生きること、学ぶこと
「主体的学び」とは何か?
「主体的学び」について書く。どこから書き始めるのが良いのだろうか。
2012年、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」という中教審答申が出る。米国のアクティブラーニングを取り入れたものである。文科省は、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。」と定義する。(2017年の学習指導要領では、主体的・対話的で深い学びと記述される。)
松下佳代は、「アクティブラーニンは学生にある物事を行わせ、行なっている物事について考えさせること」(“Active Learning: Creating Excitement in the Classroom (Bonwell & Eison, 1991)”とする。
2012年、「主体的学び」とは何かを考えるために「主体的学び研究所」を設立した。10年間でとりあげてきた「主体的学び」のディスクールは多岐にわたっている。例えば、幼児教育では、ラカン、メルロポンティ、ピアジュなど発達段階での「主体的な学び」のこと、あるいは、分子生物学や心理学的アプローチとして、脳のニューロンの働きと「主体的学び」の関連性、また、子供の貧困や格差社会などとの関連を考える社会的アプローチ、音楽家や画家などのパフォーマンス性の高い分野、さらには組織の中の個人としての働き方の問題、どのようにして主体的学びは創発されるのか、主体的学びを疎外するものは何か、「主体的学び」とアクティブラーニングは同じものか、「主体的な学び」は人の生き方を変えることができるか、「主体的学びは評価できるものか、「主体的学び」を培う環境の問題など色々な視座で考えてきた。(「主体的学び」ジャーナル1〜6号、特集(東信堂出版)掲載)
しかし、これまでの論点には何か大切なことが欠けているように思える。
「主体的」「学び」それぞれの言葉が持つ人間の思考や行動の礎となるものの考察である。そのことを考えたい。
主体性について
人はまず実存する。本質はそのあとで、自分でつくるもの。人は自らつくるところのもの以外の何ものでもない。そして、そこからみずから主体的に生きる、という「主体性」の概念が出てくる。みずからつくるとは、言い換えると未来に向けて自分を投げ出すこと。これを「投企」することと名づける。主体性+投企から選択する自由が生まれる。さらには自己の責任、不安、孤独が生まれる。サルトルのヒューマニズムは「人間は人間自身の中に閉ざされていると考えるのではなく、「投企」と言う乗り越えと人間的な主体性を結合させてものである。」自由とは何か?自由はいかに自己を実現していくか。「投企」の行動の中に希望が生まれる。
「人が生存し続けるものとすれば、それは単に生まれてきたからという理由からそうなるのではなく、その生命を存続せしめる決意を立てるがゆえに存続し得られる。」(サルトル、渡辺一夫訳)
他者のことを考える
「人は自分が大切なので自分の思いを主張すると知らない間に他者を傷つけると考える。私とは異なる他者を尊重することで自分も尊重される。自分と非対称の他者がいるから成り立つ。」(レヴィナス)
「自分の主張の前に相手の主張を正しく聞くことから言語ゲームは始まる。他者を学ぶことで自分は成長する。学びのスタートは他者を認識すること。」(ヴィトゲンシュタイン)
「私たち人間が、共感=sympathyという概念を中心に人間が人間らしく生きていくのは、他者の喜び、悲しみという人間的な感情を表現して、お互いに分かち合い、理解しあうことができることで、力を合わせていろいろな問題を解決していくからです。」(宇沢弘文)
なぜ主体的でなければならないのか?
受け身ではなぜいけないのか?受け身で学ぶものに責任は生じない。能動的人間にしかモラリティも育たない。結局どこかに歪みが生まれる。欧米では、自己教育が基本であることが根づいている。自分でやるしかない。ただし、教育は他者との関係のみで行われるものであるということから大学へ入る。コモンの特異性が互いに平等であることを学ぶものである。
「日本は豊かさへの道を踏ちがえた。画一物差しで優劣を決めて負けたものを排除する社会にしてしまった。ベルリン自由大学で、日本とは別の資本主義を見てショックを受ける。日本人は自分のことを大切にしていない。自分らしく生きることを考えていない。他者のことにも無関心になっている。」
(暉峻淑子)
「受け身からは構想は持ち得ない。あれは終わったことだと目を背けるところからは、イノベーションは起こせない。戦後の初めにあたり、能動的に構想された新しい日本の全体性、それが四半世紀、ことごとく否定されてきた。それは能動的に行われてこなかった。常に受け身でやってきた。だから全体構想はなかった。日本人は今を大切にすると言われるが、そうではなく過去をよく見つめないからすぐに忘れてしまうことになる。敗戦を国家としても、個人としても総括しなかったことは、すなわち主体性を持ちえず、同時に他者性も放棄した。」(大江健三郎)
主体的に学ぶことの方向と想像力とは?
主体的に学ぶ「方向」が重要である。デリダ(脱構築)が主張した学びは、一旦既存の価値を壊してしまうことで、善か悪か、正しいか正しくないかという二項対立的な学び(浅い学び)を超越することができる。アップル創業者ステーブジョブが学んだ考え方でもある。デリダは、想像的かつ創造的な学び、つまりゼロから積み上げる学びこそが、サルトル、レヴィ=ストロース、メルロポンティを越えると主張した。
また、主体的な学び=想像力がある学びであるとノースロップフライは言う。“Knowledge of literature can’t grow without the knowledge of allegory, allusion, simile, metaphor. ” 従って、学びのスタートは聖書や神話を徹底して学習するのが西欧の子供たちである。ブレイク、ダンテ、エリオット、ジョイス、イエーツなどを読むことから主体的な想像力が生まれる。この想像力の世界は現実の歪められた世界よりもずっと重要であり、人間の、そして社会の真実の姿を表している。
一方で文科省の主体的学びの定義は、課題依存と事項調整の後に補足的にしか人生哲学に触れていない。「学修者本位の大学教育の実現」(文科省中教審2023年5月)の中で、「高等教育は、人類の普遍の価値を生み出し、世界が直面する課題を解決するために「主体的に」実行していくのが使命である。」と記述した。果たしてこの「主体的に」は、世界的課題である、民族浄化、強制追放、戦争、経済格差など弱者視点への学修の方向づけはあるのだろうか。哲学的学びからスタートする西欧社会とは逆である。日本の教育の考え方にある基本的な問題ではないかと考える。
生きることでの文脈で“主体的”とは?
私たちは皆生きている中で何か決断している=つまり全ての人は主体的に生きている。私たちの日常とはレトリカルな生き方をしている。人は皆多かれ少なかれ咄嗟にレトリカルな判断をしている。その環境とは、(genre)/自分の置かれている立場は(rhetor)/他者は誰(audience)/今何をしなければならないか(purpose)/動機は何かの5つのことを考えていることである。自らの主張の正当性の根拠(reason=理性(TOKでは理性と訳す。それを保証するための理由という意味も持つ)を必ず示す。そして相手の反論をしっかり聞く。その上で、改めて主張の統合や修正などを行う。
私たちは常に「あなたはどんな人か?」「あなたは何者か?」という自問をする。
ここまでのレトリカルな生き方を持って主体的な生き方と考えるべきであると、アドルノが主張する、同じ考えの人は多くは要らない。異質なものがあってこそ社会はより成長する。(違った考えを統合せずにそのままにしておくという非同一性)レトリカルな考えは自分の正当性を主張するものであるが、一方で、他者の存在を認める。
「主体的な学び」の定義と創発?
加藤周一や鶴見俊輔の定義がある。「一人ひとりが、これが問題だというものを持っていて、ただ教師が教えてくれるものやそこにあるものを学ぶのではなく、個人が自分自身で問題を考えて学ぶのが本当の主体的な学びであろう。」「「地球規模の問題がわかって、そこから見て話すことができるようになる」ということではないか。」
主体的な学びは、確かに、学ぶ動機や対象を自らの内に見出している時におとずれるものである。これに加えて、自らの存在を自覚したとき、他者に対する眼差しを豊かにして自らに「労作(トラバーユ)」を課すことを新たに加えたい。この「トラバーユ」は想像力によって作られるものである。
想像力の世界は現実の歪められた世界よりもずっと重要であり、人間の、そして社会の真実の姿を表している。だから鍛えられた想像力を持つことが既に主体的なものの本質が存在することになる。そこには、自分に全ての責任があるという無自覚の倫理や思考が内在的に存在している。何を「トラバーユ」するかがなければ「主体的な学び」は存在しない。
主体的な生き方ということは哲学的な思考について学んだ上での人生設計であり、学びの方向である。この視点が日本では決定的にかけている。そこで主体的、主体性が本来的に持つものを原点に戻って考える必要がある。欧米では文系・理系の区別なく哲学教育に多くの時間を使うが、国が哲学教育をどのように位置付けているか良い例がある。フランス公教育相アナトール・ドゥ・モンズィの「哲学教育にかんする指導要領」に書かれていることである。
「青少年のうちに、後年みずから判断をくだしうる気概を涵養すべく、その内省的能力を育成せねばならない。ゆえに、思考と行動にかかわる問題の総体について、同時代の社会および人類のなかへの真の同化をうながす見識をあたえねばならない。一方で、年若く柔軟な精神のうちに、まったき自由を担保し、社会全般にわたる諸問題について批判的な判断力を身につけさせ、他方まっとうな社会人たるべく義務と遵法をも養わねばならない。両方は必ずしも自明ではない。生徒はひたすら作文の執筆を通してこのことを訓練する。」
「「対話的な学び」は日本人の「弱点」である。学びは「教科書」から教員から学ぶものとの先入観がある。学びは生きている、対話的学びがこれからのキーワードになる。また、日本人は、外国人に比べて対話(話術)が下手である。これが国際化の足かせになっている。原因は、言うまでもなく、リベラルアーツの欠如、すなわち発想に乏しいことである。日本の裁判制度がその象徴である。アメリカは「弁論」で論争するが、日本は文書、すなわち「陳述書」で論争する。これは形式的かつ無味乾燥で面白くない。首相が官僚の原稿を「棒読み」する日本と、大統領が視聴者を見ながら、自分の言葉で「対話」するのとの違いである。」(土持法一)
スピノザは、神を出発点として、自然の摂理を全て説明できると考えた。そこから自分を自由にする自己解放の道を哲学によって思考した。スピノザは思索することが慰めとなるということから哲学に入っていく。
教育でイノベーションを起こすことは、日本では学習指導要領を基本として、学校制度から教育方法までの現在の相互依存的なアーキテクチャーを再構築することであり、教育DXだけで簡単にできるものではない。教育は何よりタフなのである。ゴールがないと言っても良い。しかも現場で行われる葛藤であり、個人で、また教師や仲間との間で行われる葛藤である。教育でのイノベーションは、何か形のあるものへの変革ではなく、人としての学びの継続を保証するという地道なことではないだろうか。