すでに奪われてしまった私たち

このnoteがXのタイムラインに上がってくるまで、平野さんのことは存じませんでした。
だから読み始めてすぐは、またAIへの愚痴文章なのか、と半ば辟易する思いがありました。
しかし違ったのです。
そんな安っぽいものではなかったのです。

もはや事態は愚痴の段階にはない。このnoteに切実に著されたのは、職業人によるひとつの詩でありました。
丁寧な比喩表現と豊かな言葉選びからは平野さんの翻訳業通訳業のキャリアをうかがうことができ、マクロな経済構造にまで目を向けた分析からは職業人としての冷静さとプライド、そして落胆が感じられました。
そうして、この詩がただ表すのは、ただもう手遅れであるその一点でしかないのです。皮肉なことに、noteの記事執筆画面の下部には常に「AI」のボタンが構えています。AIに仕事を奪われた職業人の話であっても、AIによる「サポート」は可能なのです。それほどまでに手遅れなのです。

私自身は大学でスペイン語を専攻し、会社員として働いていた時には業務として翻訳作業をすることもあった身です。文学を志す気持ちは今も消えていません。
そんな私にとって、このnoteはただ読むだけでも痛みを伴いました。私の姿がそこに描写されていたからです。
すでに私は学び培った言語能力に頼るのをやめてしまっていました。
英文記事はまず流し読みしてからAI翻訳に通し、英文のメール表現が不安なときはGPTに添削をお願いしました。私は言語を学ぶ道を一度は選んだにも関わらず、自ら翻訳文への期待の水準を下げる側に回ったのです。

「The Catcher in the Ryeは野崎孝訳だよね」

なにか知ったような口振りでそんなことを言っておきながら、私は現在ある翻訳業を自ら軽んじていたのです。目を背けてきた自戒はこの詩のメッセージの一つでした。

今日1月2日の昼頃、このnoteへのリンクが貼られた平野さんのポストに「冗長である」とか「読みにくい」といった引用リポストがいくつも付いているのを見ました。
「冗長だったのでAIに翻訳してもらいました」
という悪趣味なものまでありました。

もはや怒りを覚えることすら虚しい。
ただ虚しさに満ちました。
もはやAIは奪ってしまっているのです。
翻訳業を?稼ぎ口を?いえ、そんなことではないのです。
すこしでも平野さんのnoteを読み進めれば、これがわかりやすさや具体的な改善を求めた提言のようなものでないことはわかるのです。散りばめられた表現の数々はそれこそが人間性の証明です。AIが削ぎ落とされたわかりやすい文章を生成することを使命とするなら、重ねられた表現の繰り返しに人間性を希求することは人間性の証明であり抵抗です。そしてそれこそ、私が平野さんによる詩として勝手ながら受け止めたものだったのです。
しかし、すでに意図を汲む余裕もなく、ただ冷笑の態度を持って平野さんのnoteは扱われてしまっています。
もはや効率化の果てに、文章が意図したいことを汲み取る余力すら、彼らからは奪われてしまっているのです。

私はAIを否定しません。
AIがもたらした革新性は蒸気機関であり、ジェットエンジンであり、電算機であります。否定するどうこうの話ではなく、もうあってしまうものなんです。
ただ、そのAIが出力するデータの元となるのは膨大な労力と多額の費用が何十代も積み重なった上での集合知であり、今日もその集合知に新たな1ページを書き添える職業人は確かに存在するということです。

どうかこの一文を読む余力が幾人かに残されていることを願います。

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