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フィードバックという名の戦いについて考察

それはきっと絶対的な善ではある。

人間は社会的な生き物だし、
「わたしがわたしであること」
の一要素として、他者の存在や他者の視点は確かに存在するから。

「あなたは、XXXですよね。」
「あなたは、(わたし(たち)に)こういう風に思われていますよ。」
というコミュニケーションが、「わたし」をつくっていく。

(逆にいうと、他者がない状況下において「わたし」がどうなるのか?それはそれで、追求したいテーマである。)

とりわけ、会社のようにミッションに向かって個人が存在しているような組織においては、
「個人がその達成のために有用な存在であり続けるための能力の開発や生産性の向上」
が必要なので、
フィードバックは善なものであり、
上司・部下間やチームメンバー間、「360度評価」なんて言って、仕事を一緒にした複数人から、
「あなたは、XXXですよね。」
ということを言われるのは、健全な(あるいは、イケてる、成長スピードの速い)会社であればあるほど、
デフォルトとなっていると思う。

でも…

正直なところ、わたしはこのフィードバックについて、
最近、疑念をもっている。

フィードバックが、どんな状況においても善なのか?

たぶん、否なんじゃないのと。

というのも、
「フィードバックします」
と言われて、語られる内容が、なんともしっくりこないことが続いて、
どうしたものかなぁ、という気持ちになったり、
「フィードバックしますね」
と言って、語る内容が、何か絞り出しているような無理矢理感、あるいは、押し付け感があって、
なんだかなぁ、という気持ちになったり、
そういうことが、
度々、あって。

フィードバックを受けるとき、
自分を構成する大事なピースになるはずの言葉が、
ぽろぽろとこぼれていったり、
あるいは、
トゲのように刺さったまま、違和感または痛みを残してそこにあるような感覚は、
とても切ない。

同様に、わたしのフィードバックによって、
そういう風に感じている人がいるとすれば、
それもまた、とても切ない。

もちろんわたしだって、
フィードバックは大事だとは思っているのです。
そして、フィードバックしたいとき、されたいとき、というのは確かにあるんです。

仕事に関して言えば、
仕事を一緒にした仲間(お取引先など含め)に、いいことも、わるいことも、正直に話をしておきたい気持ちになり、
時間をお願いしたり、あるいはメールなどでそのことをお伝えしたりすることは度々あります。

同様に、自分の取り組みや能力、態度についても、そのアウトプットやプロセスに対して、客観的にどう見えるのかは知りたい。

給与や職位のようなものに反映されているものと、
そうでないものの、どちらも。

でも、
友好的な顔をして、
実は「暴力的なフィードバック」というのが存在するのではないかという疑いが、
このところ濃厚です。

つまり、「断ることもできない、反論もできないフィードバックは、一体誰のものなのか?」という疑問。

しかしながら、フィードバックは善、の雰囲気(デフォルト)の中で、
「そのフィードバック、違うと思います」
とは言いづらく、
つまり、フィードバックとは一応、「客観的な事実を伝えられるもの」であるから、
「なるほど、そういう風に見られているのか」
とこちらも受け止めるのが、「マナー」とされており、
「そうですね」「なるほど」「わかりました」…

さらに、そのフィードバックに、
「○○した方がいいんじゃないか?」
という客観的事実というよりもはや相手の主観的アドバイス(コンストラクティブフィードバック、ともいう)が入っていた場合には、
「そうですね」「なるほど」「わかりました」に加え、「やってみます」
なんていう、さらに一段階進めた「ポジティブリアクション」をしなくてはならず、
心の中で、
なんか違う、それなんか違う、
というモヤモヤが渦巻いて、
でも、受け止めないと、「フィードバックも素直に受け止められないネガティブな人」というレッテルを貼られそうな気がして、
それが嫌でヘラヘラしているうちに、
疲れてくるという、スパイラル(危険だ!)。


自分が疲れるのも嫌だけど、誰かを疲れさせてるとしたら… 

恐ろしいこと!!


そんなわけで、
まずは素直に受け入れるのがよし、とされるフィードバックについて、
すんなり受け入れられるときと、受け入れられないときと、
その違いがなんなのかを、ここのところずっと、自分なりに考えている。

自分が歳を取ってきて、頑なになったとか、
そういう、「原因自分論」をいったん排除してですね…

だいたい、こんなところでしょうか:

・両者が「分かち合っているはずの」目標や目的が明確なのか
・(フィードバックをする側として)相手の(人生、または人生の目標や目的を達成するひとつの手段として今そこにいることにおいての)目標や目的、背景(バックグラウンド)、価値(観)を明確に理解しているか
・両者に信頼関係があるのかどうか
・両者にリスペクトがあるのかどうか

きっと会社でありがちな状況は、
・「分かち合っているはずの」目標や目的が案外にふわっとしている
・(フィードバックをする側として)フィードバックする相手の目標や目的、背景、価値観を理解していない、
・信頼関係が構築されていない(または、一方的である)
・リスペクトがない(または、一方的である)

例えば、オットとの関係においても、
「ちょっと話したいことがある」
と言って、「フィードバック」すること、ありますけれど(怖がらないでください)、
どんな家庭にしたいとか、
お互い人生にどんな希望や期待やプライオリティを持っているとか、
そういうことを知っていて、
当然ながら(ということに!)信頼しており、
リスペクトもしている(から結婚した!)、
だから、いろいろなこと、話すことができるのだと思う。

夫婦に限らず、
恋人、友人(親友、と呼べる人ならなおさら)、親子とか、先輩後輩とか、
長続きする間柄にはそういう前提が共通してあるのではないかと思う。
会社だって、同じだと思う。

「ビジョン・ミッション・バリューに共感して同じ組織にいる(んだからその辺理解しているはず、または、すっ飛ばしても大丈夫、嫌なら辞めたっていいですよ)」
という根拠のない自信や安心や甘え、
あるいは、
「上下という立場(なんだから、そういう前提の一つや二つ、すっ飛ばしても大丈夫、まずは黙って聞きなさい)」
という粗雑さがあるのではないだろうか。

(その結果、「つもり」がなくてもパワハラになっていることがあるのかもしれない。特にフィードバックは、「相手のためを思って」なんていう偽善的要素が加わるわけで。)

「フィードバックを気軽に、風通しのいいリレーションをつくっていこう」
というのは聞こえがいいけれど、
それが本当の意味で実践されるのには、
その前提となる要素への理解があることや、人間的関係が構築されていることが、大切なのではなかろうかと、思うのです。

「その人(たち)」と一緒に「それ」を達成していきたいという、本当のぶつかり合いが、
フィードバックには、常にセットでくっついてくる。

フィードバックする側としては、「そこに愛はあるのか」にも近いかもしれないし、「その目的や目標は、真にクリアなのか」「明確に共有されているのか」、という自分自身または自分の能力への対峙かもしれない。

それって、結構な戦い。

そんな気楽なもんではありませんぜと。

とりあえず、自分の肝には銘じよう。

そのうえで、
フィードバックする立場の場合には、相手と、その戦いをするのかしないのか、

受ける立場の場合には、受けて立つのか立たないのか。

それを決めるのは、自分で、それはつまり、どこで誰とどのように生きて(仕事して)いきたいのか、ということにもつながるのだと思う。

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