
幸福論-なぜ人は推し活にはまっていくのか
推し活が一般的になって久しい。以前は推し活と言えばオタク活動のイメージがあったのだが、もはやすっかり市民権を得たようだ。しかし、なぜこんなにも推し活は一般的になったのだろうか?
昔は「滅私奉公」が美徳だった
今から40年以上前の高度経済成長期、日本は「国のため会社のために働く」が美徳されていた。父親は仕事に集中し、家族のためにお金を稼ぐ。そして母親はそんな父親が仕事に集中できる環境を作るため、家事や子育てを一身に引き受け、子供は将来のためにいい学校にいくために勉強する。当時は「今の楽しみ」や「自分のやりたいこと」について考えることはなく、国のため家族のため将来のために滅私奉公することが一般的な時代だったと言えるだろう。
「滅私奉公」しても幸せが訪れない
しかし、そんな価値観の崩壊は高度経済成長期の終了とともに訪れる。会社のため、国家のため、家族のために頑張っても結局幸せは訪れず、自分のやりたいことは何一つすることなく人生を終えていく。そんな人が増えていき「もっと自分がやりたいことを大切にする人生を歩むべきだ」という価値観を持つ人が増えていく時代が訪れることとなる。平成はまさにそんな時代だったと言えるかもしれない。
「自分と向き合い続ける」のはそれはそれでつらい
だが、ここで問題が訪れる。「自分の幸せのため」に「自分に向き合い続ける」は意外につらいということだ。人間は他人との関わり方の中で自己肯定感を得たり、自己肯定感を失っていったりするものだと思っている。自分本位に考えていくのは、意外と幸せから遠ざかっていく考え方だ。
推し活にはまっている会社の若手社員は「自分のことばかり考えていると病む」と言っていたが、なるほどな、と思わされる。自分と向き合いすぎると、自分の能力の低さが露呈しだんだんつらくなる。大谷翔平や藤井聡太と自分を比べてしまえば、いかに自分が劣ったつまらない人間であるかを思い知らされて嫌になってしまうだろう。
他人を応援する人生を
「会社のため」「家族のため」「子供のため」がダサいとみなされやすい現代において、「自分が応援したい何か」を見つけるために「推し活」にはまる人が増えるのはある意味必然かもしれない。現代人で不幸を感じる人が多いのは「自分の幸せを見つけなければいけない」「成長しなければいけない」と考えすぎている人が多いからかもしれないと思う。自分視点を少し離れて、他人のためにと考えることでむしろ幸せを感じやすくなるかもしれない。自分が成長する必要も、自分独自の価値を無理やり見つける必要もないのだから。他人の支えの一部になっているだけで、それだけであなたは世の中に価値を提供できているのだから。