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仏教からキリスト教へ

亀谷凌雲 著 『仏教からキリストへ』
CLC暮らしの光社、1976年 
の内容紹介と感想、私感など。

 


キリスト教入信まで


著者の亀谷凌雲(かめがい りょううん、1888〜1973)氏は、

浄土真宗中興の祖と呼ばれている蓮如上人の子孫で、
越中富山にある由緒ある真宗大谷派寺院の住職の跡継ぎ息子として、生まれました。


旧制金沢四高(金沢大学の前身)に入学した頃から、仏教に救いを求め始めた他、真理を探求し始めます。


仏教とキリスト教の間で

 
また、この頃、西田幾多郎博士の講義やユゴーの『レ・ミゼラブル』などを通してキリスト教にも接するようにります。

 しかし、信仰的には仏教への熱意が冷めることはありませんでした。 

東大哲学科に入学し、宗教学を専攻します。姉崎博士より中世キリスト教史を学び、アシジの聖フランチェスコの話を聞いて感動を覚えます。

しかし、仏教への情熱は冷めやらず、卒業論文は、善導大師の研究に決めます。


しかし、彼の心には浄土真宗の教えに対する不満がありました。
それは道徳的・倫理的な力に欠けていることです。

浄土真宗では、極楽浄土を求めるだけで道徳的・倫理的なことはあまり言わない。
「薬があるからと言って、毒を飲むな」という程度であると、
亀谷氏は言っています。


彼はこの問題を追求するために大学院で研究する決意をします。

彼は宗教と道徳の関係を学ぶために、旧新約聖書を読み始めます。

またバニヤンの『天路歴程』も読破します。

これらを通して、キリスト教がだいぶん好きになってきたようです。


亀谷氏はその後、本郷にある教会に出かけ、救世軍の山室軍平大佐の説教を聞き、深い感動を覚えます。

彼はそれからほぼ毎週礼拝に通うようになります。


金森通倫との出会い

 
その後、亀谷氏は結婚しますが、生活のために単身で北海道は小樽の中学校の教員になります。

彼は札幌まで通い、色んな先生を訪ねたり、金森通倫氏が来ると聞いては説教を聞きに行っています。

彼は金森通倫氏の後を追って行き、直接質問を投げかけています。(p.40)

亀谷「2千年の昔、ユダヤの国で十字架に死んだキリストが、2千年後の日本に生まれた私と何の関係があるか?」

金森「キリストが十字架に万民の罪をにないて死に、頼りゆく我らの罪をことごとく許し、天国に迎えて永遠の命を与えることは、人知ではわからない神の黙示である。」

「弥陀の直説」を知っていた亀谷氏はそれで納得したようです。


続いて、亀谷氏は祈りについて尋ねました。
祈り願うのは神に任せきっていないからではないかと思ったようです。

すると金森氏は彼に「君は祈ったことがあるかね?」と聞かれた亀谷氏は「ありません」と答えました。
すると金森氏は「それでは祈りはわからない」と答えられたのです。

亀谷氏は「それはそうだ。砂糖の甘さも舐めてみなければ分からないのと同じだ」そう思って納得したようです。

彼はその翌日は金森氏が泊まっていた宣教師館まで出向き、さらに質問したそうです。

それ以来、彼は何でもよく祈るようになりました。


帰郷と入信


そんなある日のこと、学校の改新のためにという理由で、亀谷はクビを言い渡されます。
彼が絶望して下宿に帰ると、
母校の富山中学から手紙が来ており、中を見ると富山中学の教員になってほしいという依頼でした。
彼は快諾しました。

送別会が開かれたとき、宣教師が「ぜひ近江八幡のヴォーリズさんを訪ねなさい」と言ってくれたそうです。

故郷富山に帰ると、実家の寺を継がなくてはいけません。
彼は家族もいるので継ぐ決意をします。


しかし、そこにも神の不思議な摂理がありました。

富山中学では苦手な英語を教えなければならなくなったのです。

そして彼は英語を学ぶために、宣教師館に通うようになり、ついに聖書研究までするようになったのです。


彼は聖書の素晴らしさを知り、彼の心はすっかりキリストに捕らえられてしまいました。これが「入信の動機」でした。


本書には、その頃に亀谷氏の心を打った聖書の言葉がいくつか記されています。

そのうちの一部を新改訳2017で引用します。(原文は文語訳) 


罪人への愛

 

キリストは徹底的に罪人の友となり、罪人の味方になり、限りない愛をもって罪人を愛しておられる。


"イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
 マタイの福音書 9章 12〜13節


天父の愛

父から財産をもらい、父から離れて、放蕩に身を持ち崩し、死ぬばかりになっていた息子が、我にかえって父を訪ねて帰ってきたとき、
父は一切責めたり咎めたりしないで、無限の愛をもって迎え入れた。


"こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。"
 ルカの福音書 15章 20〜24節

一匹の羊

キリストの救いの御手は、いつも個人、一人の病人、一人の罪人の上に置かれている。


"「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。"
 ルカの福音書 15章 4〜7節



信仰による救い


"この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。"
 エペソ人への手紙 2章 8節

"しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。"
 ローマ人への手紙 4章 5節

などです。


受洗まで


亀谷凌雲氏の著書は、この後、仏教とキリスト教の比較などが続きますが、
教理的なことは後にして、
その後の亀谷氏の行動などを先に見ていきます。


主の恩寵充ち満ちて

 
亀谷氏は心定まって、今や完全に主のものなりました。
無限の神の恩寵が充ち満ちる体験をしました。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書 7章 38節)

新改訳2017(原文は文語訳)

このとき亀谷氏は、自分がキリストのうちに入れられた。そしてキリストも私のうちにおられることを体験したのです。

亀谷氏の本には書いてありませんが、
昔、私の恩師が、「水の入ったバケツの中にコップを入れると、コップ中にも、コップの外にも水が満ちる。」と言ったのを思い出しました。

つまり、自分の外側(周り)にも、自分の内側にも、キリストが、恵みが充ち満ちているのです。

 
また、亀谷氏はヨハネ15:11
「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

をあげて、

一時的な、この世の喜びではなく、
永遠の喜び、真実の喜び、世の何ものにも、死にさえも奪われることのない喜びに満ちあふれていたと証ししておられます。

 
 

仏教復興の道?

 
亀谷氏は、116ページ以下で、ちょっと「あれっ」と思うことを言っておられる。

「南無阿弥陀仏の真の姿を、阿弥陀如来の実体をキリストに見た。
寂滅涅槃の真理を十字架のキリストのお姿に見た。」

というのです。

そして「キリストは、仏教の破壊者ではなく、建設者であり、成就者であり、完成者である。」と言っています。(p.117)

これは、イエス様が、マタイ5:17で

「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」

と言っておられるのと似ています。

しかし、私は、これだとキリスト(教)が仏教を理解するための道具になってしまうのではないかと危惧しています。

もちろん亀谷氏はそんなつもりはないでしょう。
そうではなく、仏教や他宗教をいくら巡り歩いても得られなかった救いを、救いの喜びをキリストによって得られたのです。

もしかしたら、キリスト教が宣教されるまでの間、人間たちを慰めるために、神様は色んな宗教を認めておられたのかもしれません。
でも、キリストの救いにあずかったら、
その人にとって、もう他の宗教は必要ないのです。


キリストが分かって、浄土真宗が分かったと言っても、
キリストから離れて仏教に戻ったら、聖霊の満たしも無くなり、あふれる喜びも消えて無くなるでしょう。



神の不思議な御計画

 
先に進んで行きます。
キリスト教を信じた亀谷氏は、学校を辞め、お寺の住職も辞め、寺を去る決心をします。


しかし、これからどうすればいいのか分からない。亀谷氏は、とにかく祈りました。

すると以前に出しておいたヴォーリズさんへの手紙の返事が届いたというのです。

それによると何とヴォーリズ氏が富山まで来てくださるというのです。

亀谷氏は宣教師の部屋を借りる約束をして、富山駅まで迎えに行きました。

そして何ということでしょう!
ヴォーリズ氏は「近江八幡に聖書学校を作ったから、学生として入学しなさい。学費の心配は要りません。」と言うのです。

おまけに、新しい門出のために、思いきり祈りたいなと思っていると、
ヴォーリズ氏から「軽井沢の別荘にいらっしゃい」と誘いまで来たのです。



大法会


しかし、辞めると決めたからと言っても、彼はまだお寺の住職でした。

そのうち近隣の寺院の住職たちが親鸞聖人没後650年を記念して、大法会をやろうということになりました。

亀谷氏はどうしようか、いっそうのこと夜逃げでもしようかと思いましたが、思い直して、とにかく大法会は行いました。


そして彼は自分がクリスチャンになったことを同僚や奥さんに話しました。
それからよく祈ってから、御母堂様にも話しました。

御母堂様は、最初はクリスチャンになるのではなく、キリスト教の研究をするのだろうと思っていたようです。

しかし、クリスチャンになるということを知ると「前住職であった亡き父や檀家や本山に申し訳ない」と言って泣いたのです。

彼が住職をしていたお寺では、その後間もなく新住職が与えられたそうです。


受洗

 
そして彼は学校に退職願を出し、
御母堂様も諦めたようで、
彼は一路、軽井沢に向かいました。

そしてその年の秋に、金森通倫氏の大伝道集会が故郷富山で行われることになり、
彼はそのお手伝いをしようと、軽井沢から富山に一時帰郷しました。

彼はまだ洗礼を受けていなかったので、へネガー宣教師の勧めにより、9月23日、立町のメソジスト教会で洗礼を受けました。


伝道所開設まで


学びを始める

 
亀谷氏は近江兄弟社の聖書学校で学び始めました。

金森通倫氏は亀谷氏のことを心配しておられ、渡米に際して、亀谷氏のことを植村正久氏に頼んで行かれました。

植村氏は亀谷氏を自身が創設した神学校「東京神学社」に誘い、
亀谷氏は1年間そこで学ぶことになり、また植村氏が牧会しておられる富士見町教会の各集会にも足を運びました。


それだけでなく、内村鑑三氏の講演があると聞けば通い、山室軍平氏の説教も聞きに行ったようです。


再臨待望の時代

 
当時は内村鑑三氏やホーリネスの中田重治氏などが中心になって、再臨待望の集会などが頻繁に行われていたようで、亀谷氏も刺激を受けます。


それまでは知識としてしか知らず、漠然と信じていただけだったのですが、
やがてキリストが全世界を統治され、
新しい天と地が創造され、
キリスト者がキリストの似姿に変えられるということに感動を覚えます。


さらに亀谷氏は、ホーリネス教会の四重の福音(新生・聖化・神癒・再臨)にも刺激を受け、
神学的な素地を欠くが、聖書そのままの純粋な信仰に深い感動を覚えます。


郷里伝道に向かう

 
東京神学社での学びも終わりに近づいた頃、亀谷氏は植村正久氏から「牧師になったらどうか」と勧められます

彼はとにかく祈りに祈ります。

彼は故郷の富山のこと、残してきた家族のことが気がかりでした。
 
神様はそんな彼にいくつかの御言葉を与えられます。

"私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。"
 (ローマ人への手紙 9章 3節)

新改訳2017(原文は文語訳)

"兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。" (ローマ人への手紙 10章 1節)

同上

 
亀谷氏は故郷富山に戻って、そこで伝道をする決心をしました。

彼は近江兄弟社のヴォーリズ氏の許可を得て、故郷富山に戻りました。



試練を越えて


亀谷氏は故郷に帰り、故郷のお寺に泊めてもらいました。

すると母の様子がおかしいのです。
夜中に寺を出て、寺の裏まで行ったのです。

彼は母に「何をしているのか?」と訊くと、母は「火を付けに来る人がいるかもしれないので見廻りをしている」と言うのです。

その寺院はすでに仏教寺院として再出発しているので、寺を焼く者などいないはずです。

彼はこのままだったら、母が精神的におかしくなるのではないかと思い、いっそうのこと仏教に戻ろうかということまで考えてしまいます。
 

これは伝道者になろうとしている亀谷氏に対する悪魔の妨害(攻撃)ではないかと思います。


しかし、彼は、キリスト教の素晴らしさに比べたら、「輝かしい仏教でさえも、砂漠のようにしか思えなかった」と言っています(p.165)。

さらに神様はそんな彼のために御言葉をもって語りかけられました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。"
 (マタイの福音書 10章 37節)


彼は母のことは絶対的信頼をもって主に委ね、自分はあくまでもキリストに従う決心をしました。

もちろん母のために祈りに祈り続けました。


その後も、彼の母は主に守られ、精神的におかしくなることもなく、むしろ彼の伝道を手伝ってくれるようになりました。


伝道所開設


亀谷氏は伝道所を開設するために、家を探して回り、ふさわしい家を見つけました。しかし、家を買うには千円要るというのです。


彼は植村正久氏に手紙を送りました。
すると植村氏は彼に上京するように言ってきました。

彼が上京すると、富士見町教会の礼拝で証をして、400円集まりました。
また植村氏の紹介で色々な先生を紹介していただき、全部あわせると千円集まったのです。
 
ところがその家は彼が上京中に他の人が買ってしまいました。
  
彼はやむを得ず他の家を探しました。
やっと売ってもいいという人を見つけたが、何とその人は寺の檀家だったのです。

彼は仲買商をやっている人を紹介してもらい、その仲買商の名前で買ってもらい、登記は伝道所名義にしてもらって、やっと伝道所の家屋を買うことができたというのです。

最初、彼が願っていた家とは違っていましたが、彼の願っていた以上の家屋が与えられ、無事、伝道所を開設することができました。

 

伝道の進展

教会学校

伝道所に使える家屋が与えられたので、
多少の修繕を加えて、
ついに、大正8年(1919年)12月4日、郷里 新庄町での初めての伝道集会を行いました。

亀谷氏が自身で証と説教をし、
集会は出席者200名の盛会となりました。
しかし毎週の集会出席者の人数は減り、やがて大人は来なくなりました。

ところが、子どもが遊びに来たりしていたので、教会学校を始めることになりました。

これは協力者も与えられて、盛会が続き、後にこの時の生徒の中から受洗者も起こされ、さらに献身して神学校に行く者までも与えられた。

 

富山教会兼牧


しかし兼牧していた富山教会がうまくいかなかったので、
宣教師からの要望で、富山教会に引っ越して居を構え、新庄伝道所には富山から通うことになりました。

やがて富山の幼稚園から新庄町に幼稚園を作りたいというので、新庄伝道所で幼稚園を始め、園児もそれなりに与えられ、地域からヤソ差別を受けることも少なくなりました。



諸種の問題


牧師資格


しかし亀谷氏には問題がいくつかありました。

そのうちの一つは牧師の正式な資格がまだなかったことです。

植村正久氏の勧めもあって、教師資格の試験を受けることになりました。

試験は説教文と論文、そして口頭試問でした。
試験は見事合格し、按手礼を受けることができました。


聖餐問題

 
亀谷氏は聖礼典をとても大切にしておられます。
今これを書いている私が今通っている教会(聖霊派に近い)では、聖餐卓もなく、聖餐式はほとんど行われていません。(それだけが不満です)

しかし私がかつて牧師をしていた教団(きよめ派)では月に一回は聖餐式を行っていました。


どこの教団でも信仰告白には、
教会とは、御言葉が正しく語られ、聖礼典が正しく執行される場所である。」と書き記されてあります。


この書『仏教からキリストへ』にも、亀谷氏が聖餐の恵みについて書いておられるので、ここに少し引用しておきたい。

聖餐式において、キリストの体であるパンを受け、救いの契約の御血であるぶどう酒をいただいて、十字架の死の御愛に限りなく感謝を新たにするのは、実に私どものような罪人への今に至るまで深い至れり尽くせりの御恩寵であり、慈愛の御知恵でなくて何であろう。できればこの聖餐を毎日でもいただきたい心で私はいっぱいである。」(p.181)


妻の死


亀谷氏の妻・愛子さんは、亀谷氏が小樽にいるときから、義母の世話をし、
伝道に励むようになってからも、教会学校や婦人会などにも尽力されました。

しかし過労が祟ったせいか、病身となり、ついに大正12年6月18日、12年の結婚生活を終え、34歳で天に召されました。


再婚


妻の死後、3人の子どもが遺されました。一番幼い男の子は従姉妹に養子に出したが、残る2人の女の子をどうやって育てようか、亀谷氏はすごく悩んだようです。

彼は祈りに祈って、信頼できる人に相談したところ、
静岡教会員で神学校を卒業して伝道師をしていた堀内千代子さんと結婚することになりました。

後妻の千代子さんは家をよく治め、2人の子どもたちを立派に育て上げられました。
亀谷氏は心置きなく伝道に専念することができ、全くもって主の御恩寵でありました。


郷里伝道に専念

 
亀谷氏はもとより郷里(富山県 新庄町)で伝道するつもりで富山に戻って来た。
それなのに、富山教会に住み、謝儀をもらい、新庄町には通うだけでした。


彼は一念発起し、富山教会に別れを告げ、一切謝儀をもらわないで、完全に神にのみ頼り、郷里(新庄町)伝道のみに全生命を打ち込もうと決心したのです。

そして家族や富山教会も同意を得て、生活のことは神様に一切を委ねて、富山教会を去り、新庄伝道所に転居したのです。

しかし、亀谷氏は一切求めることもしていないのに、どういうわけか「使ってください」とお金を送って来たり、蚊帳・布団・衣類・食料まで送って来たというのです。

亀谷氏は、送ってくださった方々の真情に感謝すると共に、すべてが主のお導きで感謝のみと言っておられます。 



仏陀とイエスの違い


人間的なイエス


阿弥陀如来も釈迦(仏陀)も、経典内では、まばゆくて神々しくて、とてもじゃないけど近寄れない。

それに対して、福音書の中でのイエスは、あまりにも人間的である。 

宿屋ではなく、汚い馬小屋で生まれ、
ナザレの貧しい大工の子として育ち、
公生涯に入っても、断食や悪魔の誘惑、職業宗教家たちに妬まれ、攻撃される。
病人・弱者・罪人らの友となったが、
愛弟子に背かれて捕らえられ、
兵士たちから侮辱を受け、弟子たちからも神からも見捨てられて、十字架に架かって死なれた。

また、イエスは、室内で書見にふける学者、机上の空論をもてあそぶ教法師とは違って、
町々村々を巡り歩いて、寝る間を惜しんで伝道や癒やしをなさいました。



釈迦と親鸞

 
一言で言えば、

釈迦も親鸞も、阿弥陀如来による救いを宣べ伝えた教師であって、救い主ではない。 
しかし、イエスは救い主として十字架による救いの業を完遂されました。



聖書の正直さ


聖書は、単なる理想を書いたものではなく、弟子たちでさえも、弱さや失敗あり、野望あり、臆病あり。
さらには教会の不一致や使徒どうしの衝突なども正直にありのままを描いています。

もちろんそれだけではありません。
そんな弟子たちが神様に用いられるのです。
それは欠点のある私たちに大きな慰めとなり、励ましになります。


最高の権威者


上述したような柔和で謙虚なイエスでしたが、
その弱さと従順の中で、宇宙最高の権威を持ち、万物を支配しておられました。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイの福音書 28章 18節)

「わたしを見た人は、父(=父なる神様)を見たのです。」
 (ヨハネの福音書 14章 9節)

イエス様は、天地の創造者にして統治者、無限の知恵と愛を持ち、全能なる父なる神と等しい御方なのです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
 (ヨハネの福音書 14章 6節)


イエスは、(釈迦のように)道や真理や命を教えてくれる教師ではなく、
イエス御自身が道であられ、真理であられ、命であられたのです。














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