想像力を持たない日本には、「一次的人間」が充満している。「一次元的人間」とは、自分自身の欲望や価値観を批判的に問い直す能力を失った人間のことです。又、日本人は構想力を持てないという評価がある。それは戦後ずっと受け身でやってきたためである。アメリカの「植民地」とも言われる。このように「受け身からスタートしたものは構想を持ち得ない。」あれは(沖縄、ヴェトナム--)終わったと目を背けるところからは、イノベーションは起こせない。すべての責任を回避しているからである。」(大江健三郎)
大学の学びで、武満徹が言うようなモジュールをつくり、全体としての構想力を持つことこそが目標となって欲しい。
私たちは、もう一度原点に戻り、リベラルアーツを身につけることから始めなければなりません。
「主体的学び」の日常性、レトリカルな考え方や行動
日常を生きることの文脈で“主体的”とはなんであろうか。私たちは皆生きている中で何か決断しています=つまり全ての人は主体的に生きているとも言えます。私たちの日常とはレトリカルな生き方をしているのです。人は皆多かれ少なかれ咄嗟にレトリカルな判断をしています。その環境とは、(genre)/自分の置かれている立場は(rhetor)/他者は誰(audience)/今何をしなければならないか(purpose)/動機はと5つのことを考えて行動しています。自らの主張の正当性の根拠(reason=理性)を示しつつ、相手の反論をしっかり聞き、その上で、改めて主張の統合や修正などを行うのが私たちの日常です。
私たちは常に自らの「自分はどんな人間か?」「自分は何者か?」という自問をしているはずです。
ここまでのレトリカルな生き方を持って主体的な生き方と考えるべきであると、アドルノは主張します。同じ考えの人は多くは要らない。異質なものがあってこそ社会はより成長する。(違った考えを統合せずにそのままにしておくという非同一性)レトリカルな考えは自分の正当性を主張するものであるが、一方で、他者の存在を認める主体的な学びには欠かせない要素です。
「主体的学び」は社会が生み出すものでもある
主体的な学びの新しい定義として、トラバーユする具体的な方向が重要であることを指摘してきました。いろいろな経験を積み重ねた上での人生哲学を持つことです。この視点が日本では決定的にかけています。そこで主体的、主体性が本来的に持つものを原点に戻って考える必要があります。欧米では文系・理系の区別なく哲学教育に多くの時間を使いますが、国が哲学教育をどのように位置付けているか良い例があります。
フランス公教育相アナトール・ドゥ・モンズィの「哲学教育に関する指導要領」に書かれていることです。
「青少年のうちに、後年みずから判断をくだしうる気概を涵養すべく、その内省的能力を育成せねばならない。ゆえに、思考と行動にかかわる問題の総体について、同時代の社会および人類のなかへの真の同化をうながす見識をあたえねばならない。一方で、年若く柔軟な精神のうちに、まったき自由を担保し、社会全般にわたる諸問題について批判的な判断力を身につけさせ、他方、まっとうな社会人たるべき義務と遵法をも養わねばならない。両方は必ずしも自明ではない。生徒はひたすら作文の執筆を通してこのことを訓練する。」
マイケルハートとアントニオ・ネグリは、「主体的学び」を学修者視点ではなく社会のニーズとして捉えている。「現代社会はあまりにもサイエンス推進を優先して戻ることのできない歪みを作ってしまった。世界は重大な事実に気がついていない。気がついていても動けなくなっている。今一番大きな市場ニーズは、言語的、コミュニケーション的、知的発展に関する領域にある。これまでのサイエンス以上の市場である。そして人文学教育に多くを依存している。にもかかわらず、財政支援サイエンス中心にまわっている。教育がコモンの制度になれば、社会全体の利益が教育指針となる。こういう教育制作り上げる必要がある。」
デジタル時代における「主体的学び」の役割
科学技術の進歩は人間社会を確かに豊かにしてきました。
「デリバティブ金融を人類学的に考える。リスク・テイキングする一部のものが利益を得るという仕組みをデジタルが作り出してしまった。」(「不確実性の人類学」(シカゴ大学:アパデュライ)2020年)
デリバティブの論理に反対する分人主義である。(分人=divisual、分かち合う人々。お互いに困ったことを助け合うのが本来のコモンズ)ミルトン・フリードマンは徹底した資本主義的個人主義である。デジタルのもたらす人間社会への害に関して、全ては人間が根底にある問題です。オールタナティブ・テクノロジーや共鳴の科学論を通じて「社会を傷つける科学」への変容を指摘する。巨大科学はコントロールしないと、デジタルによって人間は退化(ディジェネレーション)していく。(高木仁三郎、シューマッハ、宇沢弘文)
その一方で、なんのための科学か、なんのためのデジタルかが深く問われないままに、開発が進められてもきました。
「科学技術はリニアーモデルからフォーサイト・ミッションモデルに変革し、トランスフォーメーションの時代になっている。」「科学技術のイノベーション(デジタル化)は第6期のトランスフォーメーションの時代に入っている。Policy for scienceからScience for policyへ。社会の課題解決のためにデジタル技術をどのように使うかという視点こそが重要である。科学はGDPの成長・人間社会を豊かにした一方で、地球や人間社会を崩壊させているという認識に立つ必要がある。」「従って、まずは望ましい社会の未来像(foresight)とデジタルの未来像(delphi)の連動が課題となる。」
科学者は自然界の存在を切り刻んで破壊し、原始や分子まで分解、その結果生きている原石を殺してしまっていることに気づいていない。このような科学者の在り方に人間(文学者)は抵抗を続ける。解剖はするがそれは綜合を目的としている。科学デジタルは時にして本質を見失う。人間にある一番大切なものは、想像力である。(夏目漱石「文学と科学について」)
経済至上主義のもと、集中・大規模・効率・高速などが開発のための規範となってきました。人間社会は産業革命以前は、どちらかというと、今日の規範とは逆の分散・小規模・ゆとりやあそび・ゆったりの社会でした。しかし、今日のデジタル化急速であり、否応なく全ての人々を巻き込んでいきます。私たちが、先端的なデジタルから自由である権利は保証されません。
中谷宇吉郎は、科学の限界をこのように述べます。「科学は自然界の物事を全て明らかにしていくように考えるが、それはあくまでも人間の意思による範囲でのこと。デジタルにより測定できるもの、すなわち再現性のあるものしか扱うことはできない。あくまでも人間視点で本当か嘘かを確かめていく学問である。科学が取り扱えるもので、かつ人間が興味を持つものだけである。」(「科学の方法」)
科学に携わるものは、人間哲学を持たなければならないのはこのことによります。しかし、今日はこの哲学が崩れかかっています。受け身で考えているためです。
人間は便利さに慣れると後戻りできません。人間がコントロールできない危機に向けて、テクノロジー自体のダイナミズムが、人類を引き摺り込む危機は、今や現実のものとなっている。人間としてのコントロールの役割を放棄し、テクノロジー自体に、人類の運命を委ねようとしている。人間が客観的になることはすでに人間存在を放棄している。AIが精巧になり見分けがつかなくなっても、人間の見る眼は存在する。科学者はその専門分野で「それが人間であることとどういう関係があるのか」という問いを発していなくてはならない。人間であることを中心にしたことの世界観である。(大江健三郎)
デジタル時代における学校の存在意義もずっと問われています。MOOCsなどオンラインで学修できる環境では、教えるものと教わるものが関係が不定型になります。しかし、「学習は社会的体験である。ハーバード大学は建物や教授がいるからハーバードなのではない。学生が相互に関わっているからハーバードなのである。」((Derek Bok 教育学習センター長)
「教育の役割は人を医師や弁護士や技師にすることではない。教育の役割は、医師や弁護士や技師を人にすることである。」(W.E.D. Du Bois )ということはデジタル社会でも全く変わらない。デューイが求めた本来一人ひとりの持っている個性的な能力や資質を育てていくこと、すなわちDevelopmentと、今日のデジタルデータで保証されたGIGAスクールの意味は根本的に違います。人間を画一的な方向に向かって育ことは許されることではありません。
おわりに
スピノザは、神を出発点として、自然の摂理を全て説明できると考えた。そこから自分を自由にする自己解放の道を哲学によって思考した。スピノザは思索することが慰めとなるということから哲学に入っていきます。
「あなたはどんな人か?」「あなたは何者か?」という自問をする。肩書きや職業、所属を外して自分のことをImproperlyにすぐに答えられる。これには普段から考えていることが必要です。レトリカルな生き方と言えます。人々はみな咄嗟にレトリカルに考えている。どんな状況にいるか?自分はどんな立場か?相手は誰か?今何が目的か?
基本的に人間には自分に全ての責任があるという無自覚の倫理や思考が内在的に存在しています。主体的とは心にオープンなスペースがある=他者のことを受け止められる。主体的でないというのは自分の意見を押し付ける、心に余裕のない行為ではないでしょうか?
柳田國男(「教育の原始性」)は、<日本の伝統には、文字は勿論口言葉にも表せないで、黙々と伝わって居るものがあったのである。>シツケとは元々「人を一人前にする」こと。あたりまえのことのことは少しも教えずに、あたりまえで無いことを言い、又行ったときに、諫め又はさとすのが常である。学校教育がこれを、叱り、罰することと解し、児童が「当然なるもの」を自力で体得する機会を逸している。
これこそが、日本のリベラルアーツの考え方の一つです。教えないで自ら発見するということを家庭でやっていた。一人前になるように。しかし、学校教育であればいい、これはダメとなんでも、枠を作るので自分で「当然なるもの」を体得できる機会が少なくなってきた。
西洋人はあえて頭を悪くして理解に時間をかけるが、日本人はパターンで物事を見てしまい、本当の自分の目や心でものを見ない。情報が今日のように膨大になると、自分の目で確かめなくても受け入れてしまう。だから自分で生きることと考えることをして自分の思想を作らないといけない。そのためには批判的なものに見方を身につける必要がある。疑問形をことばで使い、曖昧な表現を避けるために常に主語を意識する。客観的事実よりの自分の経験を重視して生きる。本を読み人がまとめてくれたものを理解するのも生きていることにはならない。
自分の経験を求めて生きるのはとても能動的な活動である。その中には本当の喜びがある。人は考えることをしないから不安になるのではないでしょうか?
学びとは「全体を見る眼」を育てることであり、私たちが生きているこの全体を見通す、現代社会の全体を見通し・把握する、その仕方を考えるということの方向にいかなければならないと思います。