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本当に伝えたいことは何か?
〜アフリカで教育について何が起きたのか? そのことから人間の生きることについてもっと深く掘り下げてもらいたかった〜
新聞で、山田肖子「学びの本質」の広告見つけた。あれ!確か教育専門ではなかったのではと思いつつ読む。
山田はガーナやエチオピアでの長い経験がある。文化人類学的なものとは違うがその経験から学んだことを何冊か書いている。実戦に即した問題提起という視点は、本書でも著者が述べるように、人類学という枠から出たところで観察し、問題を見出したいという強い思いがそれらの著作にもあった。このことは期待できる事であった。
帯には、アフリカに答えがあった!とあるので、
サイードの「文化と帝国主義」的な植民地と西欧社会という構図の視点、あるいはアマゾンを守る活動家の南研子のようなキリスト教文明のもたらしたもののような視点で書かれていると想像していた。
しかし、そうしたものが伝わらなかった。
さらに言えば、著者の主張する学校という仕組みが知識の再生産をしてきたが、それが人間が生きるために機能していないこと。そのことをいうのに、なぜアフリカを持ち出さなければならないのかが不明であった。
とはいえ問題設定はどれも話題のテーマばかりである。
人間にしかない知とは?
知はどのような経過で形成していくのか?
学校はどんな役割をするのか?
学校を離れて学びを考える?
人材の能力とは何か?
エンプロイアビリィティや解決能力とは?
非認知的能力についての重要性?
学歴と社会について?
AI時代の学習とは?
人間にしかできないこととは?
学習者中心の学びとは?
それぞれコメントはあるものの、著書の掘り下げた考えがみられないのは残念である。これらのテーマは教育社会学の専門家たちが多くを論じているので、言葉だけの解説には物足りなさを感じてしまう。尚且つ.次のような言説を、さらっと述べてしまうのはどうだろうか?
個別最適学習は教師よりむしろAIの方が得意である。教育を教えることはAIでもできると、言う。そもそもAIに教育を任せることの意味はそれこそ「プラトン問題」まで遡らなければならない。こうも簡単に言われると著者は人間と機械の問題をどう考えているのかわからなくなる。
社会と教育のギャップについても論じているが、社会のニーズとはなんだろうか。今日の日本を見ると経済的な貢献ができる資質や能力が社会ニーズになってしまう。それに従う大学のあり方こそが問題であるはず。
著者がアフリカのこととして述べるアメリカの黒人教育モデル、植民地統治としての教育の正体、アチタモ学校、クマシの調査などから、敢えて教育問題だけに特化しないでガーナやエチオピアのことを話してもらいたかった。
著者の経歴と並行して論じたのも上手くなかったように思う。著者自身も語るように、何にでも挑戦してきた結果が本人の経歴であるように思う。
教育の本質というテーマに著者の経験が一貫しているというよりむしろ教育の枠の外にいたものとしての考えをもっと鮮明にすべきであった。
先に述べたいくつかのステレオタイプのことば、個別最適化学習、データ駆動型学習、学習者中心の学びなど文科省が使うものは、著者には無用ではなかったかと考える。
アフリカのサブサハラは貧困と飢餓問題の中心にある。人間が他者との結びつきで環境の変化に対応してきたことをアフリカに学んだことが、西欧社会の教育の本質の探究に結びつくのであれば、教育の役割である、飢餓、貧困、戦争などへ教育がどう力を得ていくのかについて考えることの方が、AI時代の教育を考えるよりずっと大きな問いではないだろうか?
このテーマにもぜひ取り組んでもらいたい。