
陰ミラー(三)ー義経東下り外伝ー
その日、静様は食事を食べようとしなかった。
「静様、先ほどは申しわけございません。機嫌を直して、食事をお召し上がりください」
静様は何も言わない。少し汚れた頬を、焚火の明かりが、まだらに染めている。
「有綱、やっと、あなたの言葉で話してくれましたね」
静様はそういうと、少々の粥が盛られている椀を手に取った。
私の記憶では、私の願いを静様が素直に聞き入れてくれたのは、これが初めてだ。
このとき、ようやく私に、この人を守ろう、という気持ちが芽生えた。
静様は、いくぶん落ち着きを取り戻したように見えたが、その眼は吊り上ったまま。
自身の激しい感情の出入りに、顔面の筋肉が置き去りにされている。
「有綱、あなたは、言葉でわたくしを縛り付けていたのですよ。今日やっと、解放してくれましたね」
「そのようなつもりは」
「援軍など来ない、と言ったではありませんか。あなたの口からその言葉が出ることを、待ち望んでいました」
私は、本心に本心で答えた静様に、初めて心が触れたように思った。そして、素直に謝った。
「静様は我が君が助けに来ると信じていたのに、私は酷いことを」
私の言葉に、静様は自嘲気味に笑ってから、言った。
「信じたい気持ちは今でも変わりません。しかし、もう季節も変わろうと言うのに、軍勢どころか、捜索の使者さえ来ません」
静様は俯き、私の言葉を待っている。
私は少しの間葛藤した。武家にとっての本質を話すべきかどうか。恋愛感情で動く武家の棟梁などいない。武家が動くのは、自分の命が危険にさらされた時、そして、領地の利権が絡んだ時しかない。
今の静様なら聞いてくれる、と思った。
「私たちには、領地と軍が無いからです」
「でもわたくしは、殿に愛されて、います」
「そうでしょう。我が君は静様を愛していた。しかし、鎌倉殿は我が君に討伐軍を差し向けた。鎌倉殿にとって、静様の価値はなんでございましょうか? 我が君が連れて行かれた郷様は鎌倉殿の命によって正妻にされています。我が君は鎌倉殿の許しを得るために、郷様の口ぞえが必要なのではないでしょうか? そして静様は、郷様から見ると恋敵…… 静様を連れてゆくと、我が君は、鎌倉殿との和解の道を自ら閉ざす事になってしまう」
「わたくしとの愛より、鎌倉殿の怒りを鎮める方を取った、ということですか?」
「はい。それが、武家というもの」
「有綱は冷静ですね」
「私とて武家ですから。祖父からそう教わりました」
「武家に忠誠心を求めてはなりませんか?」
「保元、平治の頃は朝廷に忠誠を、などという風潮もあったようです」
静様は焦点の定まらない瞳を、私に向けた。
「有綱、わたくしに忠誠を誓ってはくれませんか?」
「できません」
私は即座に答えた。生まれも立場も、価値観も違う静様。そして何よりも、”御恩”が無い人物に、忠誠を誓う事などできようはずもない。
私の返事を聞くと、静様は口元に少し意地の悪そうな笑みを浮かべた。
それは、焦点の定まらない瞳とつり合いが取れているとは言い難く、私は恐怖を覚えた。
静様のうつろな瞳の意味するところは、私の話があまりに絶望的で毒々しく、飲み込めないでいる表れだ。しかし、右の上唇だけが吊り上った表情の意味を、私は理解しかねた。
「有綱、元服はまだでしたね?」
「は?」
予想外の質問だった。洞窟内で絶望的な話をした、この状況である。
「元服の途中で、平家に奇襲を受けましたので……」
少し、どもりながら答える。
「だから前髪を垂らしたままなのですね。可愛いですよ」
「は?」
静様のゆがんだ笑いから出た、可愛い、という言葉があまりに不釣り合いに聞こえた。私の中で、さらに恐怖が増した。
「それで、元服はどこまで進んでいたのですか?」
元服は八幡神社で行った。神主が祝詞をあげていた。平家の奇襲があったと知らせを受けたのはそのときだ。奇襲がなければ、私が禊を行い、髪を切って結い、宴が催され、酒を口にする。そして夜を迎えたら、初めて女性と同衾する予定だった。
「祝詞をあげていただきました。私はそれで元服は済んだと思っています」
クスっと、静様が嘲るような笑い声をあげたので、私は話を中断せざるを得ない。
「初めて同衾する予定の相手は、どなただったのでしょうか? まあ、せいぜい乳母とか、叔母とか身近で、年上の女だったのでしょう?」
静様の言葉から、我が君の側室という奥ゆかしさが消えて白拍子に戻る。
私の相手は乳母の予定だった。武家の子息は皆同じようなものだと聞いたことがある。
安心して同衾でき、かつ経験豊富な女性。そのような女性はそう何人もいるものではない。
私の元服が決まった日から、乳母の態度はよそよそしくなり、それに反して私を見つめる瞳に熱を帯びていくのを感じていた。
しかし、戦の後、乳母の消息は途絶えたままだ。