夢を見て村上春樹さんの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」をより深く理解できた。
すごく楽しい夢を見て、目覚めた時には、もう少し夢の世界にひたっておきたかったなって残念に思う時がある。
しかし、ずっと夢の世界に居たいとは、当然ながら思わない。せめて同じ夢をもう一度見たいと思うくらいだ。
でも、今日、僕が見た夢は違った。
夢の中でこれは夢だと認識できていながらも、その夢の中で、真剣に覚めないでくれ、この夢の世界にいさせてくれ。と願いながら夢の世界のいました。
夢自体は大した夢ではなくて、知能を持ったロボットと人間が拮抗した勢力を持つ世界で、戦争をしていて、休戦協定を結び、人間たちがそれを破りいきなりミサイルを打ち込み、空軍で一気にロボットたちを駆逐し、人間世界を復活させる。そんな世界の中で、僕は生活しているんですけど、その夢の中での生活で、僕は、飯島直子さんと暮らしているんですよ。
今、53歳の僕にとっての飯島直子さんは、時代を象徴する人で、いい女の代表でした。
容姿はもちろん、所作、声音、話の内容、話し方、すべてが憧れでしたね。
夢の中でも最高だった飯島直子さん
ジョージアの缶コーヒーをどれだけ飲んだか。懐かしい。
夢の中でそんな飯島直子さんと僕は暮らしているんです。
それで、普通の夢と違うのは、飯島直子さんと一緒の空間に居る生活は本当に幸せすぎて、僕はその夢を、これは夢だと認識できているのです。
夢の中で僕は仕事に出勤しなくてはいけない時間になります。あぁ、これで仕事に行くのに、家を出た瞬間に夢が終わるとわかっているんです。だから、僕は飯島直子さんが
「行ってらっしゃい」というのを
「行きたない」と拒み、甘えます。それがまたすごく幸せで、それを繰り返します。でも、何度も繰り返すと、飯島直子さんが少し怒り気味に、
「行ってきな。ずっと私はここに居るから」と言われ、送り出されます。それで目が覚めます。
目が覚めた時、普段なら起きた。という感覚を持ちます。だけど、その時は、帰ってきてしまった。この現実世界に、という感じでした。
あぁ、夢の世界にいたかった。
と、心底残念な気持ちになりました。しばらく、目をつむり、夢の世界をなぞっていました。
その時に、村上春樹さんの名作、個人的には代表作だと思っていますけど、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を思い出しました。
その小説世界の中では、現実世界と頭の中で繰り広げられる仮想空間の世界が交互に描かれます。
仮想空間は、寒くて、薄暗くて、寂しい空間です。でも、主人公には、その空間は、静かで、穏やかな空間に感じます。そこでホットミルクを飲み、クッキーを食べる。それを焼いてくれる女性がいる。主人公の男性は、その空間にくるまれて生活することに幸せを感じ、現実世界に帰ることを拒否し、脳内の世界に居続けることを選びます。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を 最初に読んだのは、発売当初の単行本なので、発売日を調べると僕は、36歳ですね。その時は、なぜ、ああいう結末にしたんだろうと思いました。
個人的には村上春樹作品で最高の作品『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
現実世界に戻ってきて、ハッピーエンドで終われるのに、なぜ、死や脳死を連想させる終わり方にするんだろう。
その後に書かれた、名作『海辺のカフカ』でも違う世界に行きますが、現実世界に帰ってきます。その違いはなんだろうと思っていました。
村上春樹さんの作品では生と死は遠いものではなく、近いものとして描かれます。現実世界と別の世界も同じように隣り合わせのように描かれます。 一つ選択が違えば、次の瞬間は違っているかも知れない。
どちらを選ぶのかは自分である。
カフカでは、現実世界で強く行きていくことを選び、世界の終わりでは、理想の世界を選ぶ。
今の自分が何を選ぶかで明日の人生は変わる。
人生は必然なんかではありえない。人生は不確かなものであり、もっと自由で、もっと楽しいものだ。ということなんだろうか。
僕は、飯島直子さんとの夢の世界の中で、もっと強く夢の世界に留まることを求めたならば、今も、あの世界の中にいるのだろうか。そんな事を思ったりもした。
飯島直子さんと暮らす夢を見て、今までよりも、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を深く理解できたように思いました。
とりあえず、近々再読しないといけないな。