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キリスト教の歴史(中世)
小田垣雅也著『キリスト教の歴史』
講談社学術文庫
の内容を私なりにまとめてみましたが、
私の私感も交えてあります。
少しずつUPしていきますので、
時々、覗いてみてください😊
キリスト教の歴史(中世)
グレゴリウス1世
西ローマ帝国の滅亡
410年、西ゴート族がローマに侵入し、略奪をほしいままにしました。
そして、476年、土地の要求を断られたゲルマン人のオドアケルが、新ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放しました。
これをもって西ローマ帝国は滅亡し、同時にゲルマン民族によるフランク王国が誕生したのです。
ただし、キリスト教史(教会史)としては、590年のグレゴリウス1世のローマ教皇着任をもって、「中世」が始まるものといたします。
ローマ教皇
そして、この頃から、次第に、
西側では、教皇と政治勢力の対決という図式、
東側(ビザンツ帝国)は皇帝が政治的にも宗教的にも権力を持つという図式が、出来上がってきました。
最初のうちは、ビザンツ皇帝が西側の司教任免権なども持っていましたが、次第にビザンツ政権の力が弱まってきたことから、
590年に、グレゴリウス1世が西側の教皇に就き、初代ローマの教皇になりました。
中世前期の特徴
修道院の設置
この時期(中世初期)の特徴としては、修道院の設置があります。
西方では、ベネディクトゥス(480〜543年)が本格的な修道院を始め、労働・読書・黙想などの生活が世の人々に大きな感化を与えました。
グレゴリウス1世も修道院出身でした。
彼は教皇権を確立した他に、
英国への宣教師派遣、
礼拝順序やグレゴリア聖歌の整備など、
カトリック教会の基礎を築いたと言って良いでしょう。
聖像論争
中世前期の特徴としては、もう一つ、
聖像に関する論争が挙げられます。
7世紀末〜9世紀中頃に、聖像に関する論争がありました。
もともとキリスト教会は偶像を禁止していました。
それがこの頃になると、会堂建築に伴い、キリストや聖母マリアの聖像が作られるようになり、また聖人の聖遺物なども置かれるようになりました。
それに対して、東ローマ皇帝レオ3世(在位717〜741年)は、726年に聖像を禁止すると共に聖像の破棄を命じました。
この決定に対して、東西の教会代表――コンスタンティノポリス大司教ゲルマノス1世(在位715〜730年)および、ローマ教皇グレゴリウス3世(在位731〜741年)――は、共に反対しました。
その後、東西両教会が合同で開いた最後の公会議である第2回ニカイア公会議が787年に開かれ、
画像の崇拝と礼拝は区別され、画像に灯明を灯し、香を炊くことが認められました。
しかし、聖像問題はこれでは終わらず、815年に第2回聖像論争が起こり、
東側は再び聖像禁止令を出し、
それに対し西側は、聖像禁止を出した東側を異端として断じました。
そしてこれをもって東西分裂は確定的になってきました。
西側のフランク王国では、ローマ教皇がゲルマン民族への布教に力を入れていたので、文字が読めない人たちに布教するための視覚教材として聖像は必要であったのです。
オットー1世
フランク王国は、カール大帝(在位768~814年)の時代に全盛期を迎えましたが、
カール大帝の死後は、分割相続という制度もあって、
843年のヴェルダン条約、
870年のメルセン条約をへて、
その領土は、東フランク、西フランク、イタリアの三国に分割されます。
東フランクは現在のドイツ、
西フランクは現在のフランスの起源になっています。
東フランク王国(ドイツの前身)は、911年に逝去したルードヴィヒ4世をもってカロリング王朝が終わり、
この後継者として、ハインリッヒ1世が選ばれました。
その子のオットー1世は、962年に教皇ヨハネス12世から「神聖ローマ皇帝」の帝冠を受けます。
ただ、当時の習慣として、土地など教会の財産管理権や司教の任免権なども国王にあったことから、これらのことでは教皇(ヨハネス12世)と対立しました。
オットーは、対立した教皇を更迭し、レオ8世を即位させますが、
その後も教皇と対立するたびに、教皇を更迭していきました。
国王にとって、教皇は利用するものでしかなかったようです。
教皇について
一方、教皇も黙っていたわけではありませんでした。
ローマ教皇は、教皇権の優位性を主張しましたが、その方法は全くもってお粗末なものでした。
教皇側は、「教皇権は神と人間の間に立つ最高の権威」であるという偽の文書をでっち上げたのです。これを偽インドルス教令集と言って、850年頃に作られました。
ちなみにインドルスというのは、それよりも、200年以上前(7世紀初め頃)のセビリアの司教の名前です。
インドルスはそのような教令集は、出していません。
10世紀に入ると、教皇庁の堕落は、目を覆うほどになります。
教職資格の売買、教皇までもが妾を持つようになります。
セルギウス3世(在位904〜911年)やヨハネス10世(在位914〜928年)は、ローマ元老院議員の娘を妾にしていたことは有名です。
この遠因ともなった考え方は、古代史のアウグスティヌスの項目で取り上げましたが、
「教会の権威は客観的なものであって、個人の倫理的な資質によらない」という考えによるものです。
東西分裂
ついに、1054年、東側のコンスタンティノープル総主教と、西側のローマ教皇が、お互いに破門状を送り合ったことから、完全に東西は分裂しました。
教皇の絶頂期から衰退期へ
前項で述べましたように、
10世紀は、ローマ教皇の腐敗がひどい状態になっていましたが、
11世紀に入ると、改革が起こります。
その中心となったのが、
ベネディクトゥス派の修道院、特にクリュニー修道院でした。
そしてこの修道院出身の教皇グレゴリウス7世(在位1073〜1085年)でした。
彼は聖職者の任免権と教会領地の管理権は教皇にあると宣言しました。
カノッサの屈辱
しかし、そうなると、ドイツは領地の半分に及ぶ教会領に主権が及ばなくなってくるので、ドイツ皇帝ハインリッヒ4世(1056〜1106年)は1076年に教皇を否定しました。
これはハインリッヒが情勢の読み方を間違えたせいで、
ドイツの諸侯は、ハインリッヒのほうには付かず、教皇側に付いてしまったのです。
怒った教皇はハインリッヒを破門にしました。
ハインリッヒは破門を解いてもらえるように、1077年の雪の降る日に、教皇が滞在しているカノッサ城の城門で3日間立って赦しを乞いました。
そして無事に破門を解いてもらえるようになりました。これがあまりにも有名な「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。
その後も教皇対皇帝の対立は続きますが、1122年のヴォルムス協約で、教皇カリストゥス2世(在位1119〜1124年)と皇帝ハインリッヒ5世(在位1106〜1125年)の間で解決を見ます。
その協約では、聖職者の任免権は、教皇側に移りました。
教皇の絶頂期
グレゴリウス7世の後、ローマ教皇は、アレクサンデル3世(在位1159〜1181年)、そしてインノケンティウス3世(在位1198 - 1216年)に至って、教皇権は絶頂期に達します。
インノケンティウス3世は、ローマ教皇を「太陽」に、皇帝を「月」に譬え、
「キリストの代理者である教皇は、神よりも低く、人よりも高い。教皇は誰をも裁きうるが、誰からも裁かれない。」と言いました。
教理の面でも、インノケンティウス3世は、1215年、ラテラノ会議において、「司祭の祝福によって、パンとぶどう酒はキリストの肉と血に変わる」という《化体説》を採用しました。
グレゴリウス7世からインノケンティウス3世の間(11世紀後半〜13世紀前半)に絶頂期を迎えた教皇権は、
ボニファティウス8世(在位1294〜1303年)の頃から衰退期を迎えます。
〜〜〜 つづく 〜〜〜