RED STRING
-第1章-
もうすぐ母の季節が訪れる。つややかに黒く光るインクが母宛の便箋の上でじゅわっと染みわたってしまったのを眺めた。地元から車で16時間ほど離れた町で寮制学校に通っていた私は、冬休み中にボランティアに参加しなければならないという仮の予定をつけて、年越しに帰省することを断っていた。春が過ぎたら、私も大人だ。母の手を借りず生きていける。だからそれまでの辛抱。と、自分に言い聞かせながら、ペンにこびりついたインクを拭き取り、つま先に伝わるヒーターのぬくもりを感じて眠りについた。ノーフォークの町を霜で覆いつくし始めた仲冬も、母は人肌を恋せずとも生きていける人だと思っていた。あの赤い糸を見るまでは。
12月27日、午後9時50分頃、ヴァージニア州ノーフォーク112パークアヴェニュー、カイリー・バートン(38)、娘のフェデリカ・バートンの寝室で死亡確認。遺体の首に赤い糸が巻きつけられていたという。遺体の腐敗の様子や首周りの糸の痕跡を見て自殺の可能性が大いにあるとみて調査が終わった。
ノーフォーク警察署にて、キーボードのタイピングが四方八方から叩き響いている。
女警察官がPCの画面を見ながら書類の記入欄をペンでやり投げに指して言った。
「ここに生年月日、名前、住所まず書いて。お母様と同一世帯だったら飛ばしていいから。」
女警察官は親身になって今の自分の心境を聞いてくれるかと思っていたが、着々と業務を進めている。
「あなた身寄りは?」
「叔母が」
淡々と続くタイピングの音が、その浅はかな気持ちを跳ね返すように当たってくる。私も母のことを振り返る前に、目の前の流れ作業に受け答えるしかなかった。それからその他同じ個人情報を何枚もの紙に写し、もうそろそろ終わりかと思い腰を上げるところ。
「あと、このパンフレットもね」
紙に目を通した。カウンセリングの紹介だ。こころのケアは、彼女の業務の範疇外だということは理解していたが、いざ形にして見えると、ここでブラインダーがさっと降りて、ケースクローズドと言われたみたいだ。母について語る人物はもう金輪際いないのだ。
叔母もそのうちの一人だ。幸運にも叔母とその家族は私を受け入れてくれたが、叔母夫婦は私と関わることを恐れているように見えたので、叔母に母について詳しい話を聞くのが気まずかったし、会話をするとしても叔母夫婦とはほとんど業務的な連絡しか取っていなかった。それも仕方がないことだ、私は叔母の存在は知っていたけれど、今まで1度も叔母家族と関わったことがなかったのだから、何かしら私たちと会わなかった理由があったのだと思う。そんな叔母夫婦はベージュのような人たちだった。原色とチタンホワイトそれぞれほどよく織り交ぜて出来た彼らは当たり障りなく、それぞれの単色が協調しあって発色する。そんなベージュ色の夫婦から生まれた子供はベージュの血を受け継いでいる。面識のない他人が断りもなしに自分の安全地帯に侵入しても、彼らは特に関心もなく一定の距離を保って私と接してくれた。思春期ってこんなものなのか。中高生にしては妙に落ち着き払っていて淡白な関係ではあったが、私はそれが心地よく感じた。私もきっとベージュ色だ。だけど母はきっとマースブラックとカドミウムレッドからできた私を白く染め上げたかったんだ。
実家の掛け時計がやけに騒々しい。叔母の家で過ごすのは快適なものだったが、叔母に母の私物を片付けた方が良いのではないかと促された。事件後一度も実家を訪れておらず、母の念が部屋中に充満してそうで、内心気後れするものがあったが、叔母家族に迷惑をかけているかもしれないと申し訳なく思い、残りの冬休みを母の家で過ごすことにした。
生を感じさせないこの家は異様に物静かで、母がこの世にいないことをより実感させられた。そんな時、母の存在を知らすかのように庭から蝋梅の花がのぞかせている。慌ててそばに置いてあった網戸を窓の前に置いた。それでも隙間風からにじみ出てくる甘い香りがじっとりと鼻腔を通じて舌にまとわりつく。無意識にも知覚してしまうこの匂いは、嫌でも母を思い出させずにはいられなかった。
この蝋梅の木は母が植えたのだ。この花が咲き始める1月に私が誕生したため、その記念にということだった。母はこの花が開花する度、切り花にしてよく私の部屋の小窓に飾っていた。花が満開になるころは、バルコニーのカーテンを開けて朝露をまとった花弁を一つずつ愛でるようにして眺めていた。私は陽の光を瞼に感じながらその様子を見ていた。真白なやわらかい光に照らされ、ソファの上で微睡んでいる私を母が振り返ってじっと見つめていることがあった。蝋梅の花を眺める時の母はこんな表情をしているのか。と、瞼の隙間からぼやける景色に見入っていた。いつかの朝、同じ様子でいる私に母が近づいて髪の毛を愛撫していた。
「きれいな色。」
そのうち柔らかな手が毛先に触れて指に巻き付け始める。すくいあげられた髪の束が光に照らされて少しくすぐったい。
「赤くて、蝋梅の花みたい。」
普段はこうして私に愛情を注いでくれていた母だが、年を追うごとに付け加えて
「フィフィは離さないでね。」
と、私の耳元にささやくことが多くなった。それに呼応して、私の髪が母の指に吸い付くようにきつく結ばれていくように感じた。当時の私はその言葉の心意はあまり理解できなかった。蝋梅の実の味を知らない私は、このまま甘美な生活が続くと思い、母の言葉の意味を考えることを避けていた。
事件後から気になっていたことが1つある。母が自殺を図った際、首に何重にもあった赤い糸は、母の左人差し指にも巻き付けられていた。遺体の写真を思いだす度、母と過ごした冬の早朝の光景を思い浮かべられずにはいられなかった。そして、事故現場以外の屋内をを見渡すと、赤い糸が落ちていることに気が付いた。ダイニングテーブル、ブラインダー、時計の指針、シーリングファンの上など。どうしてこんなところに、と不可解に思うところまでその糸は部屋のいたるところに散りばめられていた。それらの糸くずを1つずつ拾い上げる度、母の想いが私の背中に積もっていく思いをした。胸が詰まる。その時、一本の長い切れ端を見つけた。母の寝室へ繋がっているようだ。母の寝室はあまり見たことがない。私が小さい頃、母の部屋へ入り込もうとしたところ、母が取り乱したように、私の腕を強く引っ張って部屋から出された記憶がある。それ以来、自らその部屋に入ることはなかった。私に重くのしかかってくる糸を感じながら、恐る恐る手繰り寄せてみる。母は私に何を見せたくなかったのだろう。背徳感を感じつつ怖いもの見たさで私の鼓動がずっしりと全身に脈を打つのを感る。そのうち湿気で老朽化された扉がきしみ立てながら開く。入口の先には驚くほど簡素的な部屋だった。ベッドに机、そして壁を見つめている椅子。一瞬母がその椅子に座っているのかと錯覚し、糸を強く握りしめた。すると糸が真っ直ぐ椅子から伸びている事に気が付く。椅子の近くまで寄ると、額縁に収まったあの花の絵画が置かれていた。何年も飾っていないのか、額縁を持ち上げると、埃のべたつきを感じた。不快感を感じた刹那、絵画の裏から表の絵の穏やかさとは裏腹に、吹き出し、溢れかえっている赤い糸の束が見えた。今までずっと握っていた糸をとっさに離す。呆然とその醜怪な糸に目が離せなくなってしまった。私の知らない母がこの部屋に立ち込めてる。何年も、そして現在も。私はすぐにこのおぞましい部屋から逃げ去りたかったが、椅子の上にもう1つものがあることに気が付いた。箱が半開きになっている。中を確認すると、写真がぎっしりと縦に詰められていた。私はその箱を抱え、開き戸が閉じる音を背にして急いで部屋から抜け出した。
リビングには西日が差し込んでいた。ここではもう安全だとひかりが私を愛撫するように頬をあたためる。ゆっくりと瞬きをし、心拍数が徐々に遅くなる。目の前の写真箱に目をやる。母の写真に間違いない。この中にはいったい何が移されているのだろうか。私はこの写真箱の存在を知らなかった。見せたくなかったのか。それとも見る必要が無かったのか。
考えを巡らせれば巡らすほど、心拍数が一拍ずつ重く体を響かせる。考えてもしょうがない、自分の目で確かめなければ。と中から一枚の写真を抜き取る。すると蝋梅の写真がでてきた。なんだ、と拍子抜け、次々と写真をめくった。どれもこれも当たり障りのない日常の写真だった。どれもこれも幼児のころの私。こんなに髪長かったっけ。今よりもパーマが強くかかっていた当時の自分は本来よりも愛嬌が増して見える。
「かわいい」
自分なのに他人事のようにつぶやく。最近自分の写真を取ったのはいつだろう。そんなことを考えながら残りの写真に手を伸ばす。すると1人の女性が写真に現れた。これはきっと母だ。髪型はボブで、なんとなく幼く、同年代の友人を見ているかのように可愛らしく見えた。しかし、写真を見つめる度に、母がこちらを見つめる表情はいつも掴めないということを思いださせられた。こちらの写真でも微笑んでいるが、笑顔に歪みを感じる。この母をみると息が詰まる。
「フィフィ」
と、後ろから声が聞こえてきそうで、写真を裏返した。するとペンで「灯台」という文字が書かれていたことに気づく。
灯台なんて写っていたっけと、母の顔を親指で隠しながら写真を見直す。今まで母と灯台にわざわざ訪れた事はない。ここが母にとって思い出深い場所なのか分からないまま、他の写真に目を移す。するとまた女性が写っていた。今度は違う女性で。しかもこちらにカメラを向けている。この人が母を撮ったのだろうか。カメラが顔を覆っているので、表情が全く分からない。しかし、また先ほどと同じ灯台が写っていることに気が付いた。写真の裏には、何も記載がない。少し残念だと思っている自分がいる。今まで母とはできるだけ関わりたくなかったはずなのに、なぜかもっと知りたいという欲があることに気づかされる。母と関係のありそうなものだけを見るように写真を次々とめくった。どれも関係なさそうだが、最後の一枚で古びれた一軒家の写真が現れた。番号は「135」果たしてこの番号だけでこの家を探す手掛かりになるだろうか。そう思いながら、また写真を裏返して見てみると、電話番号らしきものが書かれていた。
「当たり」
心の中でそうつぶやくと、携帯番号をインターネットで検索してみた。私がここに電話を書けたら、母を知る人物に会えたりするのかなとふと考えた。この番号は今も使われているのかなと懐疑的になるも番号を慎重に押してみる。本当にかけてみてもいいのだろうか。こんな時いつもだったら、母さんに相談してたな。そして拒絶されることを分かっていたし、そうされることを待っていた気がする。自分に選択肢がないほうがむしろ楽だ、と思い携帯画面に写る番号を削除した。
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