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生きること、学ぶこと


子どもたちには、美しくて、明るい希望を持たせる文化を与えたい?



小田急鉄道線に祖師ヶ谷という駅がある。駅前通りは狭く商店が並ぶ田舎町であるが、珍しく日本映画館があった。市ヶ谷の成城小学校が移転して砧村より独立した成城町が隣町である。昭和33年、祖師ヶ谷小学校に金沢嘉市は校長として赴任する。

坂本龍一「音楽は自由にする」を読み、金沢校長のことを知る。
「ある小学校長の回想」(金沢)は語る。

金沢は学校劇研究に参加した。デンマークのアンデルセンがプロシア・オーストリアに敗れどん底にあったとき、子どもたちに童話を書いて希望を持たせたことや「祖国」という詩がデンマークの国家になったことなどを思い深く考えていた。やがて東京児童文化連盟を作ることになる。

戦後10年たち、この辺りも、私立中学への進学を目指す子どもたちが増えてきた。駒場東邦や麻布中学などの名門を目指すのである。受験準備の補修が盛んになる。

後藤一蔵(後藤新平の長男)が金沢を虎ノ門の華族会館に呼び出す。祖師ヶ谷小学校に進学のための補習授業モデル校になってくださいと、言われたが、即座に断る。
<受験準備教育は絶対にやらない> もしやる・やらない、の結果が知りたいなら30年後の子どもたちの結果を調べてください、と言う。

子どもを人間として大事にする教育とは子どもの持って生まれた天性を十分にのばしていきがいのある人生をおくれるようにしてやるであると考えて、PTAにも補習の廃止宣言をするのである。

南原繁が吉田首相より「曲学阿世の徒」とののしられても、平和を願い、ほんとうに人間らしい生き方をするためにどうしたらいいのかを考えたことが心の支えであった。

「子どもたちには、美しくて、明るい希望を持たせる文化を与えなくてはならない。」これが金沢嘉市の思いであった。

祖師ヶ谷小学校の教育目標は、一番は仲間を大切にすること、二番は正々堂々とやることである。


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