頷く器
頷くことと愛情は答え同士。やっとの思いで打ち明けた話を誰かが頷いてくれると、それだけで一人で抱えてた気持ちが大きく包まれる。一語一句、理解して欲しいわけじゃない。頷く姿の奥にきっとみんなそれぞれの考えがあるのだろうけど、それを抱えて頷いてくれてるのだからその動作には大きな愛があると思う。
"愛ある態度" の中に心が対立して行き違ったり、ぶつかったり弾きあうこともあるけれど、生き物はみんな生き物の数だけ自由に "愛" を表現できるからいいなって、誰かに触れるたびに気づかされる。
"愛故に"
愛故に、そのあとにつづく感情にどんな名前をつけようか。優しさ 、 服従 、 憎しみ 、 温かい 、冷たい?、おいしい?愛はどんな感情でも引き起こして、連れて回る。
たとえば、愛故にうまれた憎しみがいつまでも消えないとき。たとえば、愛故にうまれてくる温もりがあるとき。愛故に、その心たちをどう動かしていくことが最もふさわしい愛の形なんだろう。
愛にきめられた形はなくて、愛の表し方はいのちの数だけあって。私には歪に見える愛の形を、心地良いとわけあえるモノ同士がいたなら私はなにも言えないし、どうして?と、投げかけて自分の考えに当てはめようとすることもできない。生きものそれぞれの受けとめる心の器の形がちがうから注がれた疑問や答えがぴったりハマらないこともあって。それだけのことを、それ以上に考える必要もないみたいで。
みんながちがう色や形の心の器を抱えて生きているのだから、せっかくだしみんな並べて見てみようか。街ゆく人の姿が色とりどりに見えはじめると触れ合うことをきっと美しいと感じはじめて、私も色とりどりの器たちの中のひとつだと思えたら、もっと胸を張ってここに立ち続けられる気がする。
ひとつひとつの違いに頷けたら、それ以上に丁寧な生き方はきっとない。丁寧に生きていきたいよ。
"どこかで"
毎日毎日、当てはまらない答えを注がれつづけた器があったとして。その器がピキン と弾ける音を合図に、小さくひびをつくっていたなら、その器はひとりでにひびから漏れてゆく心を静かに見送っているのだろうか。どうしようもなく、どうすることもできず、やっとの思いでひびを繋いでもいつかは必ず溢れて、ついに弾けてしまうだろう。やがて真っ二つに割れた器は、自らの中から出てきたものたちと混ざり合って陽の届かない場所で横たわっているのだろうか。
私がその器だとしたら、誰かが見つけて金継ぎしてまた使ってくれるだろうか。私がその器なら、誰かに気付いて欲しいと声をあげられるだろうか。私がそんな器を見つけたらどんな声をかけることができるだろうか。
一度壊れたものは、元あるようには戻らなくとも、新しくやり直せるだろうか。新しくやり直す必要はあるのだろうか。
諦めの先に見える許しは、器を、わたしを、次の場所へ送り出してくれるものなのか。
悲しい気持ちが心やからだを操る日は、いっそのこと目を閉じればいい。やり方を忘れたときは全て脱いでしまえばいい。 私たちは一つ一つ形が違うのだから仕方ないでしょう、私たちは形を変えながら形になってゆくのだから仕方がないでしょう。
ぶつかり合ってひび割れて水を漏らしてはいけないの。私を咲かせるためにある水の豊かさに気づいたなら、器に浮かぶ花のささやかさを見落とさないように。
思いが欠けたり満ちたり、くだらなさまじりに"愛"が実りつづける日々のなかで、ほんとうの豊かさを教えてくれたあの頃と同じ音が今も頭の中で続いてる。
月並みの日々をまぶたの裏でくりかえし辿る、小さなアイデアを大きな愛に変えるひとの姿をいつも見ていたから私はあれからやってこれたよ。あなたの作るすべてが好きだった。
前を歩く後悔があるから歩いてこれたんだ。あなたはそう言って笑っているけれど、きっとあなたは、あなたを越えていく。そんなあなたを想うと、私も後ろめたい過去も思い描く未来もきっとひと繋ぎだと思えて大丈夫になれたの。今でもそう。
あの頃、頷けなくて、弾きあってしまった頃のことを今でも思いかえす。少し恥ずかしいけれど、少し情けないけれど本当のことさ、後ろめたさが前をむかせてくれる私の性格。
おわりとはじまりを繰り返したどる、子どもと子どもがであったら二人でおとなになればいい。もしもあなたのすべてがこぼれ落ちたら、繰り返し子どもになってはじめようよ。遠くにいても離れてしまっても、やっぱりずっとどこかで尊敬したままでいられるあなたへ。あなたへ、くだらなさまじりの幸せがずっとふりそそぎますように。私は私の水をあたためて過ごしていきます。