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イニッツィオ-生死のはじまる場所- 第1話【創作大賞2024 漫画原作部門応募作品】

【あらすじ】(239文字)

社会人サッカークラブ『イニッツィオ』には、競争もなければ、敗北の悔しさもない。一度サッカー選手になるという夢を諦めた大沢にとっては、まさにそこは憩いの場だった。しかし、あるとき『イニッツィオ』に元サッカー選手である月島が加入してくる。月島との出会いにより、大沢の心境に変化が訪れ、やがてこの2人の出会いは、『イニッツィオ』にも大きな影響をもたらしていく。サラリーマンとして掴み取った安定した収入、麗しき婚約者、確かな社会的地位、それとも…。本当に手に入れたかったものの正体とは。


【主な登場人物】

大沢…サラリーマン。大学生までサッカーを続けており、本気でプロを目指していたが、ある試合で月島に敗れ去ったことが原因で断念。その後は社会人として順風満帆な人生を送っていたが、どこか満たされない思いを抱えている。

月島…元サッカー選手。天才的なドリブル技術と圧倒的な決定力を兼ね備え、かつて日本を背負って立つ男になると言われていたが、大きく伸び悩び、二十代後半でプロの世界から消える。クールで口数は少ないが、強大な野心を秘めている。



【簡単な本編の紹介、創られるに当たっての経緯など】

本作は、一言で表すと

『スポーツ漫画』✖️『ヒューマンドラマ』

です。

でも、『スポーツ漫画』と言っても、登場人物はぴちぴちの少年・少女ではなく、おっさんがメインです。基本は、おっさんしか出てきません。なので、特別な才能を持った主人公が劇的に成長していく!といった、スポ根みたいな感じではないのだと思います、、、。

ただ、歳を重ねたからこそ溢れ出てくる

泥臭い熱さ


のようなものを読んでいく上で感じ取っていただければこの上なく幸いです。

途中、少しサッカーの専門的な用語が出てきますが、あくまでメインは登場人物たちの心の動きなので、サッカーに詳しくない方でも問題なく読み進めていけると思います。


どこか昔の自分を思い出してしまう、そう感じながら読み進んでいただいても構いませんし、逆にこうはならないぞと反面教師にして読み進めていただいても構いません。読む年代によって、感じることが180度変わってくる作品になっていると考えております。


私事で大変恐縮ですが、現在絶賛就職活動中ということで、最近特に今後の人生について考えることがあります。

これからどうしていきたいんだろう。。。
これからどうなっていくんだろう。。。

と漠然とした不安を抱えながら生活していく中で、今回の『イニッツィオ-生死のはじまる場所-』という作品を書きたいと思いました(タイトルである「イニッツィオ」は、イタリア語で「はじまり」という意味です。また、サブタイトルである「生死のはじまる場所」の意味は、物語のラストに回収されます)。

ですので、この作品に出てくる大沢や月島といった登場人物は、私の不安そのものを具現化したような存在なのかもしれません笑 脆く、それでいて何かを掴もうとする姿勢には、書いている私自身、何度も勇気を貰いました。


読んでくださるみなさまにとっても、そのような存在になることを切に願っております。


【第1話】(9996文字)

昨日で終わりと誓ったはずの缶ビールが、粗末で狭苦しい冷蔵庫の中に一本、ポツンと残っていた。

乾き切った口内は、アルコールをどうしても欲している。やっぱり、禁酒なんてするものじゃない。むず痒いったら、ありゃしない。たかが、一本飲んだくらいでどうなるって言うんだ。ボソボソと、正当化するための御託を並べながら、氷点下の世界に腕を伸ばしていく。

氷の国で眠り続けていた缶ビールも、やっと見つけてくれてありがとう、なんて感謝の意を述べているはずだ。そう甘い幻聴に乗せられ、掴みかけたが、僅かに生きていた良心が、その手を制した。

明日は、人生で最も重要な試合があるのだ。数年前の俺なら、どうせ出場しないから関係ないことだと、良心を一蹴していたが、もうあのときの俺ではない。選ばれなかった缶ビールは物寂しそうに俺を見つめ返してくるが、冷蔵庫を閉めさえすれば、そいつは再び暗闇の中に幽閉され、二度と姿を見せることはなかった。

いつから、俺はこんなストイックな人間になってしまったのか。

タバコを辞め、食生活を改め、とうとう酒にも気を使ってしまうようになった。

ああ、そうだ。これも全部、あいつが変えたんだ。今になって振り返ると、圧倒的に失ったものの方が多かった。周りの奴らは、俺のことを救いようのない大馬鹿者だと罵った。両親からは絶縁され、長年連れ添っていた恋人との婚約は当然破断になった。

後悔はあるかって? いや、微塵もない。それ以上に、手に入れたいものがあったから。最も、そいつは一生かかっても、手に入らない代物なのかもしれないが。

俺は夢を見ていた。月島瑞葵という男の大きな背中に――





月島と出会うまでの俺のサッカー人生を総評するなら、「それなりのエリート」ってやつだったのと思う。ものの見事に、全てが上手く進んでいた。途中、退転することもあったが、それさえもバネに変える強さがあった。

サッカーを始めたのは小学生からだ。

その頃から、俺はキャプテンシーというものを備えていたらしく、何かと纏め役に回ることが多かった。才能は、普通の奴より少しだけあったのだと思う。高校進学後は全国大会にも出場し、周囲からの注目を自然と集めるになった。

地元でサッカーをしている奴らのほとんどが、「大沢」という名前を知っているぐらいには、有名だったはずだ。あいつならサッカー選手に成れるのかもしれない、そんな漠然とした期待を寄せられていることも感じていた。関東の強豪と呼ばれる大学に進学してからは、周りを蹴落とし、周りに蹴落とされながら、二年生でスタメンの座を掴んだ。

たまたま同じポジションである四年生の怪我が、スタメン浮上のきっかけとなった。

それまでは、当落線上に位置する立場だったが、そこからそのポジションのファーストチョイスは俺に変わった。ディフェンダーという、安定を求められるポジションで無難に、時にダイナミックにプレーし続けた結果、無事、監督とチームメイトからの信頼を勝ち取ることに成功したのだ。

勝ち取るまでは、とてつもなく険しい道のりだったが、その分、喜びもひとしおだったことを覚えている。

一方、怪我をしている間にポジションを失ってしまった四年生が復帰後、試合に出られないことを悟り、ひっそりとチームを後にしていった姿も、忘れられなかった。島根から遥々夢を抱いて、上京して来た先輩。同じポジションだったこともあって、よく可愛いがって貰った。アドバイスをしてくれることもあれば、飯を奢ってくれることもあった。お互いの未来についても、酒を交えながら語り合った。

本当に素晴らしい先輩だったと、記憶している。でも、可哀想だとは一度も思わなかった。

それが、勝負の世界だから。俺も、やっとの思いで掴んだチャンスをみすみす逃すわけにはいかなかった。意図することなく誰かの人生を変えながら、人は生きていくのだと知ったのは、二十歳になって間もないときだ。

持っていると思っていた。運も実力も。プロになるための道が次々と舗装されていき、最終学年に上がる頃には、再びここでもチームキャプテンを任された。しかし、大学サッカー集大成の年は苦難続きだった。

というのも、大学サッカー終盤に差し掛かった九月になっても、どこのJクラブからも声がかかっていなかったのだ。結果を求め過ぎていたせいか、返って空回りし、チームの黒星に直結するミスを犯すようにもなっていた。キャプテンともあろうに、スタメンを外され、立場を失っていた。

試合に出場できなければ、クラブ関係者に向けてのアピールすらも叶わない。いよいよ背水の陣となっていた折、名誉挽回のチャンスが巡って来た。週末に行われる早稲田大学との一戦、そこで再び、お前を先発起用する。これがラストチャンスだと思え。監督からそんなお達しがあったのだ。

情に深い監督ではあったが、チームの勝利のためなら時に非常な決断も下す。彼の言う通り、ここで気の抜けたプレーをすればもう次はないだろう。そう思っていた。

試合当日、緊張感はあった。この日が人生の分岐点になるのかもしれない。だが、達観にも似た感情が、俺を強くさせた。

間違いなく、サッカー人生の中で一番のパフォーマンスを発揮した。後半八十分まで、相手に打たせたシュート本数は僅か二本。無論、失点はゼロ。まさしく、ゾーンに入っていた。

試合はスコアレスのまま、両者譲らずの展開だったが、全く負ける気はしなかった。だが、それはさしずめ、嵐の前の静けさでもあった。今にも激しい雨が降り出してしまいそうな曇天の空が、それを物語っていた。

後半もいよいよ終盤に差し掛かったタイミングで、早稲田が最後の交代カードを切ってきた。終始気を吐いていたエースに代わり入ってきた華奢な体格の一年生と思われる選手。左サイドハーフに入ったそいつは、交代するなり早々味方からボールを受けると、右サイドバックの俺と対峙した――ときには、視界にいなかった。

あっ、と言う間に縦のスペースをぶち抜かれると、単独そのままシュートを放ちゴール。一連の流れが完結するまで、およそ十秒。そいつが投入されてからの十秒間で、何の前触れもなく全てが崩れていった。

――この男は何者だ。

早稲田にとんでもないルーキーがいるという噂は、耳にしていた。前期リーグで対戦したときはまだ頭角を現していなかったのか、試合には出場していなかった。どうやら、ここ数ヶ月でブレイクしたらしい。前情報が少ない中でも、もちろん対策は念入りに行っていた。

が、奴の能力は、その予想してきたものを遥かに超えていた。

ファウルで止めようとしても、触れることすら許さないキレのあるドリブル。鋭利な刃物で、骨の髄までズタズタに切り裂かれるように、俺の死守しなければならない領域が侵されていく。これまで血の滲むような思いで培ってきたあらゆる能力が、自分よりも三歳ほど年下の者に何一つとして通用しない。

大学四年間で戦ってきた、圧倒的なスピードが売りのドリブラーも卓越した足元の技術を誇るテクニシャンも、どこかに隙や弱点はあった。初見で対峙したときに抜かれても、次に対峙したときには対応できる自信が、俺にはあった。現に、幾度となくそんな局面において、柔軟に対応してきた。その柔軟性こそが、俺のストロングポイントでもあると思っていた。

でも、今回は違った。そんな生温い理論さえも容易に覆されてしまうリアルが広がっていた。

残された十分間で、片手では数え切れないほど抜かれる度、この世には努力で埋められない差があることを知った。長い夢から覚めていくようだった。そして、試合終了の笛が鳴り終わるのと同時に、悟った。

俺の実力ではプロに成れない――と。

試合は、立て続けにその男に三点を取られ敗戦。全失点に絡んだ俺がその後、再びスタメンとして起用されることは当然なく、三ヶ月後に控えていた大学最後の大会でも使われることはなかった。

良く言えば俺に現実を見せてくれた、悪く言えば俺の夢を打ち砕いてくれた男の名は、月島瑞葵といった。四年後、横浜に入団し、日の丸を背負うことになる男との一度目の出会いは、実に苦々しいものだった。


大学卒業後は、何とかOBのツテというツテを辿って、それなりに名の知れた大手メーカー企業への内定を勝ち取った。

予期していたように、俺はプロには成れなかった。それでもありがたいことに、Jリーグの下に位置するJFLのいくつかのチームからは、声がかかった。Jリーグに比べ、世間的な認知度は低いかもしれないが、JFLからステップアップしていったチームや選手は数多く日本に存在している。だが、俺はその誘いを迷うことなく、断った。

Jリーグに進んでいった連中の背中を否応なく見てしまうのも、追いかけるのも嫌だったから。今思えば、このとき断っていなかったら、こんな遠回りな人生を送ることもなかったのかもしれない。

会社の同期は、必死に就職氷河期を乗り越えてきた連中なだけあって、ほぼコネ同然で入社した俺を軽蔑の眼差しで見ていた。でも、そんな外野のことは、どうでもよかった。

頭の中にあったのは、ただ上に登っていくことだけ。プロになった奴らを見返したいという気持ちしかなかった。そのためには、金を稼いで、社会的地位を得る。残された道は、それしかないと思っていた。

毎日、死に物狂いで働いた。上司に媚びは売りまくったし、ライバルになりそうな奴は片っ端から蹴落としていった。小学生から大学生までの約十六年間、競争の世界に身を置いてきた人間にとって、誰かを蹴落とすことは日常茶飯事の出来事で、また誰かに蹴落とされることにも何ら抵抗を感じなかった。

自然の摂理だ。負けてしまったら、何も残らない。一心不乱に、上に行くことだけを考えて生きた。行き着く果てに、何があるかなんて、考える暇も――考えたくもなかった。ぽっかりと空いた穴を埋めるように、無心に働き続けた。

過去の挫折を忘れて、ただ一つのことに没頭する。そんな日々の連続も悪くない。仕事が軌道に乗る頃には恋人もできて、生活に癒しもあった。公私共に、全てが順調に流れていた。

果たして何の因果に引き寄せられたのか、『イニッツィオ』で再び月島と出会う、あの雨の日までは。


俺が社会人クラブ・『イニッツィオ』に加入したのは、サッカー好きの上司に誘われて参加したのがきっかけだった。

サッカーとはまるっきり無縁な生活を送っていたが、心のどこかで、ボールを蹴りたいと思う自分がいたのかもしれない。断る理由もなかったため、二つ返事で練習場へと向かった。

当時の『イニッツィオ』には、それなりの経歴を歩んで来た者たち――高校時代に全国大会出場経験がある者、高卒でプロになったが通用せずにすぐ首を切られた者、はたまたどこか辺境の国の下部リーグでプレーしていた者――で構成されていたが、その中でも、本気でボールを蹴りに来ている者は、ほとんどいなかった。俺を誘ってきた上司の経歴ややる気も例に習うように、大学までサッカーをやっていて暇つぶしに足を運んでいるという感じだった。

誰もが趣味の一貫を超えていない、あくまでその程度の熱。そして少なくとも、大学時代に一日中頭を悩ませていたような、熾烈なレギュラー争いがある場所でもなかった。

週末に開催されるリーグ戦では、勝ったり、負けたり、引き分けたり、何の価値もない勝敗にみんなで一喜一憂した。県リーグに所属している『イニッツィオ』は、その先にあるJFL参入を最大のクラブ目標としていたが、実際、JFL参入なんて夢のまた夢の話。

選手層は決して薄くはなかったが、いかんせんモチベーションが低い。新たに加入した選手が数ヶ月後に退団してしまうことはザラにあり、無論、細かな戦術も存在しない。いわゆる、草野球ならぬ草サッカーのようなものだった。

そんなぬるま湯の環境でも、このチームの居心地は悪くなく、すぐに俺の新たな「居場所」となった。それは単に、似たような奴らが集まっていたからかもしれない。ここは、どこかで夢に躓いてしまった者たちが最後に行き着く終着点――と、誰かが言っていた。

だが、二十代も後半に差し掛かると、徐々に一試合走れない体に変貌を遂げ始めた。

九十分間から六十分間に、六十分間から四十五分間に。ピッチに立てる時間はどんどんとすり減っていき、遂に試合に出られなくなってしまったのだ。ベンチでサポート役に徹し、試合勘もなくなっていく一方だというのに、悔しいという感情は一切湧き起こらなかった。例え、現役のときの自分と比べ、取るに足らない実力の者にレギュラーの座を奪われたとしても、唯一サッカーと自分を繋げてくれる、この場所に縋っていたかった。

未練がましい思いを抱えながら、気がつけば、『イニッツィオ』で古株の人間にもなっていたのが加入して五年目の春。自然と周りから頼られる存在になり、ここでもキャプテンと呼ばれる役職に就任していた。そしてほぼ同時期に、恋人との婚約も決まった。サッカー選手に成れなくても、悪くない人生だと思っていた。

そう思うときは大抵、予期せぬことが起こる前兆でもある。

禍福はあざなえる縄のごとし――なら、災難ではない。幸運だった。

なあ、月島。確かにお前は俺の人生を狂わした。強烈な熱に、俺は争うことができなかった。人に、環境に、お前は問いかけた。

現状のままでいいのか――と。

これからも、その熱は、確実に誰かの人生を狂わしていく。でも、世界を変えていくのはいつもそんな「狂った熱」なのかもしれない。


元号が変わる前の年の春先。その日は、雨が降っていた。

電話越しから伝わってくる声は、雨の音で掻き消されてしまいそうなのに、強い芯が通っていたことを覚えている。かかってきた電話の内容は、『イニッツィオ』に入団したいとの旨を伝えるもの。電話主の男の名は、月島と言った。聞き覚えがある名前だったが、まさかあの月島だとは思えなかった。

「改めまして。私、『イニッツィオ』でキャプテンを務めている大沢と言います。担当の者がもうすぐ来ますので、それまで少しお待ちください」

待ち合わせ場所のファミレスは、降りしきる雨の影響から閑散としていて、俺と月島しかいなかった。

「月島さんでよろしいですか?」

テーブル席に腰掛ける月島は、軽く会釈をすると、深々と被っていたフードを取った。取った瞬間、俺は固まってしまった。

あのときの月島だった。年は取っていても、当時の面影がある。忘れようとしていた、現実を突きつけられた日の出来事がまざまざと蘇ってくる。

男は、かつて早稲田の怪物と謳われた月島瑞葵だったのだ。

「入団したいとのことで、まずどうしてウチに?」

内心取り乱してはいたが、何とか平静を装う。もちろん、向こうは俺のことを覚えていない。

「練習場所と日程が、条件に当てはまっていたからだ」

「そう…ですか」

動揺の余り、俺は単調な返事しかできない。

「…昨年の冬に北九州との契約が満了になって、それから、色々な社会人チームに顔を出してきた」

「Jリーガー、ですか。それは、凄いですね…。ちなみに、北九州より前に所属していたチームは?」

詮索されたくない過去なのかもしれない。だが、目の前の男の経歴について、俺は聞かずにはいられなかった。この期に及んでも、同性同名の線を捨て切れなかったからだ。

「愛媛、新潟、そして横浜にいた」

横浜――その言葉を聞いて、やはり、あの月島瑞葵なのだと再確認する。JリーグやJFLのクラブからクビを切られて、流れ込んでくる選手は極々少人数いた。しかし、ここまで多くのプロチームを転々としてから、『イニッツィオ』に入団志願する者は初めてだった。しかもよりによって、どうしてあの月島が? 

大学卒業後、入団した横浜ですぐさま主力に定着し、プロ一年目で日本代表に招集された期待の新星――そこまでは、俺も知っていた。また、これからの日本サッカー界を牽引していく一人になる者が突如として現れたのだと、世間が騒いでいたことも。

あるときを堺に、全く月島の名前を聞かなくなったのは、確かだ。日本代表にも呼ばれなくなり、たまに見るJリーグの試合でも見なくなり、やがて記憶から抜け落ちていった。月島は、忽然とサッカー界から姿を消したのだ――

何故、栄華を知るこの男が、ここに行き着いてまでサッカーを続ける道を選んだのか、そこまで俺は詮索しなかった。

歩んできた道や境遇は違っても、サッカーから離れることができない人間、同じ人種だと思ったから。『イニッツィオ』は、そういった人間の集まる場所だったからだ。俺もまた、ここがそんな人間たちの拠り所であって欲しいと願っていた。

けれど、蓋を開けてみれば、月島はここにいる誰とも違った。もちろん、俺とも。理解しているつもりだった。月島の想いを、苦悩を。葛藤を。プロの世界で生きてきた人間が、どれほどの想いを抱えて、ここに来たのかという覚悟も。


月島が来て、『イニッツィオ』は変わった。最初こそみんな、日本代表経験のある元Jリーガーがやって来たと大いに湧いたが、それも数カ月の間だけだった。時間が経つにつれて、月島は徐々に浮き始めていったのだ。

浮き始めた理由は、実に単純明快。あらゆることに手を抜かなかったからだ。練習前に行うウォーミングアップの走りでさえも、常に本気。軽いパス回しで、トラップミスをしてその流れを止めてしまった者にも、容赦なく叱責した。月島にボロクソに怒られて練習に来なくなった選手は、少なくない。居残り練習をする意識の高い奴なんてほとんどいなかったが、月島は毎日ボールが見えなくなるまでボールを蹴っていた。当然、週一で開かれる飲み会にも顔を出さないストイックぶりだった。

「月島さんって、マジで空気読めないよな。元代表のプライドか何だか知らないけど」

「まあ、そう言うけどさ、せめて俺たちだけには、いい顔をしていたいんだろう。所詮、プロの世界で生き残れなかった劣等感の塊みたいな奴だからな」

月島が来ない飲み会は、本人がいないのをいいことに、多くのチームメイトが日頃の不満を吐き散らかしていた。

「大沢さんからもガツンと言ってやってくださいよ。ガツンと。こっちは、大概迷惑してるんだって。キャプテンの言うことなら、あいつもきっと聞くだろうし」

アルコールが入っているせいか、一度文句を言い始めたら止まらない。酒は、人の思いを丸裸にする。俺も酒は飲んでいたが、最小限に留めていた。社会に出てからは、それに飲まれて、チャンスを棒に振ってきた連中を腐るほど見てきたからだ。

上手く生きていくためには、酒と適切な距離を保たなければならない。これまで保って生きてきたからこそ、このような状況でどんな返事をすれば相手が喜ぶのか、冷静に考えて答えることができる。組織で生きていくための知恵は、充分に身に付けているつもりでいた。

だが、俺は彼らが望むような答えを口にしたいとは、思えなかった。仮に、その答えが既に頭に浮かんでいたとしても、それだけは、どうしても口に出したくなかった。

試合では、月島にパスが回ってこなくなり、誰もがいない者として扱った。当然と言えば当然の報いなのかもしれない。『イニッツィオ』は、本気でサッカーをしたい奴が来る場所ではない。明らかに場違いだった。遂には、その反乱分子をどうやってこのチームから追い出すのか、ミーティングが開かれる始末にまで至ったが、「辞めてくれ」と直接本人に言えるはずもない。規律違反に触れたわけでもないのだから。月島は、ただ本気でサッカーをやっているだけなのだ。

そして俺は、気づき始めていた。この現状に、形容し難い息苦しさを覚えていることに。


「――なあ、月島。何でお前はいつもそんなに本気なんだ?」

練習終わり、ただ一人グラウンドに残って、ボールを蹴り続けている月島の背中に俺は尋ねた。その日は、雨が降っていた。月島とファミレスと再会した日と同じ、激しい雨が。

ボールを蹴っている本数は、優に百を超えているはずだったが、全くボールの精度は落ちない。しばらく蹴り続けた後、月島は、肩を大きく上下させながら、振り返った。

目が合った。その瞳に、飲み込まれてしまいそうだった。

「……これしかないからだよ、俺には」

足元に鋭いボールが転がってくる。月島のパスは速く、異常に重い。

「これでしか、このボールでしか、前に進むことができない。他の何かでは、満たされないんだよ。抗うことが意味を成さないとしても、抗うことをやめてしまえば、その瞬間、俺という人間が俺ではなくなる。あんたには、ないのか? とうの昔に賞味期限が切れていたとしても、絶対に捨て切れないものが」

雷がどこかに落ちた。どこか遠い場所に落ちたはずなのに、まるで自分の体に落ちてきたような衝撃が走る。この衝撃は、何よりも熱く、そして痛かった。

どれだけ手を伸ばしても、もう二度と手に入らないものがあった。

それを手にするのには、時間も体力も才能も、既にない。分かっていても、しがみついていたかった。気づいた頃には、しがみつく現状に甘んじている自分がいた。

いい歳をして、本気でサッカーをするなんて馬鹿らしいと言うのに。本気でやっても、新たに入ってくる若者に勝てる身体でもないと言うのに。いつしか、勝負の世界から降りていた。本気にならなくても、居場所さえあればいい。本気でやらなければ、競争に負けても言い訳ができる――そんな小学生みたいな言い訳が、常に俺の頭の中を占めていた。

ずっと俺は、そう自分に言い聞かせ、楽な方に逃げてきた。

大学四年のときの早稲田戦で、月島に現実を突きつけられたから? JFLのクラブに誘われたとき、プロになった連中の背中を追いかけるのが嫌だったから? 

違う、そんな理由で諦めてきたわけではなかった。心のどこかで恐れていたのだ。本当の自分と向き合うことを、可能性に賭けることを。綺麗事ばかり並べ、本当の自分から逃げてきた果てに残ったものは、一体何だ。

結局、俺は、今の俺に一ミリたりとも満たされていなかった。仕事に没頭していても、麗しい婚約者がいても、それらは全て取るに足らない気休めでしかなかった。

もしも、全てを捨てる代わりに、どうしても一つだけ欲しいものが手に入るのだとしたら。

胸に問いかけた。問いかけたが、やはり、俺には全てを投げ捨ててまで手に入れる覚悟など、持ち合わせているはずもなかった。

「――最近、疲れてる? 上の空みたいだけど」

自分では正常だと思っていても、実際、俺は日常生活の中で月島に影響を及ぼされていたのかもしれない。最初に異変に気づいたのは、婚約者である彼女だった。

「式も近いんだし、あんまり頑張り過ぎないでね」

「…ああ、わかってるよ」

一ヶ月後に挙式を控えていたせいもあってか、俺の些細な変化にも敏感だった。

「そう言えばさ」

「ん?」

「サッカー、そろそろ辞めるってこと、皆さんにちゃんと伝えなきゃね」

 その言葉に、俺は固まってしまった。

「ほら、式を挙げるまでって約束じゃない。土日は、お父様たちのところにも顔を出さないといけないし、これ以上続けるのは無理よ」

彼女は、勤め先における重役の一人娘だ。その重役に気に入られていた俺は、娘を紹介され、ほぼお見合いみたいな形で知り合ったのだ。そして、無事彼女にも気に入られ、めでたく結婚を迎える。今後の会社でのポストも安泰。しかし、唯一懸念点があるとすれば、彼女も彼女の両親も、俺が社会人チームに所属しているのを気に入っていないということだった。今までは何とかかわし続けてきたが、もうそれも通用しそうにない。

もし、これ以上サッカーを続けるという選択を取るならば――いや、そもそも、そんな選択権は最初から俺にはなかった。

「好きなこと」と「裕福で安定した幸せ」。

どちらを選択するかなんて、端から決まっているはずだ。元々望んでいた優れた社会的地位は、すぐそこだ。議論の余地すらない。そうであるのに、揺れ動いてしまうこの感情の正体は何だ。

「このスフェーンの指輪、やっぱり、お父様たちにも凄くウケが良かったよ」

彼女は、そう言いながら、左手を大きく見開く。小指には、万華鏡のように神秘的に輝くグリーンの指輪。俺が、婚約指輪として渡したものだ。

「スフェーンの石言葉って、知ってる?」

手の甲と平をくるくる回す度、それは多彩な顔を現し、妖しく光る。

「スフェーンにはね、『人生を変えてくれる』っていう意味があるんだって。それに他には、『永久不変』。凄く素敵な石言葉だと思わない?」

ここ数ヶ月で起きた、人生を変えてくれるような出会いも、気づいた永久不変の思いも、これから歩んでいく日々の生活においては不要だった。


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